第8話 ガーネット
あれから、ソラがこのサナトリウム【ララット】に来てから、あっという間に数ヶ月が過ぎた。
代わり映えのしない病室。
変わらない会話。
容赦なく進行していく奇病。
毎日変わる生け花の香り。
この病院にしては、妙に美味しい朝ごはん。
分厚く、重たく、それでいて意外に面白い本。
色々なことがあって、でもやっぱり何もなくて。
日常と呼ばれる平穏であたたかな日々が、この終わりを待つだけの施設にはあった。
そして、それを作ってくれたのは、彼女だった。
メルの献身的な世話がなければ、この病室の空気は、きっともっと冷たく、寂しいものだっただろう。終わりを待つことすら苦しかったに違いない。
けれど、ソラだって何もせずに過ごしたわけではなかった。
初めの頃より、物言いが少しだけ柔らかくなっているし、最近では、ソラからメルに話しかけることも増えている。
ちょっとしたことではあるが、成長は成長である。
実は案外、メルは話のレパートリーが少ない。
それに、どこか世間とズレていたり、常識を知らなかったりする。けれど、そんな彼女と話すのは、思いの外楽しかった。
何気ないことに驚き、瞳を輝かせ、一喜一憂する彼女を見るのが·····正直なところ、悪くないと思うようになっていた。
それに気づいてから、ソラはしぶしぶながらも、メルとの距離を縮めてしまっている。
「ええと、ここが緑で·····海は、うん。アクアマリンにしよう」
筆先を慎重に動かしながら、少年は絵の具をキャンバスに落とす。
慣れない手つきで真っ白なキャンバスに海を零していく。
自作の宝石の絵の具、アクアマリンを砕いて作った青が、白いキャンバスを染めた。
煌めく粒子が光を反射し、まるで本物の海のように瞬く。
ソラは思わず、鼻を得意げにこする。
「初めてにしては、やるじゃん、俺」
たった一人の病室。
筆を握る手に、微かに緊張が走る。
けれど、その感覚さえも悪くないと思えた。
水色のトルコ石の絵の具を上から重ね、更に緑を足すためにマラカイトを用意する。ラピスラズリなんかもいいのかもしれない。
そうして、色を重ねる度に、キャンバスの中の海は、少しずつ命を帯びていった。
けれど、この絵はただの気まぐれではない。
これは、ソラから彼女へのプレゼントだ。
「驚いてくれるといいな·····」
少年はぽつりと呟いた。
彼女はまだ、一度も本物の海を見たことがないのだという。
勿論、この部屋や屋上から見える海は知っている。けれど、遠くからでは一色にしか見えないあの海。
本物の美しい色を、彼女はまだその瞳に映したことがない。
自分の足で砂浜を歩いたことがない。
海水特有の心地良さを知らないのだという。
それを聞いた時、なぜか、ソラの胸の奥に小さな棘が刺さったような気がした。
海を見せてやりたい。
けれど、奇病を患っているソラでは、叶えてやることが出来ない。
だから、せめてもの礼に、彼女の為に海を描くことにした。
これでも、美術の成績は5だ。賞だってとったことがある。素人だからと、あまり侮ることなかれ。
実際に連れていくことは出来なくても、絵なら、きっと海を近くで感じられるはずだから。
だから、彼は限界まで挑戦することにした。
彼女がとびきり喜んでくれるような、たった一枚の絵を贈るために。
しかし、口実もないのに、女の子へプレゼントを贈るというのは、何だか気恥ずかしい。
そういうお年頃なのである。
ということで単刀直入に聞いてみることにしたのだ。
『·····先生って、誕生日いつ?』
そう尋ねたのは、ほんの一週間前のことだった。
彼女は、笑いながら言った。
『私はロボットですから。誕生日なんて、ないんですよ』
まだそんな嘘を吐くのかよ。
喉まで出かかった言葉を飲み込み、「製造日でもいい」と食い下がる。
けれど、やはり彼女は笑ってはぐらかすばかりで、それらしい答えを得ることは出来なかった。
ならば、もう数字にこだわる必要はない。
彼女が教える気がないのなら、こちらで勝手に決めてしまえばいい。
そう思い立ったのが、数日前のことだった。
