第1話

 杉原祥磨は昔から男の子が大好きな男子だった。生れてはじめて好きになった人(幼稚園の先生)も、憧れた人(友達)も、全部男の人だった。ただ、その恋心は常に一方向で、祥磨が願った通りになることはなかった。それに、小学1年生の秋、大好きだった幼稚園の先生が同僚の女性と結婚したと聞いたときは、本当にショックだった。なんで男と女で恋を形成しなければならないのか、本当に疑問だった。そのうえ、祥磨を好きになってくれるのは、みんな揃いに揃って女の子。なんで同性から好かれないのだろう、と毎日頭を悩ませ続けていた祥磨。どんなに努力をしても、アピールをしても、結局は「男が好きって、キモ過ぎるんだけど」、「男なら女を好きになれよ」、「男同士でキスするなんて見るに堪えない」などと、男女問わず罵声を浴びせられ続けた。もう聞き飽きた。もうこれ以上言うな。耳を塞ぐ。「やめて……、やめろよ……、黙れ!」


「にい、お兄ぃ」

「だ、黙れ……」

「起きてよ~、お兄ぃってばぁ~」

「うぅ……、んんっ……」

「学校遅刻するよ? いいのぉ?」

「ん~~……ん」


 ゆっくりと目を覚ます祥磨。ぼんやりとした視界の中に映るのは、身体を揺らし続ける妹、璃椛の姿。ぶかぶかなセーラー服を着ている。


また夢を見てしまった。愛してくれる人が現れる前の、悪の時代の夢を。


「璃椛ぁ、今何時ぃ?」布団は温かい。まだこのままぬくぬくしていたい。

「えっとねぇ、7時8分だよぉ」

「はっ、えっ、7時過ぎてんの!?」


 祥磨は布団を蹴散らしながら飛び起きる。今日は7時に家を出る予定だったのに。目をひん剥かせる祥磨に、冷静沈着な璃椛は「んっ!」と言って、スマホの画面を見せてきた。確かに、7時8分だった。疑っているわけではなかったが。


「どうしてもっと早く起こしてくれなかったんだよ!」

「え~、私のせいなのぉ~? お兄、それズルくなぁい?」

「ズルいもなにもないだろ!」

「えぇ~」


 中学生になったばかりの璃椛はピンク色に染まった唇を尖らせ、祥磨のことを見つめてくる。お前が悪いんだからな、と言いたげな目で。


「分かったぁ。僕が悪かったですぅ~」

「謝る気ないでしょっ!」

「痛っ! 何すんだよぉ~」

「ベーっだ。エヘヘッ」

「まったくもおぉ~」


 そう諦めのため息を吐きながらベッドから腰を上げ、中学時代から愛用しているヨレヨレのパーカを脱ぎ捨てる。露になるのは、祥磨のだらしない肉体。その刹那、璃椛は「キャッ」と女子らしい声を出して、目を背ける。あぁ、思春期の女だな。


「ちょっ、お兄ぃ、いつも言ってるじゃんっ、私の前で裸にならないでってぇ!」

「じゃあ、早く出て行きなよぉ」

「言われなくても、そうしますっ!」


 ドアがバタンと大きな音を立てて閉まる。璃椛は女とは思えないような足音を鳴らしながら階段を下りていく。これだから思春期の女は……。「そんなに怒らなくてもいいじゃん」、祥磨はブタの貯金箱相手に話しかけ、制服に身を包む。今日もまた、朝食を抜いて学校に行かなければならないのか。食べたかったなぁ。



 晴蘭は、いつもの場所に立っていた。俯き、春風の冷たさから身を守るように長く伸びた髪を下ろしている状態で。


「ねえ、普通さぁ、幼馴染の女の子をこんなところで長時間、しかも1人で待たせるかな」


祥磨の両頬を冷たい手で挟み、ムニムニと触る。その手は小刻みに震えている。きっと寒かったのだろうな。自分まで遅刻するかもしれないリスクを負ってまで、なんで先に行こうとしなかったんだろう。不思議でしかない。


