第9話 孤独の輪舞
「この投稿、見覚えがありますか?」
城之内真は、スマートフォンの画面を哲学部の仲間たちに見せた。そこには、一枚の写真が表示されている。教室の窓際の席。しかし、その画像には違和感があった。写っているはずの人物が、透明になっていたのだ。
放課後の部室に、沈黙が落ちる。
「これ、綾小路さんの席よね」佐倉葵が眉をひそめる。「でも、投稿者は誰?」
「それが分からない」真は画面を操作する。「アカウント名は『透明な観察者』。投稿は全て、similar な特徴を持つ写真ばかりだ」
村松諒がパソコンを開き、素早くキーボードを叩く。「他の投稿も確認してみよう。ここ一週間で、similar な投稿が急増している」
次々と表示される写真。図書館の座席、カフェテリアのテーブル、部活動の集合写真。そこには必ず、透明化した人物の姿があった。
アレーテが静かに言う。「これは、イデア界からの干渉ですね」彼女の紫の瞳が、真剣な光を帯びる。「しかも、今までとは違う形で」
真は頷く。前回の事件から二週間。イデア界との新しい均衡が保たれているはずだった。しかし、この異変は明らかに、また別の形での干渉を示していた。
「綾小路さん、最近見ていないわね」葵が言う。「保健室に行ってみたけど、一週間くらい学校を休んでいるみたい」
「彼女のSNSアカウントは?」村松が画面から目を離さず尋ねる。
「それが...」葵が自身のスマートフォンを確認する。「投稿は増えているのに、どことなく様子が違うの」
真は考え込む。綾小路遥。クラスの中でも特に目立たない存在だった。しかし、SNS上では活発に活動し、多くのフォロワーを持っていた。その彼女が、突如として姿を消し、そして透明な写真が出回り始めた。
「発信と実在の乖離」アレーテが呟く。「現代特有の現象ですね」
その時、真のスマートフォンが震える。新しい通知。『透明な観察者』からの新たな投稿だった。
写真には、見覚えのある場所が写っている。学院の裏庭、誰も来ない古い温室。そして、その中に透けて見える人影。
「ここなら、イデア界との境界が薄い」アレーテが言う。「調べてみましょう」
真と葵、そして村松が頷く。四人は急いで温室へと向かった。
***
夕暮れ時の温室。曇ったガラスの向こうで、夕日が赤く染まっている。
「この場所、なんだか懐かしい」葵が言う。「昔は園芸部が使っていたんだって」
真は周囲を観察する。古い植木鉢、錆びた園芸用具、埃を被った作業台。そして、隅に置かれた一台のノートパソコン。
「開いてる」村松が近づく。「しかも、電源が入ったまま」
画面には、SNSのタイムラインが表示されていた。『透明な観察者』のアカウントだ。
「待って」アレーテが声を上げる。「この場所、イデア界との共鳴が...」
その瞬間、温室全体が青白い光に包まれた。ガラスの向こうの風景が歪み、そして...
「これは...」
真の目の前に広がったのは、デジタルな光で構築された空間。無数の投稿、コメント、いいねの数字が、データの流れとなって漂っている。まるで、SNSの世界が実体化したかのようだった。
「イデア界のネット空間?」村松が驚きの声を上げる。「こんな場所があったなんて」
「現代の人々の意識が生み出した領域です」アレーテが説明する。「現実とオンラインの境界に生まれた、新しいイデアの形」
その時、一つの投稿が彼らの前を通り過ぎる。
『誰も、本当の私を見ていない』
『この方が、楽なのかもしれない』
『透明になれば、傷つかなくて済む』
投稿者は、綾小路遥のアカウントだった。
「遥...」葵が悲しげに呟く。
真は、投稿の流れを追う。そこには、一人の少女の孤独が、生々しく記録されていた。現実での居場所の無さ、オンラインでの仮面、そして次第に深まる孤独。
「でも、おかしいわ」葵が言う。「遥は、クラスでも結構人気者だったはず」
「SNS上のペルソナと、現実の自分」村松が分析的に話す。「その違いに苦しんでいたんじゃないか」
アレーテが静かに頷く。「人は時に、理想の自分を演じすぎて、本当の自分を見失う。それは、一種のイデアへの執着かもしれません」
次々と流れる投稿の中に、新しいメッセージが現れる。
『もう、現実には戻れない』
『ここなら、完璧な私でいられる』
『さようなら、不完全な世界』
「遥!」葵が叫ぶ。
真は、決意を固める。「村松、このデジタル空間の構造を分析してくれ。葵は、遥の投稿の特徴やパターンを探って」
「了解」二人が同時に答える。
「アレーテ」真が彼女を見る。「君と僕で、イデア界側から...」
アレーテが頷く。彼女の体が、かすかに光を放ち始める。
デジタルの海を泳ぐように、二人は投稿の流れを辿っていく。そこには、現代人の孤独が作り出した迷宮があった。つながっているようで孤立し、発信しているようで独り言を呟く。その複雑な渦の中心に、遥の意識があるはずだった。
