第7話 ルベライト
白い壁、白い床、白いカーテン。
·····だったのは、昨日までの話だ。
「調子に乗って誠に申し訳ございませんでした。はい、復唱」
「うぅ、ちょうしにのって、ごめんなさいでした、はい、ふくしょう·····」
ソラの冷たい声に、メルはしょんぼりと肩を落としながら、小さな声で繰り返した。
「ふざけてる?」
「ふっ、ふざけてませぇん!」
ぶんぶんと彼女は首を振って否定する。
柔らかな白の髪が光を反射し、クレヨンの色が映り込んだ。
「わ、私は、良かれと思って·····」
彼女の瞳は、落ち着きなく病室の隅を彷徨う。
昨日まで白かったはずの壁や床にカーテン。
そこには、昨日までの漂白さとは正反対に、無数の色彩が踊っていた。
赤、青、黄、緑。
それぞれの色が好き勝手に散らばり、まるで虹が閉じ込められたかのように病室を染め上げている。
壁だけではない。ベッドの柵も、机の端にだって、クレヨンの跡がついていた。
ソラは、深い、深い溜め息を零した。
「綺麗に、してくれるんだよな?」
「うぅ、私は先生なのにぃ·····」
メルは唇を尖らせながら、俯く。
そんな姿さえ愛らしいと思う自分は、随分彼女に毒されていた。
「患者の病室を落書きで埋め尽くすやつが、どこの世界にいるんだよ。あー、ここにいましたね、メルせんせー?」
「うーっ、今日のソラくんは意地悪です!」
彼女はやや血色の悪い唇を尖らせて、真っ赤なりんごのように熟れた頬を膨らませる。
その背後では、クレヨンの走った壁が、見てくれと言わんばかりに存在を主張していた。
特に目を引くのは、壁の中央に描かれたいくつものスケッチだ。
「·····ていうか、なにこれ」
病室の壁には、メルが夢中で描いたであろう宝石のスケッチが広がっていた。
大小様々な形が無秩序に並び、クレヨンの柔らかな色合いで埋め尽くされている。
角張ったもの、丸みを帯びたもの、繊細なカットが施されたであろうもの。
宝石の輪郭はクレヨンで丁寧に縁取られ、光を受けて輝くように、白い部分をあえて残してあった。
それぞれの石は異なる色で塗られており、微妙なグラデーションまでかけられている。
その一つ一つに、彼女なりのこだわりが詰め込まれているのだろう。
「なにこれ、ルビー?」
中央にあるのは深紅の石。
赤といえば、ルビー。
ルビーといえば、赤だ。
「ええっ、それはスピネルですよお!ルビーはこっちです!色が全然違いますよね!?」
メルは驚いたように目を丸くし、指でクレヨンの線をなぞる。
「·····いや、そんなに変わらなくね?」
「もうっ、全然違います! ルビーはもっと深くて濃い赤なんですよ。でもスピネルは、もっと透明感があるんです! ほら、よく見るとこっちの方が、ちょっとピンクがかってるでしょう?」
そう言われると、確かにルビーとされる方は漆黒を帯びるほど濃厚な赤。
一方、スピネルの方は少しだけ柔らかな色合いをしている·····、ように見えた。
けれど、ぱっと見ただけでは判別がつかない。
「·····じゃあ、もしかして、この赤いのも違うの?」
「はい!そっちはガーネットなんです。そして、隣はルベライトなんですよ!」
得意げに答える彼女の瞳が、ふわりと光を宿した。
「ガーネットは、情熱や友愛の象徴なんです。それに、旅のお守りにもなるんですよ。昔の兵士達は、ガーネットを身につけて戦場に向かったんです!」
そう言いながら、彼女は胸元に手をあてる。
まるで、そこに本物の宝石があるかのように。
ガーネット。
その石は、深いワインレッドに近い色をしていた。光の加減によっては黒くも見える。
「へー·····」
メルは宝石の話になると、普段よりも饒舌になる。
普段の彼女は、どちらかといえばのんびりしているし、少し抜けているところもある。
けれど、宝石について語る時は違っていた。
