第10話「地獄」

 「遥⋯⋯ ここは、この世の地獄だ」

 果てしない葛藤と困惑にさいなまれる日々で、涙はもうとっくな枯れていた。

 自己嫌悪と後悔は苦痛を通り越して、怜の心は抜け殻になっていた。


 「⋯⋯走らなきゃ」

 夢と現の混在した怜の意識の中で、怜を繋いでいるのは遥との約束だけだった。

 遥とよく行った、河原のモトクロスコースを朝から晩まで走った。

 土砂降りの雨の中で、雪でぬかるんだ泥の中でも。

 寒さも、痛みも、もう何も感じなくなった。

 身体が悲鳴を上げても、心があげる悲鳴より痛くはないかった。

 身体の疲れは、怜を眠りを誘ってくれる。

 眠っている間は、何も考えずにすむ。

 くる日も、くる日も、へとへとになるまで走り、遥を想って泣きながら眠った。


 冬が終わる頃、地獄のような日々は、怜の全てを作り変えていた。

 春、シーズンを迎えた最初のレースで、茂樹は別人のようなスピードで走る怜に驚愕する。

 その一点の濁りのない、ただ走るためためだけの存在になった怜に、茂樹は畏怖の念を抱いた。


 人はどんな犠牲を払えば、其処へたどり着くのか、茂樹は考えずにはいられなかった。


(2月3日)

「遥へ

 「負けられない」その一念だけだった。

新しいシーズンが始まる2月だ。

僕にはもう何も残っていない。

君と別れて、友人も家族も何もかも失い、

僕にはもう、走ることしか残されていない。

君が望んだとおり、僕はたった独りで戦うしかない。

 孤独の中でも、君は僕を支えてくれた。


 「あんな別れをしてまで進む道だ、絶対に負けるわけにはいかない」

 自分の持っているすべてを、先のことなど恐れず、ただ今にすべてを注ぎ込める勇気を僕は手にした。


 僕の中に鋼色の僕がいるんだ。

 艷やかで決して傷つかない、揺るがない。

 鋼鉄の僕がいる。

 沢山の想いを踏みにじった。

 心を失い、眼の前の転倒者を踏みつけて前に行く事もある。

 いま僕の心は、闇の中に在るのかもしれない。


 君を守る約束は果たせなかったけれど、

 今日も僕は全力で戦っているよ。

 もてるすべてを出し切って、挑んでいるよ。

 この先に何が待っていようと、

 君が望んだように、

 僕は最後まで果敢に戦い抜くから。

 怜」


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