第10話「憧憬」

 2月、10:40pm

国道沿いを走る。

「シャリシャリ」というウィンドブレーカーが擦れる音と「タッタッタ」と軽やかなリズムの足音のハーモニーが心地よい。

夕方まで降っていた小雨は、アスファルトを黒い鏡に換えた。

吐く息が白い。

通い慣れた片道5kmの道程を無心で走る。


 雪村雫の家までのロードワークが、この頃の怜の日課だった。

 彼女の自宅は、文化祭の打ち上げで一度だけバイクで送ったことがあり知っていた。

 このひと刻だけは今日一日の些事をすべて忘れられる。

 彼女への想いもきっといつか忘れられる。

 今日はまだこの道が愛おしい。

 

 ゴールまで残り2kmを切り、苦しさが麻痺してハイになった頃合いに、無心で走る為に下げた目線をあげると、車道が渋滞していることに気づいた。

「珍しいな、こんな時間にこんな所で。夜間工事か?」

渋滞の先頭に着くと理由がわかった。

けたたましいクラクション。ハイビームで照らされた光の中に、若い女性が一人。

 大きなトレーラーの前に両手を広げ立ちふさがっていた。

ジーンズにトレーナー。履き込まれた白いスニーカーという出で立ちで、

顔は⋯⋯、対向車の逆光でよく見えない。


近づくと、背後に迫る巨大なトレーラーがガナるクラクションをものともせず、大の字に凛と立つ彼女の足下に何か黒い物が動くのが見えた。

「あっ⋯⋯⋯犬だ」

そこには、立ち上がっては倒れ、また立ちあがろうともがく一匹の中型犬がいた。

 彼女はその犬を守っていたのだ。

気がつくと怜は車道へと飛び出していた。


犬は、たぶん、

車にひかれたのだろう。

ヨロヨロと足腰が立たず、立とうともがいては、また倒れるを繰り返していた。

顔は、左の目玉が飛び出して、かろうじて神経の白い紐でぶら下がっている重傷だった。


「犬、どうしたんですか?」

「私もさっき来たばかりなの。この子、立てなくて。このままじゃ轢かれて死んじゃうから」

クラクションとパッシングの洪水の中、必要最小限の言葉を交わす。

 彼女も通りすがりだという。車道で苦しんでいるこの犬を放っておけなかったという。

「友人の獣医を呼んで待っているの。それまで何とか守らないと⋯⋯」

 そう言うと彼女は安全な歩道へ犬の誘導を試みる。

犬は激痛に狂犬と化していた。

目玉が飛び出す重症では仕方ない。

噛まれないように躱しながら、彼女と手分けして交通整理をする。

彼女が犬を誘導するときは怜が車の誘導をし、怜が犬を誘導するときは彼女が車を誘導した。

 渋滞の元凶に来た運転手たちは皆、怜たちの横を通り過ぎる度、怪訝な顔で睨んでくる。

怜たちは自分のしていることに胸を張り、運転手たちを見据え返す。


 しばらくそうしていると、彼女の友人らしい男が二人現れた。

状況を一見して、「よし!歩道に出そう!」と小気味良く指示を出す。

「なにか、⋯⋯犬の口を縛るものを」

皆、一斉に辺りを見回す。

何もないと全員の沈黙が語る。

ふと、怜は自分の出で立ちに気づいた。

「パーカーだ」

思い切りよくフードのひもを抜き取って、男に差し出す。

「いいのか?」

男の問いかけに黙ってうなずく。


全員が犬の救出の為にそこに在る。

こういう状況で、役割はすぐに決まる。

ひもを持った男がかまえる。

もう一人がおとりになって、棒で犬の気を引きつける。

2,3回の失敗の後、犬の鼻っ面を縛り上げることに成功した。

「運ぶもの!」

 男の声に反応し、怜はそばの電柱にくくりつけられた飲み屋の看板を力任せに剥がして手渡す。

彼女と二人、タンカ代わりに犬を乗せ運び出そうとした、その瞬間だった。

それまで、狂ったように暴れ回っていたその犬の動きがぴたりと止まった。

喧騒は止み、時間が止まってしまったような静寂な空間の中で、怜は、自分に向けられたその犬の瞳に釘付けになった。

 飛び出し、路面にすりつけられ、血のにじんで垂れ下がる眼球と、黒く輝くもう一つの眼から、こぼれ落ちる涙から目が離せなくなった。

 横たわるタンカの上で、上体を起こし、まっすぐに怜を見つめる瞳に、怜は自分を恥じた。

彼をこんな目に遭わせた人間であることを恥じた。


 男の指示で、犬をすぐそばにあった国立研究所の敷地内に運び込んだ。守衛は男と少し話すと快く中に入れてくれた。

 彼女と男2人は、この研究所の研究員だった。


 中に入ると宿舎の陰の木の下に犬を横たえた。

皆一様に押し黙っていた。

ここならもう安全という思いと、あまりに重傷を負ったこの犬を前に言葉を失くしていた。

「ここから、どうする⋯⋯」

そう聞こえるようだった。


 獣医だという男が静かに口を開いた。

「たぶん⋯⋯、たすからない」

「片眼と脚はもう駄目だ。内臓も破裂しているかもしれない」

「たとえ助かったとしても、高額の治療費を支払ってくれる飼い主もたぶん見つからないだろう」

皆、押し黙っていた。

「楽にしてやろう⋯⋯」

悪役を担うように、男は研究室へと薬を取りに行こうとした。その行き際に、思い出したように彼は怜に話しかけた。

「君⋯⋯、ありがとう。あとは僕らがやるから」

そう言うと、犬の口を縛っていたパーカーのひもを解き怜に手渡した。

「⋯⋯⋯」

 怜は無言で受け取るしかなかった。

言いようのない惨めさと無力感を感じながら怜はその場を後にした。


 その日、怜は彼女の家の前で、彼女の部屋の灯りを見上げて誓った。

「強くなろう。

 優しさを行動できる強さを、いつか僕も」

怜は、あの犬の瞳に約束をした。

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