第9話「約束」
(1月5日)
「遥へ
たぶん、俺はもう狂っているのかもしれない。
君を失って、胸に穴が空いて塞がらないんだ。
毎日、毎時、毎分、毎秒⋯⋯、流れ出る血が止まらない。
苦しい。苦しいよ。
怜」
その夜、怜は夢を見た。
遥と過ごした、楽しくて、温かい、小さな幸せが詰まった日の夢を⋯⋯
怜が2度目のレースエントリー。
公式戦、初めての予選通過だった。
劣勢のヤマハ車最高位の予選組トップでチェッカーを受け、全体の4番手、
「怜、凄い!! 予選E組トップだよ!」
コースゲイトに戻ってきた怜を迎えに来た茂樹と遥が、興奮した口調で怜を称えた。
怜から受けとったマシンをピットまで押しながら、茂樹が誇らしげに言う。
「遥、君の彼氏はヤマハ最速の男だぜ!」
「うん! うん!!」
怜のヘルメットを抱え、満面の笑を浮かべた遥は何度も頷いた。
レーシングスーツの胸元を開けて汗を吹きながら、二人の後をついていく怜にとって、この瞬間がレースをしていて最も嬉しい時間だった。
この遥の嬉しそうな笑顔を見るのが、怜にとってレースする理由になっていた。
遥は怜がくれるものは、どんな物でも心から喜んでくれた。
くったくない笑顔で、本当に嬉しそうに、怜にもらったものを、友達や両親に自慢して見せる。
だから怜は、つまらないものを贈って喜ばれるのが酷く恥ずかしかった。
怜は、遥の誕生日が近づくと何を贈ろうか、いつも頭を悩ませていた。
そんなある日、怜はチームの遠征に参加する事になった。
東北のサーキットで行われる地方選手権に参戦するためだ。
遥はその日、遠征に行く事ができなかった。
父親の看病をしなければならなかったが、その事は怜には内緒だった。
遠征に出発する日、遥はチームのトランスポーターを見送りにきた。
「怜、みんな、頑張ってきてね。
今回私は行けないけど、応援してるから」
そう言うと、遥は大きなタッパーに入ったお弁当を怜に手渡した。
まだ温かい弁当箱には、怜の好物の具ばかりを握った熱々のおにぎりがぎっしり入っていた。
見送る遥の姿が見えなくなって、おにぎりを食べ始めると、手拭きのお絞りと、小さな手紙が添えられていた。
手紙には、行けなかった残念な気持ちと、戻って来たらレースの結果を話してほしいと言う内容が書かれてい。
怜はそのレースで初めて入賞し、トロフィーを手にした。
その日の内に遥に見せたかった怜は、表彰式が終わると急いで帰路についた。
その日は、遥と怜が交際を始めた記念日だったからだ。
きっと遥は待っている。彼女に初めてのトロフィーを見せたかった。
しかし、怜が遥の家の前に帰り着いたのは、日付が変わる5分前だった。
怜は灯の消えた遥の部屋をしばらく見上げていたが、彼女の部屋に灯りが点くことはなかった。
翌朝、遥はいのいちばんで怜の部屋にやって来た。
怜は、いつものように寝たフリだ。
ゆすり起こされ、
「レースどうだったの?」と心配そうな遥の問いかけに、怜は恥ずかしくなって、何も言わずに床に転がして置いたトロフィーを指さした。
「⋯⋯!?⋯⋯!!!! 怜!
これって!! トロフィー!?」
「⋯⋯ まあ、そうかな」
遥は自分の事のように喜んだ。
お祝いをしようと、寝ている怜にせがんだ。
花が咲いたような遥の笑顔が、怜の心に焼きついた。
「怜、このトロフィー、⋯⋯私にちょうだい」
遥が初めて怜に言うワガママだった。
怜がトロフィーはサポートしてくれたレーシングチームに渡さなければならないことを説明すると、遥は酷く落胆した。
かわりに遥は、怜と約束をした。
「いつかとる、一等のトロフィーは私にちょうだい」
夢から目覚めた怜は、遥と交わした約束を思い出し、笑いながら泣いた。
夢の中は本当に幸せで、夢から覚めた静寂は怜に、
怜は気づいた。
いつの間にか自分が、遥に喜んでもらいたくて、走るようになっていたことに。
「俺は、いつの間にか、
遥に寄りかかっていたのか⋯⋯」
彼女ために走る。
いい結果が出れば供に喜び、悔しい結果は悔しさを分かち合った。
遥は自分。
ストイックになればなるほど、遥にも自分と同じ厳しさを求めていた。
無意識に失敗の理由を、彼女のせいにしたこともあったはずだ。
悔しさを彼女の慰めで癒し、努力を怠ったこともきっとあった。
怜は、いつの間にか彼女を、苦しい時に逃げ込む隠れ家にしていた事に気づいた。
夢の中で、遥と会えた嬉しい気持ちは、千切れて血を流す怜の心にようやく貼ったカサブタを、再び引き剥がした。
「このままじゃ、⋯⋯俺は、駄目だ。
逃げちゃ、駄目なんだ」
怜は、遥と交わした大切な約束を思い出した。
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