「先にぃ行っててもぉ良かったのにぃ。連絡もぉ入れたじゃぁん」

「置いていけるわけないでしょ、祥磨のこと……、心配だから」

「えっ」瞬間、頬を赤らめ始める晴蘭。恥ずかしそうに笑う。


「ねえ晴蘭、僕ぅ、心配かけるようなことしたっけぇ?」

「……」

「晴蘭……?」

「やっぱり心配して損だった。もう遅刻するから、早く行くよっ!」

「えっ、ちょっと!」


 祥磨の手を引き、全力で走る晴蘭。その背中は、男の祥磨よりも頼りがいのあるものだった。バニラのような甘い香りが、風に靡く髪から香ってくる。結構鼻につく匂い。


「昨日まであんな匂いしなかったのに。僕にはちょっとキツイな……」

「祥磨、何か言った?」

「晴蘭~、そんな甘い香り漂わしてて大丈夫なのぉ?」

「え、何が?」

「ほら髪、シャンプー変えたぁ?」

「うん。変えたよ。ちょっとお高めのにね」

「なんで変えたりしたのぉ~? 僕は前のときの匂いのほうが好きなのにぃ」

「色々あるでしょ。女子なんだから」晴蘭が軽く格好つけて言う意味が分からない祥磨は、走りながらも首を傾げる。


「っていうか祥磨って鼻効きすぎでしょ。ほんと犬みたい」

「僕は犬じゃないよぉ~」

「えへへっ、あ~、でも飼ってみたいな~、祥磨みたいな犬」

「え、どういうことぉ?」

「ううん、何でもない!」

「ならいいけどぉ!」

「あっ、バス来ちゃってる!」停まるバスに向かって大きく手を振り、運転手にアピールする晴蘭。「乗ります! 乗りまーす!」と大声を出して走る。


「そんなにアピールしてたらぁ、流石に気付いてると思うけどなぁ」

「ダメ。前にスルーされたことあるから。乗るまでが勝負だよ」

「う、うん」


 バスは定刻通りに発車する。唯一の空席に腰かける晴蘭。スカートを履いているにも拘らず足を組み、偉そうな態度で祥磨の顔を見つめる。一方の祥磨は肩を上下に大きく揺らし、乱れまくった呼吸を整えていく。


「ハァハァ……」

「あれだけの距離走っただけで息切れしてんの? それマジ?」

「マ、マジだよ……、ちょっ、っと待って。呼吸、整えるからァ、ハァ」


馬鹿にする感じで溜め息を吐く晴蘭。祥磨は懸命に息を整えていく。


「祥磨さ、ダサすぎ。少しは運動しなよ。せっかく整った顔立ちが泣くよ? それに、もう高3なのに、そんなんで息切れしてたら、何の仕事できないよ?」

「いいもーん。ダサくてもできる仕事探すからぁ。ふんっ」

「あーあ、いじけた。そうやってすぐいじけるところも、よくないと思うけど」

「いいよぉ、もうぅ。何をしてもどうせ晴蘭には負けちゃうもん」

「確かに、私は祥磨になら勝てる自身ある。エヘヘ」

「……」

「あーあ、私が男だったら、余裕で祥磨のこと守れるのに」


拳を突き出し、ニコッと笑う晴蘭。祥磨にとって晴蘭の無垢な笑顔は罪だ。


「っていうか、男なんだったら、私のこと守ってよね。これでも私、一応女の子なんだから」唐突なる上目遣い。祥磨の胸が妙な音を立てていく。


 バスが高校近くの停車場に着いたのは、予鈴が鳴る10分前だった。学校までは徒歩で3分。なんとか間に合いそうだと、胸を撫で下ろす。


「なんとか間に合いそうだねぇ」

「遅刻しそうになってんのは、誰のせいよ」

「それはぁ……」祥磨が俯き、当惑していると、晴蘭は「あっ」と言う。指す先、自転車を押しながら歩いてくる晴蘭の友人、八百の姿。


きっちりと結ばれたポニーテールに、カラーヘアピンを左右バツ印で止めている。もはや、このヘアスタイルではない八百の姿を見た事はなかった。そんな八百の母親は有名な琴の奏者で、八百もまた、昔から奏者として名を馳せていた。そんな有名人が、自分の高校にいることが2年経った今でも信じられないでいる。


