第26話 奇跡の境界線


 いつまで経っても来ない衝撃に、立夏はそっと目を開けた。

 イロハの頭越しに静止している電車が見えた。白黒の世界。警報音だけは鳴り続けたままになっているが、まるでBGMのように意味をなさない。

 この世界は知っている。綺羅が立夏にイロハと綺羅の契約を見せてくれた時に似た状況になった。

 車体に反射する影が警報機の赤い灯りと混ざり合い、不気味な色を作り出していた。


「え、何、どういうこと?」


 硬く目をつむっていたイロハも恐る恐る目を開くと、きょろきょろと周りを見回した。

 可愛い。立夏はこんな瞬間でさえ、イロハに対してそんなことが沸き上がる自分に少し呆れた。

 先ほどまで迫っていた轟音が嘘のように消え失せ、世界は立夏たち以外静まり返っていた。

 立夏は戸惑うイロハを抱きしめる力を強める。

 やっぱり、と立夏は確信したように、目の前の存在へと呼びかける。


「綺羅!」

「はーい、なんだい?」


 先ほどまでは偉そうにふんぞり返っていたくせに、綺羅はすでに宙に寝ているような状態になっていた。

 表情は明るい。まるで休日動画を見るお父さんのような格好に立夏は目を眇めた。

 立夏の視線の鋭さと綺羅の正反対の様子に、イロハが忙しなく視線を動かした。

 立夏は少しだけ腕の力を緩める。イロハがすぐに腕を組んできた。


「正直に教えて欲しいんだけど、あなたとイロハの契約は虎川立夏の死ぬ運命を変えるじゃないんでしょ?」


 立夏はこの踏切に来てから、ずっと考えていたことを口に出す。

 綺羅がただ絶望の中で死ぬ人の魂が欲しいなら、立夏の前に現れなければいい。それだけで、彼はイロハの魂をまるっと回収できた。

 だが、綺羅は立夏の前に現れて、わざとイロハの願いを裏切るように立夏を殺した。

 あの時、イロハにしたように立夏と契約すれば、綺羅は立夏の魂を回収することさえできた。なのに、綺羅は立夏と契約せずにただ殺した。これは無駄でしかない。

 だから、立夏は契約以外に綺羅には望みがあるのではないかと思った。

 イロハは立夏の言葉にきょとんとした表情を浮かべる。


「え? あたしは綺羅に立夏が死なないように願ったよ」

「きっと、それは契約の全文じゃないのよ」


 イロハの丸い瞳が不思議そうに立夏を見上げていた。

 立夏は静かにイロハに微笑むと、しかし強い意志を込めて綺羅に言葉を投げかけた。

 綺羅は立夏とイロハの様子をニヤニヤとした表情で見つめ、何も言わずにその言葉を聞いていた。

 どうやら話す気はないらしい。立夏は綺羅に質問を続ける。


「あなたは〝ちょっとした奇跡〟を起こせるって言ってたわ」

「そうだね」

「その〝ちょっとした奇跡〟で人の生死なんて変えられるものかしら?」


 立夏は綺羅の反応を一つずつ確認するように言葉を続けた。

 ちょっとした奇跡が何を言うのか、どういう範囲までを含むのか分からない。

 だが、人の生き死にを覆らすことは紛れもない奇跡であり、神話でさえ成しえない難しさがある。

 それだけ絶対的なものを、ちょっとした奇跡に含むのはできないだろう。


 綺羅は立夏の言葉を「ふんふん」と頷きながら聞いていたが、イロハは驚いたように目を輝かせていた。

 イロハの頭には「奇跡」という言葉だけが残っていて、それがどこまでの範囲を指すのかは、考えたこともなかったのだろうと立夏は思う。


「ちょっとした奇跡に変えるためには、制限が必要だったんじゃない?」


 綺羅の表情は変わらない。謎解きの答えを知っている子供のように立夏の話をニコニコと聞いているだけ。


「例えば?」


 立夏は小さく息を吸い込んでから言った。


「虎川立夏はイロハに関することで死なない、とか」


 ただの死なないだと、区切りが大きすぎる。そんな不死身の人間をつくることはできないだろう。

