第16話 イロハの時間と決意


 末廣を出ると夜の空気があたしの肌を撫でていく。

 すっかり日は暮れていた。冷たく乾いた風が頬をくすぐる。

 少し先の路地から車のヘッドライトが行きかうのが見えた。街灯の白い光がアスファルトをぼんやりと照らし、あたしの影だけを浮かび上がらせる。


「はぁ、食べた食べた」


 あたしは軽く伸びをしながら、満足げに息を吐いた。

 結局、注文したのはお肉一皿とサラダ。サラダは多い気がしたが、お肉だけで食べられる気はせず、他の人の倍の時間をかけて食べた気がする。

 末廣が混んでいないので助かった。

 焼肉屋の独特の香ばしい匂いがまだ服に残っている気がしたが、それすら心地よい。


「君の場合、見てたのが8割だろ?」


 隣で綺羅が呆れたように言う。

 まったく、そんなことを言うのか。良い気分なのに水を差さないで欲しい。

 あたしはからかうように言う彼に唇を尖らせる。


「いいの! 立夏さんに会えるのなんてほぼないんだから、仕方ないでしょ」


 あたしが立夏さんに会える仕事はほぼない。仕事自体そんなに入っていないからだ。

 土日か平日の夜に仕事があれば嬉しい。そういうレベル。しかも、モデルの仕事ばかりで立夏さんのような演技の仕事はほぼなかった。


(どうしたら、立夏さんに近づける?)