それからソラはすぐに行動に移した。
この部屋にやって来てから、しまってあった筆やパレットを探して、真っ白なキャンバスを引っ張り出す。
捨てるに捨てきれなかった宝石を、一つ、また一つと砕いていく。
粉になったそれは、まるで色を宿した星屑のようだった。
少し手間取ったが、そのお陰で、画材としては使えるようになった。絵の具としても使えるし、パラパラと最後に振りかければ、演出にだってなる。まあ、及第点といったところだろう。
あとは、病気が進行して指が動かなくなる前に、仕上げてしまうだけだ。
「·····色が足りないな」
呟きながら、少年は新たな宝石の瓶を手に取る。
次に描くのは、空の青。
そう聞いて浮かぶ宝石なんて、彼女のせいで、たった一つだった。
以前なら、宝石に触れるどころか、目に映すことすら避けていたソラ。けれど今は違う。
誰かの為の贈り物に、あの宝石を選んで。
その宝石で、たった一枚の絵を描こうとしている。
もしも、数ヶ月前の自分がこれを見たら、きっと鼻で笑うのだろう。
「·····もう、こんな時間か」
ふと顔を上げると、窓の外はすっかり夜を迎えていた。
つい先程まで、太陽が燦々と降り注いでいたはずなのに。
いつの間にか空は紫に染まり、病棟の明かりが静かに瞬いている。
少年は灯りをつけ、今日何度目かになる思いを抱きながら、ちらりと扉を見やる。
はたして、この絵を贈ったら、彼女はどんな顔をするのだろうか。
その答えを知るのは、もう少し先のことになりそうだ。
しかし、そんな期待も虚しく、いつまで待っても、彼女が現れることはなかった。
「·····変だな」
時間になっても姿を見せないどころか、今日は一度も検診や見回りに訪れていない。
どれだけ忙しい日でも、必ず三度は様子を見に来て、無駄話をして帰っていくのに。
こんな日は初めてだった。
胸の奥がざわつく。
ソラは、筆と絵の具を棚の奥へ滑り込ませて、キャンバスを替えのシーツで包んでベッドの下へ押し込んだ。
それから、スリッパを履いて、扉にそっと向かう。
ノブを捻ると、冷えた空気が肌を撫でた。
「·····さむっ」
白く静まり返った廊下。
近未来的な青白い光が、視界を満たす。
彼女を探して、病室の外へ出るのは、これが初めてだった。
今までそんな必要なかった。
だって、何をするにも、いつだって彼女が傍にいてくれたから。
甘えていた。
頼りきっていた。
今更ながら、それを痛感する。
もしも彼女がいなければ、きっと、何も変わらず、ただ部屋の中で腐っていったのだろう。
そう思った矢先、廊下の先で、きらりと何かが光った。
「·····は?」
目を凝らす。
見間違うはずもない。
これは、この輝きは、だって。
「ルビー?」
白いタイルの上に、紅く煌めく宝石。
どうして、どうして。
宝石が、こんなところにあるのだろう?
誰かの落し物だろうか?
そんな希望は、散らばる宝石の異常な多さに、打ち砕かれた。
これは、ソラが吐く宝石とよく似ていた。
血反吐を吐く時に、零れるあの宝石。
奇病を患っていなければ、生まれるはずのないもの。
【宝石病】を患ったソラだけが、零す石ころだ。
ならば、これは錯覚か、見間違いか。
脈打つ心臓の音が、やけに大きく響く。
嫌な予感を無視して、宝石に視線を戻した。
「·····ガーネット?」
赤黒く、深い光を湛えた石。
彼女が教えてくれた、赤の宝石だ。
少年は、恐る恐る、それを視線と共に追った。
点々と続く、血のような輝き。
震える足を動かして、ガーネットを追う。
そして、その中心に、『彼女』はいた。
「な、んで?」
散らばる紅の粒は、まるで赤い水溜まりのように彼女を染めていた。
溢れ、滴る宝石の数々。
「·····ごめ、な、さぃ」
申し訳なさそうに眉を下げて、彼女は──メルは、そう言った。
その直後。
彼女の身体は、紅い宝石の海へと倒れ伏した。
それは、彼女があんなにも楽しそうに教えてくれた、大切な宝石だった。
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