 死なないということが難しいなら、傷つかないとか。とにかく、イロハに関係することと、立夏の生命に関わることを組み合わせたはず。

 立夏と綺羅の視線が交差する。

 二人の間に静寂が降りた。それを敗れたのは、二人の間を取り持つイロハくらいなものだった。


「え、そうなの? 綺羅」


 綺羅は視線を寝ころんだものから、胡坐に変えた。

 それから小さく口元を綻ばせるとイロハを見つめる。その視線が少し不快で、立夏はイロハの腰に手を回した。


「イロハは何でも素直に受け止めすぎて、契約がどんな内容かさえ聞かなかったからね」

「ちょっと、大切な内容なら教えてくれても良かったじゃん!」

「聞かれてもいないのに教えるやつはいないよ」


 綺羅は肩を竦め、どこか呆れたようにため息をつく。契約のルールを説明するのが面倒くさいと言わんばかりの態度にイロハが頬を膨らませた。

 実際、小さかったイロハにそこまで求めるのは酷だろう。

 立夏は二人のやり取りをじっと見守る。綺羅のどこにヒントが隠れているかわからないし、立夏とよりはイロハとのやり取りの方が気心が知れていた。

 まるで幼馴染のようなやり取りに、立夏は小さく口角を吊り上げる。


「おかしいと思ったのよ。なんで私が生きてるのかって」


 立夏の言葉にイロハは頭が肩に着きそうなほど大きく首を傾げた。


「……あたしが契約したからでしょ?」


 立夏は小さく笑ってから、綺羅を指さして、イロハがいなくなった後のことを教える。


「あなたが死んだあと、私はこの男に背中を押されてこの近くの駅で死んでるはずだった」

「え!」


 イロハの顔色がさっと変わる。驚きから怒りへ。

 本当にイロハは表情豊かで飽きない。そう思っていたのは立夏だけではない。

 怒りの形相で詰め寄られた綺羅は逃げることもせずにイロハの怒りを受け止める。


「綺羅! どういうこと?」

「必要なことだっただけだよ。別に立夏は死んでないし、いいじゃない?」


 そんな気軽に人の生死を扱わないで欲しい、と立夏はため息を飲み込んだ。

 綺羅にしてみれば人の生死は食事みたいなもの。食事に力を入れる人間もいれば、気軽に済ます人間も多い。

 どっちがいいのか、この場合は判断ができなかったけれど。

 立夏は綺羅を見つめながら、言葉を続けた。


「でも死んでない。私は戻っただけ」

「君が踏切に行く原因になった時間にね」


 そう、最初戻ったのは半年。

 イロハが死んだ原因だと思った、暴行未遂事件の付近。

 立夏が戻っていたという事実にイロハは事実を噛みしめるように唇を噛んでいた。

 あれが始まり。そこから立夏と綺羅の奇妙な旅は始まったのだ。


「そう……で、それからも死んでおかしくない状況で私はずっと時間を戻ってた」


 立夏はイロハにもわかるように、丁寧に言葉を選ぶ。

 ゆっくりと周囲を見渡す。この場所から戻って、この場所に帰ってきた。

 赤く点滅する警告灯が、三人の顔に影を作る。


「そして、ここが私の死ぬ原因の大元……イロハが死ぬ場面」


 結局のところ、イロハが死んだ時点で立夏に生きる道はほぼなかったのだろう。

 残った仕事をこなしたとしても、何かを新しくする気力は失われていたから。

 そして、世界は矛盾を起こす。

 イロハに関することで死ねない私が、イロハと一緒に死のうとすれば、契約は成り立たなくなる。それが世界が止まっている理由なのだろう。


「あなたはイロハを救うために、私をここまで連れてきたのね?」


 立夏の言葉にイロハは目を丸くすると綺羅を見つめた。視線を向けられた綺羅はいつもと変わらない軽薄な笑顔を浮かべている。

 長い沈黙のあと、綺羅はゆっくりと笑った。


「ふふっ、やっぱり君を選んで正解だった」


 その声はどこか満足げで、それでいてどこか寂しそうな響きを帯びていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る