 そういう焦りばかりが先に立つ。

 だから堀さんに末廣を進められてから、あたしの日常は色づいた。だって、ここに来れば立夏さんに会える可能性があるから。

 立夏さんの動き、立ち居振る舞い、声のトーン、そういう細かい部分を見て学ぶのは、演技の勉強にもなる。

 それに——ただ単純に、見ていたかった。


「あ、いた! イロハちゃん」

「り、立夏さん?!」


 遠くから落ち着いた声が響いた。単なる自分の名前なのにドキリとした。

 驚いて振り向くと、焼肉屋の制服を着たままの立夏さんが息を弾ませて走ってきていた。

 少しだけ呆然としている間に、立夏さんは目の前まで到着していた。片手に何かを持っていた。小さく振られたそれにあたしは視線を向けた。


「これ、忘れ物」


 立夏さんが差し出したのは、小さな象柄のポーチだった。

 親戚がタイに行ったお土産にもらったもので、愛用している。


「ありがとうございます! 忘れてたなんて……すみません。ご面倒おかけしました」


 深く頭を下げながら受け取る。このポーチには小さな鏡とリップ、ハンドクリームに髪ゴムやピンが入っていて、出かける時には必ず持ち歩いている。

 それを忘れたことすら気づかなかったなんて、あたしの思考がどれだけ立夏さんに向いていたのかがよく分かる。

 少し俯いて苦笑していたあたしに立夏さんは小さく首を横に振った。


「あんまり食べてなかったけど大丈夫?」


 立夏さんの声には心配が滲んでいた。

 あたしは一瞬戸惑いながら、反射的に答える。


「え、一人分は食べましたよ?」


 やっぱり、長時間のわりには少なかっただろうか。出禁になったらどうしよう。

 そんなことばかり、頭に過る。


「私の半分も食べてなかったけど……」


 私の不安とは反対に、不思議そうに目を丸くした立夏さんが首を傾げる。

 あたしはその言葉に一瞬固まる。あれで半分以下、ということは、立夏さんはあたしの倍以上は食べるということだ。


「……立夏さん、たくさん食べるんですね?」

「食べるの好きだから」


 あたしの言葉に、立夏さんは照れたように口元を緩ませる。その笑顔がすごく可愛かった。

 普段の堂々とした姿からは想像もつかない、可愛らしい表情に、目を細めたくなるような甘さが胸に広がった。


「だから焼肉屋さんでアルバイトなんですね!」

「そうなんだけど、内緒にしててね」


 可愛らしいお願いにあたしはにっこりと笑った。

 立夏さんがどこで働いていてもおかしくはないと思うけれど、なんで焼肉屋さんと思ったことはある。

 制服が可愛いカフェや芸能人がよく使うお店など他に候補はいくらでも考えられるから。

 あたしの言葉に立夏さんは小さく笑いながら、人差し指を自分の唇に当てる。


「レッスンとかジムでお金使っちゃうから、たくさん食べるなら飲食店の賄いがいいかなって」

「確かに、頭良いー!」


 立夏さんのスケジュールは、バイト、レッスン、仕事で成り立っている。

 これは堀さんから聞いた。だって、何をどう真似したらいいか分からなかったから。

 プロの女優になるために、立夏さんは努力を惜しまない。この業界では身体が資本だと誰もがあたしに言った。

 長く健康に働けることが一番だと。だけど、それを実際にするのは難しいことだと思う。


「やだ、そんなに褒めないでよ。恥ずかしくなるから」


 立夏さんは頬を染めながら、ちょっと視線を逸らした。

 その仕草すら映画のワンシーンみたいに見えて、目を奪われる。

 視界の端で立夏さんから見えない綺羅が、大きく両手を広げて首を振る。


「イロハちゃんも、今度のドラマに出るんでしょ?」

「セリフもほぼない役ですけど、精一杯やろうと思います」


 立夏さんが知っていてくれただけで嬉しい。

 あたしは背筋を伸ばすとにっこりと笑顔を浮かべた。

 そんなあたしの緊張をほぐすように、立夏さんは話し出す。


「私も出るのよ?」

「はい、知ってます! すごく楽しみですっ」


 だからこそ緊張もしている。

 堀さんがわざわざ立夏さんがいる現場にいれてくれたのだ。

 あたしが知っていたことに立夏さんは少し驚いたように目を瞬かせた。


「楽しみなの?」

「立夏さんの演技、きっと凄いだろうから」


 あたしは大きく頷く。心からの言葉だった。

 立夏さんがどういう演技をするのか。あの眩い光をもう一度見ることができるかもしれない。

 そう思うだけで、喜びが込みあがる。


「私も一話にしか出ないないけど」

「凄いじゃないですか!」


 あたしなんて一言だ。ゲスト出演なんだろうけど、絶対録画すると決めていた。

 立夏さんの演技なら、どんな小さな役でも見逃したくない。

 あたしの言葉に立夏さんは小さく口の端を引き上げた。


「ありがとう。頑張るわね」


 そう言って立夏さんは小さく手を振ると店に戻っていった。

 あたしはその背中をじっと見つめる。

 ——追いつきたい。

 その気持ちが胸の奥で燃えている。


「……ねぇ、綺羅。あたしも立夏さんみたいになれるかな?」


 立夏さんがいなくなってから、あたしは綺羅に尋ねた。

 呟くような声だったのに隣にいた綺羅は少しだけ目を細めてから、口を開く。


「さあね」


 相変わらず素っ気ない返事。綺羅はあたしの希望には何も答えない。

 彼が答えるのはどうでもいいような軽口ばかり。


「立夏さんが目指す女優さんの凄さが、あたしにはまだわからないけど……どうせなら、同じ夢を見てみたい」


 店舗の間を走る夜の風が頬を撫でた。少しだけ冷たい。冷たさに目を細める。


「君には時間がないんだよ?」


 綺羅の言葉はいつものように淡々としていた。

 時間がない。そう分かっていても、いや、そうだからこそ、あたしは立夏さんと同じ星を見たかった。

 あたしは微笑んだまま彼の方を向く。


「あるでしょ? だって綺羅は、あたしが一番幸せな時に死んで欲しいんだから」


 だったら、まだ死なない。

 あたしの言葉に綺羅の顔が一瞬だけ歪む。 驚いたような、呆れたような、何かを図りかねているような——そんな表情だった。

 はぁと綺羅はわざとらしくため息を吐き、大袈裟に首を横に振った。


「わかってて言うなら……君はちょっと狂ってるね」


 綺羅の灰色の瞳があたしに刺さる。あたしは何も言わず、その瞳を見返した。

 答えはない。自分がいつ死ぬかもわからない。

 だけど、あたしは足元のアスファルトを踏みしめ、一歩ずつ確かめるように歩き始める。

 時間がないなら、全力で走るだけ。そして、立夏さんに追いつく。

 それが、あたしが選んだ道だった。

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