第24話 世界の果て

 ドブロブニクはヨーロッパの保養地のようで、夏は観光客が多く賑わっていた。海は鮮やかでキラキラしていて、私は一人で海を眺めている。

 桜木君はリハーサルやら、打ち合わせで、本番まで忙しいというので、昼から一人で散歩していた。素敵なホテルに泊まって、今朝はゆっくりご飯を食べて出て行った。

「今日は聴きに来てくれる?」

「もちろん」と私は微笑んだ。

「紫帆さん…」

 何か言い出しそうな口に私は口づけした。これ以上、何も聞きたくないほど、満たされていた。もう私は何も望んでいない。あなたが幸せで暮らしていけたらそれでいいと思ってる。

「頑張ってね」

 突然、キスされたから桜木君は驚いていた。

「…ありがと。あの…」

 やっぱり何か言いたそうだったので、私は諦めて聞いた。

「いつまで、桜木君って呼ぶのかなって思って」

「…え?」

 今度はそんなことを言われるとは思ってなくて、私は目を丸くする。

「紫帆さんだって、桜木なのに」

「あ…。そうだね。えっと…じゃあ、一樹君?」

 すごく不服そうな顔をするから、理由を聞いた。

「そりゃ…年上だけど…君は…」

「もう年のことは言わないでって言ってるでしょ。じゃあ、私のことも紫帆さんって呼ばないで」

 お互い顔を見合わせて、でも何だか今更恥ずかしくて目を逸らしながら

「一樹」

「紫帆」と同時に言うから余計に顔を合わせられない。

「早く行かないと」と私は慌てて部屋のドアを開ける。

「うん。分かった。待ってるから」

「頑張って」と繰り返すと、いきなり抱きしめられて

「紫帆、ありがとう」と言われた。

 力が抜けそうになるのを必死でドアノブを持って、耐える。私は少し変わって来た気がした。私も桜木君も。

「楽しみにしてるから。…一樹の演奏」

 私がそう頑張って言ってみると、桜木君は口に手を当てて、目を大きくした。

「もう、早く行きなさい」と慌てて追い出す。

 ふざけている彼を何とか追い出す。

 ドアを閉めて鍵も掛ける。そんなことしても逸る心臓はごまかせない。胸が痛む。

 ベッドに飛び込んで、毛布にくるまる。

 桜木君の匂いが微かに残ってる。

(永遠の片思い…。そう思っていたのに)

 

 一人で海を見ながら歩いていると、明るい気持ちで満たされる。きらきらした海面を見るのはいつぶりだろう。ずっとバレエしかしてこなかった私は空調の効いた場所でずっと過ごしていた。夏に海に行ったこともないし、海で泳いだ記憶もない。

 ドブロブニクは海沿いの美しい街で、オレンジ色の屋根は童話に出て来そうな風景だ。そんな場所で、かつて内戦があり、この美しい建物で彩られた街並みは復興されたものだった。私は街で展示されていた写真を見て、驚いた。今の賑やかな風景とは全く違って、レンガの壁は崩れ落ちていた。

 そう思って、繁華街を住宅地を歩いていると、そこの住人が窓から気軽に手を振ってくれた。

 クロアチア語が分からなくて、私も笑顔で手を振ることしかできなかったけれど、紛争を経験したであろう住人がこうして見ず知らずの私に明るい気持ちを向けてくれるのは胸が詰まる。

 そうして丘に向かって階段を上っていた時、肩を叩かれた。

 何か落とし物でもしたのだろうか、と振り返ると、そこの宗君が立っていた。

「…紫帆さん。会いたかった」

 私は声が出ないくらい驚いた。

「丘に行くんでしょ? 一緒に行きましょう」と言われて、そのまま階段を上り出した。

 逃げたところで追いつかれるに決まっているから、私は話がしたくて着いて行った。

「どうして、連絡してくれないんですか?」

 彼は階段をのぼりながら、私を見ずに聞く。

「だって…。連絡する必要が」

 私の小声は届いただろうか。

「ありますよ」

「どんな?」

「…僕が好きになったからです」

「でも彼女いたでしょう?」

 彼女と別れたからだろうか、と思ったが、彼の言葉を待った。

「上手くいってないって相談してたじゃないですか。ドイツであんなに愛しあったのに」

 心臓が軋む。

「あれは…」

「旦那さんと上手く行ってないんじゃないですか?」

「違うの」

 会話をしながら、彼がなぜここにいるのかを考えるとぞっとした。私は彼に夫は日本人のピアニストで公演にでかけていると伝えていた。それだけで検索して、ここまで辿り着いたのだとしたら――。

「前にも旦那さんのコンサート行ったんですよ。台湾に来てるっていうから、近かったし。…でも紫帆さんは来てなくて」

「え?」

「紫帆さんを愛していない人のピアノコンサート聞いて」と微かに笑いながら言う。

「…何か彼に言った?」

「言ってませんよ。ただ…僕が紫帆さんを幸せにするって思っただけです」

 息切れがするのは階段を上がっているからだけではない。丘の上が見えてきた。

「キリストが…」

「え?」と宗君が振り返る。

「ううん。…何でもない」

 磔になったのも丘だった、と私はぼんやりと思った。

 海が少し遠くなったけど、世界の果てまで広がっていた。

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