第25話 広がる影
広い海の世界の果てを見て、私の人生がどうなるのか見えた気がした。白くぼやけた空と海の境界線を見て、覚束なくて不鮮明な。
その予感を振り切るように私は宗君に微笑んだ。
「探しに来てくれたの?」
たった三日、身体を重ねただけなのに、こんなに遠くまで来てくれた。それが例え愛でなくても――。
「もう一度、会いたかったから」
「彼女と上手くいかなかったの?」
「そうじゃなくて。紫帆さんを知ってから…忘れらなくて」
「私なんて…」
あなたを利用しただけの哀しい女なのに、と思いながら微笑み続ける。
「そんなことない。紫帆さんは綺麗で、優しくて」
相変わらず細い背中だ。若いから人生を知らないのだと思う。私以外にきっともっとお似合いの人がいるのに…、と思って、彼はまるで自分だと思った。桜木君が好きで、叶わなくても側にいたいと願った自分に似ている。
「ずるい人間なのよ」
「分かってる。それでもいい」
「本当に?」
ずるいことしたの、本当に分かっているのだろうか、と宗君を見た。
綺麗な風が吹き抜ける。
「旦那さんに…俺が話していい?」
私はしっかり首を横に振った。
「私とあなたの問題でしょ?」
「でも…」
「突然、連絡を取らなくなったのは悪かったと思ってる。でも…私は彼を愛してるから。あなたとは一緒にいられない」
きっぱり言ったのが悪かったのか、宗君の両手は私の首に張り付いた。
「愛してもらえなくても?」
「愛してもらえなくても」と繰り返すと、親指が喉に食い込んで来た。
「それなら一緒に…」
(あぁ、それも悪くない)
私は目を閉じた。今日、私がコンサートに来なかったら哀しむだろうか。でも…きっと立派にコンサートは終えるだろう。少しは淋しく思ってくれるだろうか。
(ようやく…彼を解放できる)
私は薄く微笑んだ。
(最後まで離婚してあげられなかったあなたを…私はようやく手放してあげられる)
ある意味、私はどこかほっとしたところがあった。自分からは手を離してあげられないことを分っていたから。
でもいつまで経っても宗君は私を締めない。
目を開けると、宗君が泣いていた。
「…どうして」
「…どうして?」
「そんなに旦那さんがいいんだよ?」
その気持ちが痛いほど、分る。
(宗君、私とあなたは同じ。永遠の片思い)
「私が…好きだから」
宗君の手が落ちて項垂れた。
「ここまで来てくれて…ありがとう。でも帰りなさい」
「…嫌だ」
簡単には折れないだろうと分かっていたから、私は連絡をすると言った。私が原因なのだから、きちんと向き合わなくてはない。それに私は宗君を殺人犯になんかさせたくなかった。
「また来るから」
「…分かった。私が冬に一度帰るから。その時にゆっくり話しましょう」
強引に抱きしめられて、私は辛くなる。
「紫帆さんが欲しい」
首を横に振って
「無理なの」と言った。
それは私に言い聞かせるように。そして顔を上げてはっきり言う。
「彼に近づかないで。絶対に」
私がそういうことを言える立場でないのは分っている。でも桜木君を傷つけたくなかった。
「…それは」
「もし近づいたら、冬にも会わないし、明日、死んでもいい」
「え?」
あの人を傷つけるくらいなら、私は死ぬことを選ぶ。
(幸せにしてあげたいだけだった――)
「本気だから」と宗君の身体を押した。
簡単に身体が離れた。
「……」
そして私は振り向かずに階段を下りた。石段を下りながら、小さかった影が裡に大きく広がりだすのに怯えた。
夜になってコンサート会場に向かった。私は客席に座るのが怖くて、舞台袖で聴かせてもらうことにした。客席には宗君がいるかもしれないと思ったからだ。客席はほぼ満員のようだ。
「じゃあ」と桜木君は微笑ながら舞台に上がっていた。
その後ろ姿を見て、私は手を合わせて祈る。これから先も、彼が幸せであるように。たくさんの公演を成功させますように、と。
その側に私がいなくても――。
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