第9話 ブルートパーズ
囚われていた。
この場所に。
このサナトリウムに。
何も枷があったわけではない。
出口を塞ぐ鎖も、口を塞ぐ轡も、何一つ、ありやしなかった。
けれど、逃げても無駄なのだと悟っていた。
何をしても、何があろうと。
たったの一度だって。
この外へ。
このサナトリウムを抜け出すことなど、きっと叶わない。
陸にも、海にだって行けない。
人間にも、人魚だってなれやしない。
それなのに、夢を見てしまった。
叶わぬモノに手を伸ばしてしまった。
彼女は最初から、終わりを分かっていたのに。
◇◇◇
医療用アシスタントロボット・ナンバー1173。
ロボット、とそう呼ばれている彼女の身体は、機械で出来ているわけではなかった。
けれど、彼女は母親から生まれた、というわけでもなかった。
彼女の命は、誰かの手によって 意図的に造られたもの 。
クローン。
そう呼ばれる存在。
とある個体を模して造り出された、ただのコピーにすぎなかった。
その中でも、生まれることを望まれず、世界に生まれ落ちてしまった。
誰からも必要とされない紛いモノ 。
欠陥品のクローン。
それが彼女だった。
「色が足りない」
院長の言葉が、冷たい診察室に響く。
彼女にはそれがなかった。
肌は白すぎるほどに白く。
血の色は水で薄められたように淡い。
瞳ですら光を透かしてしまう程に、色を持たなかった。
アルビノ。
欠けていたのは、 色彩。
生命の証、そのものだった。
だから、彼女は 『完全な存在』 にはなれなかった。
望まれたコピーにすら、なることが出来なかった。
「お前は、欠陥品だ」
冷たく響く声。
それは何度も何度も繰り返され、幼い頃から彼女という存在の輪郭になっていた。
彼女は、何者でもない 。
代わりのきかない『個』にはなれない。
唯一の『私』にはなれない。
周りとは違っていた。
周りは皆、同じ顔、同じ髪色、同じ瞳の色をしていた。
けれど、彼女だけは違ってしまった。
人間ですらないくせに、コピーにもなれない紛いモノは、ただ息をして、ただそこに存在するだけだった 。
そんな日々を、サナトリウムの白い天井の下で過ごしていた。
どれ程の時間が流れたのか。
誕生日のない彼女にとって、年齢すら無意味だった。
時間の概念すらないこの場所で流れる時間には、何の意味もなかったから。
そんな彼女に、初めて『色』をくれたのが、彼だった。
◇◇◇
血反吐を紅い宝石に変える彼。
その病は、忌むべき呪いだった。
それは、【宝石病】と呼ばれる奇病。
けれど、彼女には美しい贈り物に見えた。
紅、碧、琥珀、紫紺。
様々な美しい色の欠片が、彼の血肉となって煌めく。
彼の零すそれはまるで宝石で出来た命。
その輝きは本物よりも美しくて、眩しくて。
彼女は、そこに初めて、色を見た。
白の中に生きてきた彼女が、彼によって『色』を知った。
だから、彼女は彼の傍にいた。
この病が伝染ることを知っていて。
それでも、彼の傍を選び続けた。
日々、その病に蝕まれながら、彼の傍で笑っていた。
そうして、彼の色を受け入れた。
その代償に、命が零れたって、構いやしなかったから。
◇◇◇
誰かの代わりに生まれながら、誰かにはなれなかった出来損ない。
だから、彼らは少女に名前を与えなかった。
ここにあるのは、人の形をした器にすぎない。
それでも、彼は彼女を識別しようとした。
白いラベルの中。欠陥の烙印の下に。
彼は、『彼女』 という個を見出そうとした。
紛いモノの少女に、唯一の名前を贈ったのだ。
「──メルっ!」
初めて彼に名前を呼ばれた時、世界の色が変わった。
意味なんてなかったはずの自分が、たった二文字の音で、確かに世界に刻まれた気がした。
彼で色を知って、彼から色を貰って。
そうして、生きたいと思ってしまった。
たとえ、この世界が泡沫に消えてしまう夢でも。
たとえ、この願いが報われないと分かっていても。
愛する人の傍にいるために。
声を捨て、痛みに耐え。
それでも、叶わぬ恋に身を焦がした、あの人魚姫のように。
そう、生きて·····。
人魚姫は最後、泡になって愛する人の為に消えた。
ならば、紛いモノに出来る、唯一のことは·····。
◇◇◇
あれから幾らかの月日が経った。
病は少しづつ、けれど着実に彼女の身体を蝕んでいた。
「·····っ、」
少女が流した涙は、美しい蒼を帯びていた。
けれど、それはアクアマリンではなかった。
彼がくれた『メル』という名前に相応しい、海の宝石にはなれなかった。
「·····ブルー、トパーズ」
宝石が床に転がる音が、静まり返った廊下に響く。
アクアマリン。
それは人魚姫が流す、哀しくも純粋な涙。
愛する人を想いながらも、決して届かぬ恋に沈んだ 蒼の結晶。
それになりたかった。
流す涙は、彼から貰った名前の宝石が良かった。
けれど、頬を伝い、指先から零れ落ちたのは、それとは似て非なるものだった。
アクアマリンに酷似していながら、けして同じにはなれない石 。
まるで自分のようだった。
誰かの『代わり』に生まれながら、誰の代わりにもなれなかった不完全な紛いモノ。
アクアマリンのように、人魚姫の美しい悲劇になることも出来ない。
中途半端で、どこにも属せず、本物にはなれないままの存在。
それでも、彼女は願ってしまった。
彼の隣にいることを。
彼と同じ景色を見ることを。
メルとして、終わりを迎えることを。
◇◇◇
「·····ごめ、な、さぃ」
これが、彼女に残された最後の言葉だったら、どれ程良かったのだろう。
喉が痛い。
身体が、熱い。
なのに指先が冷たくて。
怖くて、寂しくて、暗くて。
床に散らばる赤が、視界を埋める。
·····ルビー?
違う。これは、ガーネットだ。
かつて彼に教えた宝石だった。
これでいい。
この紅は、この宝石は、この色は、彼がくれた贈りモノ。
少女が『メル』 であった証。
紅の宝石に埋もれながら、彼女は白檀の檻から解き放たれる。
──ソラくん。
声にならない声が、宝石の雨に紛れる。
もしも、生まれ変われるのなら。
今度は、彼の隣で生きられる女の子になりたい。
美しい夢を願える彼女は、きっと幸福の中で眠りにつくのだろう。
滲んでいく視界の向こうで、ブルートパーズだけが、メルに寄り添うように光を放っていた。
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