第2話

――ガラガラ


「失礼しま~す」


周回可能な椅子に座る保健教諭、灰谷道人は、悠々自適に、ほぼ飲み終わりに近い状態のペットボトルに入るコーヒーを飲んでいる最中だった。


「ふっ、やっと来たか。遅かったな」

「でも時間内にはきてますよぉ」

「そうじゃなくて、お前と戯れる時間が少ないだろって言ってんだ」

「あぁ、そういうことぉ。遅くなってごめんなさ~い」

「お前、まさかとは思うが、また寝坊したのか?」

「古文の課題がなかなか終わらなくてぇ。あーあ、僕も灰谷先生みたいに賢かったら、夜遅くまで起きてなくて済むのになぁ」


 望みを呟きながら祥磨はいつもの通り、灰谷が座る前にしゃがみ込む。そして、下から灰谷のことを見つめる。まさに眼福のとき。


「そんなこと言うなら、俺が賢くなるおまじないでもかけてやろうか?」

「何するつもり~?」

「ほら、とりあえず座れ」

「座ってますよぉ」

「違うだろ。この椅子に座れ」

「え~」

「とにかく、座れ」

「ねぇ~、教えてよぉ~」

「お・し・え・な・い」そう耳元で呟いた流れから、灰谷は祥磨の右頬にキスをした。今日はレモンみたいな甘酸っぱい香りがした。


「これがおまじない?」

「何だ、足りないのか? もっとやるか?」

「やって、って言ったらやってくれるんですかぁ?」

「祥磨の願いなら、俺は叶える義務があるだろうな。恋人として、な」


 またも祥磨の頬に近づく、艶めいた唇。もっとこのまま、時さえ許してくれるのなら……


――キーンコーンカーンコーン


タイミング悪く鳴るチャイム。


「あーあ、いい時だったのに」


灰谷は溜め息を吐きながら頭を抱える。一方の祥磨は慌てふためく。


「うわぁ~! チャイム鳴っちゃったぁ! 遅れちゃうからもう行く!」

「相変わらず草食だな。そんなんじゃいつまでも肉食系になれないぞ」

「いいよぉ、僕は草食のままで。そうじゃないと、キザで肉食な灰谷先生の相手になれないでしょっ?」

「ハハハハハ、それもそうだな。祥磨に肉食になられたら困るな」

「でしょぉ。でもねぇ、今日もそんな肉食の灰谷先生のこと、大好きっっ!」

「おう。俺もだ、祥磨」

「えへへ。じゃあ、また放課後ね!」

「ん。勉強頑張れよ」

「はあーい!」


 距離が遠ざかっても余韻が残る、灰谷のちょっとスパイシーな香り。鼻腔までもが幸せ。祥磨を魅惑し続ける灰谷。カッコいい顔をした短気な天使は、小さく手を振りながら見送った。


 本鈴が遠くのほうから聞こえる階段を駆け上がる祥磨。息が切れていく。あのときは、こんな保健の先生、早くいなくなればいいのに、なんて思っていたのに。今じゃそんなこと一切思わなくなっている。まるで灰谷という魔法使いに、自分のことを好きになるという魔法をかけられたみたいに。


 そんな灰谷と祥磨に関係性が生まれたのは、昨年の5月。祥磨にとっては、高校に入学して2回目の、灰谷にとっては赴任して初めての、体育祭が開かれていたときだった。朝から夕方まで五月晴れが広がる、体育祭日和の日だった。


 祥磨は保健委員として、怪我をしたり、体調が悪くなったりした生徒や参観に来ている人、教職員の手当をしたり、面倒を見たりしていた。祥磨は自他ともに認める運動が苦手な男であり、あまり競技にエントリーしていなかった。もちろん、エントリーした競技もあるが、どれも足を引っ張らないであろうというものばかり。実際、1年生のときに足を引っ張った経験のある競技もあったために、この時は選んでいなかった。


そのために、祥磨は保健委員の先輩や灰谷に積極的に声をかけ、朝から夕方まで働き続けた。1年生のときは図書委員を選んでいたために、体育祭という行事を通して、誰かのために動くのは初めてのことで、緊張もありつつ、得点で競争しつつも結局は楽しんでいるという、体育祭でしか味わえない雰囲気に飲み込まれ、妙に興奮していた祥磨。放送部以外が集まる閉会式が開かれる頃には、既に誰よりもヘロヘロになっていた。「解散!」そう体育教員の張った声が耳に届くと同時に、祥磨はその場に倒れ込んだ。まるで電池が切れたロボットのように。


 目を覚ますと、祥磨は少しクリーム色がかった天井を見ていた。鼻を掠める消毒液の匂い、閉められたカーテン……、「保健、室……?」閉じていたカーテンがガッと開く。そこには、白の半袖シャツを着ている保健教員、灰谷道人が、祥磨のことを上から覗き込むようにして見つめた。グレーのズボンには、軽く土汚れが付着している。


「お。目、覚めたか」

「あっ」

「あー、そのままでいい」

「あ、はい」


ベッドの隅に腰を下ろし、下ろした前髪の向こうから鋭い目を祥磨に向ける。冷徹な視線。よくこんなんで保健の先生になれたなと思ってしまうほどに鋭い。


「ナイフみたいな目ぇ……」

「なんか言ったか?」

「あ、い、いえ……」

「ったく。保健委員のやつが過労で倒れるって、元も子もねえし。それに、お前どんだけ体力ないんだよ。ろくに競技にも参加してねーのによ」

「すみません……」


 祥磨が灰谷に抱いた第一印象は、キザで、冷徹で、あまり生徒のことを考えていないような感じがする先生。ただ、そんな灰谷に対し、学年問わず女子生徒たちは「カッコカワイイ」だの「キザキャラ好き」だのと言っては崇めたり、「振り向かない王子様」だと、一部の腐女子からそう陰で言われ、絶大な人気を誇ったりしている。とはいっても、やはり男子生徒人気はない先生だった。当たり前と言われれば、それで終わりなのだが……‥。それは、祥磨も同じ意見を持っていた。なぜこんな男がどうして女子から人気なのか、同性なのに分からない。カッコいいとも思えないし、可愛いとも思えない。なんで、こんな男がモテているのか、と。


「体は、大丈夫か?」

「あぁ、はい。あ、あのぉ、先輩たちはぁ……?」

「帰った。あとさっきな、えーっと、あ、堤って奴がお前の荷物持ってきてくれたぞ。んで、荷物はそこの籠の中に入れてあるから」

「せいら……、堤は、何か言ってましたぁ?」

「目覚めるまで待つって言ってたけど、いつ目覚めるか分からないから、帰れって言っておいた」

「そうぅ、ですか」

「あとでちゃんと礼言っとけよ。女って、案外根に持つからな」

「はっ、はい」


 俯く祥磨に近づくスパイシーな香り。息を呑み終わる頃には、その香りはすぐ近くでした。「ところで、お前さ」耳元で囁かれる声。甘い吐息が僕の頬を紅潮させゆく。


「何、ですか……?」

「男、好きか?」

「えっ……」

「だから、男は好きかって聞いてんだけど」


覗かせる顔は、獲物を捕らえた肉食動物みたいだった。祥磨は思う。僕は草食だから、負けるけど、と。


「いや、えっと、その……、す、好きです。男の人、好きです」

「じゃあ、決まり」

「えっ、な、何が、ですか?」

「俺の、(仮)の結婚相手になってくれないか」

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