「八百、おはよ」手を振る晴蘭。シャツの袖から顔を出す手首は、今にも折れそうなほどに細く、色も白い。祥磨は心の中で呟く。「男になったとしても、こんなんじゃ僕を守れないよ」と。


「おはよう、今日はギリギリじゃん。セットで」

「八百、聞いてよ。祥磨ったら、また遅刻してきたの。私を待たせておいて」

「えっ、そうなの? いやいや、1年からカウントして、何回目なのよ。って、よく祥磨とくっついてられるね。私なら呆れてるよ、とっくに」

「でしょ? 祥磨に呆れない。それが私の自慢だから」

「何それ、面白い」

「でしょ~。ハハハ」

「アハハ」


 笑い合いながら祥磨から離れ、隣に並んで歩きだした晴蘭と八百。晴蘭の背中は祥磨といるときよりも明るく見える。しかも、同性といるからか、距離が近い。「いいなぁ。僕も堂々と歩きたいよ」投げやりにいった言葉が、結構な声量だった。祥磨は瞬間俯き、あらゆるものからの視線を逸らす。


「祥磨の隣なら、私が堂々と歩いてあげるよ?」

「え」

「その時が来るの、私、待ってるから」


艶のある長髪が靡く。バニラの香りが微かにした。


 祥磨を置いて、晴蘭と八百は再び歩き出す。朝日に照らされるポニーテールが揺れ動く。祥磨に聞こえない声量で会話を交わす晴蘭と八百。祥磨の心臓は凪のように静かだった。


「祥磨の奴、晴蘭にちゃんと謝った?」

「全然。まあいつものことだけどね」

「よく許せるよ。私なら潰○てると思う」

「もう言っちゃってるじゃん、それ」

「でもさ、祥磨の奴、そろそろ女子とも話したらいいのにね。もう卒業まで1年もないのに。それに、恋愛だってどうするんだって話じゃん」

「まあそうだけどね。私としては得だよ。祥磨に近づく人がいないからね。エヘヘ」

「へっ」

「祥磨には誰も近づかせない。私が祥磨の彼女、ううん、お嫁さんになるんだから」

「……!」


 爆弾発言とも取れる、晴蘭のナチュラルな発言。何気ない顔をして言うために、八百は「ひぃ!」と変な声を出し、驚きを露にした。そして、泥棒がそそくさと逃げるかのように、テストがどうとか言い残し、その場から自転車と共に走り去っていく。状況を覆すかのように、いつものテンションで「またお昼にねー!」そう大声を出す晴蘭に、八百は何度も大きく頷く。


 予鈴が鳴る7分前だというのに、玄関は生徒で溢れかえっていた。相変わらず2年の後輩が出すオーラは思いのほか怖く、祥磨は密かに怯えている。それなのに、祥磨たち3年とは違って、勉強ができるエリートだらけが集っている。それに対して入学してきたばかりの1年は全体的にほわほわしていて、平凡ばっかりが集まっているようだった。2年とはがらりと印象が異なるから、まだ可愛いと思える。ただ恋愛したいと思う人は誰一人としていない。そう思っている祥磨たち上級生である3年は、奇抜で目立つ変わり者が多い。それに、成立しているカップルの数も、別れたカップルの数も、相当数いる。ある意味、同じ色に染まっていないのがいいところだ。


「おーい祥磨」靴を手に祥磨に話しかける晴蘭。

「……」

「祥磨ってば」今度は靴を入れてから、両手を祥磨の前で振る。

「ん?」

「早く行くよ」

「あー、ごめん、ちょっと用事があるからぁ、先に教室行っててぇ」

「またあ?」

「どうしても行かなきゃなのぉ」

「仕方ないな。でも、遅刻だけはしないでよ。じゃないと、また先生に怒られるよ?」

「分かってるよぉ。またあとでねぇ」


 祥磨は呆れる晴蘭に背を向けて廊下を走る。跳ねるリュックと心臓。1秒でも早く大好きで大好きで堪らない彼に会いたいと言わんばかりに。

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