まるで、自分自身がその輝きの一部であるかのように。その世界を、誰よりも鮮明に知っているかのように。宝石を愛しているのだと、全身から零れるみたいに話すのだ。
「ルベライト。こっちの宝石はですね。なんと、心を映す石なんです!ルビーみたいに赤いけど、ルビーよりもずっと優しい光を持っていて·····」
彼女が指さすのは、窓の外に広がる茜色の空。
カーテンの隙間から、斜めに差し込む夕陽が、落書きが残る壁を淡く照らしていた。
光を受けたクレヨンの色が、少しずつ混ざり合う。
メルが描いたルベライトの赤は、まるで本物のように輝いて見えた。
「今日の夕陽の色なんですっ!」
落ちていく陽の光が、彼女の頬をそっと撫でていく。
ソラは、無意識のうちに彼女の横顔を見つめていた。
ルビーのように濃くもなく、スピネルのように澄み切りすぎてもいない。
穏やかで、それでいて温かい色が、彼女の輪郭を柔く象っている。
夕陽を映したメルの横顔は、まさにそのルベライトのように淡く、静かに輝いていた。
ソラの知らない色が、世界が、そこにはある気がした。
「ほ、宝石なんて何処がいいんだか」
ソラはふいっと顔を背ける。
その頬が朱に染まっていることに、気づかれないように。
けれど、ちょうど夕陽が彼女を見つけ出した。
赤。
夕暮れの光が、彼女の瞳を、頬を、髪を染め上げていく。横顔だけでは飽き足らず、彼女の全てを喰らい尽くすように。
窓際に立つ彼女の姿は、まるで赤の陽を吸い上げ尽くしたルベライトのようだった。
「私は好きですよ、宝石」
彼女の瞳が、朱く燃ゆる。
降り注ぐ橙の陽光が、その端正な輪郭を温かく照らした。
窓辺に射し込む光の中、長く細い白の髪が篝火にあてられたように輝く。
·····そこに、わずかに見えた気がした違和感。
彼女の指先が、微かに震えている。
唇に浮かぶ笑みが、少しだけ、ぎこちない。
それに気づかないふりをして、ただ窓の外を仰いだ。
「·····おっ、俺は嫌いだよ、宝石なんて」
そう言った声は、僅かに裏返っていた。
誤魔化すように喉を鳴らし、視線を逸らす。
その時だった。
カラン、と乾いた音が響く。
視線を戻すと、床の上で小さなクレヨンが転がっていた。
彼女が手を滑らせたのか、それとも。
けれど、彼女はそれに気を取られることもなく、ただ静かに窓の外を見つめていた。
夕陽に照らされた横顔は、どこか遠い夢の続きを追うように、穏やかで、儚かった。
彼女の瞳の奥には、まだ朱に染まりきらない、遠く遠くの青い空の一片が宿っている。
それが消えてしまう前に、彼女はゆっくりと唇を開いた。
「私、好きなんです」
ゆっくりと、無邪気に伸ばされた白い手。
その指先は、迷いも戸惑いもなく、彼の頬に触れた。
「君のダイヤモンドの涙も。君のサファイアの瞳も」
彼女の言葉を、すぐには理解出来なかった。
宝石なんて、ただの石ころだ。
どれほど輝いたって、何かが変わるわけでもない。
そんなものに価値があるなんて、思ったことはない。信じたこともなかった。
けれど。
彼女の声が、手のひらの温もりが、まるで魔法のように心を揺らすものだから。
振り払わなくちゃいけない。
けれど、そのために上げたはずの腕は、呆気なく落ちた。
悪くない、なんて。
らしくもないことを、また思ってしまったから。
自分でも驚く程の苦しい言い訳を抱えながら、ソラはぽつりと零す。
「俺はだい·····。俺は、きらいだよ、宝石なんて」
空を仰げば、そこには、ルベライトのような赤が滲んでいた。
あの青い空は、もうどこにもない。
けれど、それが寂しいと感じたのは、夕陽が沈むからではない。
目の前の彼女が、この光の中に溶けてしまいそうで、怖かったから。
空を染めるルベライトの赤は、時期に夜を連れてくる。
それはきっと、もう、すぐそこまで迫っていた。
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