「見つけた!」村松の声が響く。「投稿のパターンに規則性がある。特定の時間に、特定の場所から...」
「私も分かったわ」葵が続ける。「遥の投稿、本当の叫びと演技が混ざってる。でも、最近は本音の方が増えている」
真は、一つの仮説を立てる。
「遥は、自分自身のイデアを追い求めすぎた」彼は言う。「SNS上の完璧な自分。でも、その理想に近づけば近づくほど、現実の自分との乖離に苦しんだ」
「そして、その矛盾が」アレーテが続ける。「イデア界の力を呼び込んでしまった」
突如として、空間が大きく波打つ。投稿の流れが渦を巻き、その中心に、一つの光点が現れる。
「遥...?」葵が呼びかける。
光点が、人の形を取り始める。しかし、その姿は半透明で、まるでホログラムのようだった。
「もう、戻れない」遥の声が響く。「ここなら、誰にも傷つけられない」
「違う!」真が一歩前に出る。「それは逃避でしかない。本当のつながりは、不完全さも含めて受け入れることから始まる」
「本当の...つながり?」遥の声が揺れる。
「そう」葵が続ける。「遥の投稿、私、ちゃんと見てたよ。演技じゃない部分、本当の言葉も。だって、私たち友達でしょ?」
遥の姿が、わずかに実体化する。
「でも、私...」
「完璧である必要はない」アレーテが静かに言う。「現実とイデアの間には、必ず距離がある。大切なのは、その距離を認めた上で、一歩ずつ近づいていくこと」
真は、アレーテの言葉に深い共感を覚える。彼女もまた、イデアと現実の狭間で葛藤してきたのだ。
「一人じゃない」真が手を差し伸べる。「帰ろう、現実の世界に」
遥の指が、おずおずと伸びる。その瞬間、アレーテの体が強く輝き、空間全体が白い光に包まれた。
***
目を開けると、そこは夕暮れの温室だった。
古い作業台の前で、遥が目を覚ます。彼女の姿は、もう透けてはいない。
「私...戻ってきたの?」
「ああ」真が頷く。「現実の世界に」
遥の目から、涙が溢れ出る。葵が駆け寄り、彼女を抱きしめる。
「おかえり」
村松は黙ってノートパソコンを閉じ、アレーテは静かに微笑む。
温室の窓から、夕陽が差し込んでいた。その光は、イデアと現実が溶け合うように、温かく、優しい色をしていた。
***
後日、哲学部の部室で。太陽が西に傾き始め、部室の窓から差し込む光が徐々に橙色を帯び始めていた。
「ねぇ、見て見て」葵が携帯を掲げる。画面には、クラスでの様子を収めた写真が表示されている。「遥、今日から学校に戻ってきたの」
教室で友達と話す遥の姿。その表情は、SNSでの加工された笑顔とは違う、素直な喜びに満ちていた。
「変化が見られます」村松がパソコンの画面に目を向けたまま話す。「彼女のSNSでの投稿、より自然になっている。いいねの数は以前より減少しているものの、コメント欄でのコミュニケーションの質が向上している。特に...」
彼は画面をスクロールする。
「実名でのやり取りが増えた。匿名の称賛より、知人との実質的な対話を選んでいるようだ」
真は静かに頷く。「本当の関係性を求め始めたということか」
アレーテが窓際に立ち、夕陽に照らされる校庭を見つめる。「デジタルの海で見た彼女の孤独...あれは、現代の若者たちが抱える普遍的な問題かもしれません」
「私たちも似たようなものかもね」葵が携帯を置き、考え込むような表情を浮かべる。「『いいね』を求めて、自分を演出して...時々、本当の自分が分からなくなる」
「それって、プラトンの洞窟の比喩に近いかもしれないな」真が言う。机の上の古い哲学書を手に取りながら。「私たちは、SNSという洞窟の中で、影だけを見ている。その影が現実だと思い込んでいる」
村松が椅子を回転させ、みんなの方を向く。「でも、完全に否定することもできない。現代社会において、オンラインでの存在も、もう一つの『現実』だからな」
「二つの世界の調和...」アレーテが静かに呟く。「イデア界と現実世界の関係に似ていますね」
その時、携帯の通知音が鳴る。遥からのメッセージだった。
《明日から、哲学部の活動を見学させてもらえませんか?オンラインと現実、両方の世界について、もっと考えてみたいんです》
葵が目を輝かせる。「これが遥の出した答えね」
真は微笑む。「デジタルの海から戻ってきた彼女だからこそ、気付けたことがあるはずだ」
アレーテが部室の窓から差し込む夕陽を見つめながら言う。「現実とデジタル、理想と現実、イデアと物質...全ては繋がっている。大切なのは、その繋がりの中で自分の居場所を見つけること」
「そして」真がアレーテの方を見る。「その過程で、誰かの手を握ることかもしれない」
部室に沈む夕陽が、しばし静寂を金色に染める。
この事件は、デジタル時代の新しい課題を浮き彫りにした。イデア界との関わりは、形を変えながら続いていく。しかし今、彼らには確かな手応えがあった。
真は窓の外を見る。下校する生徒たちの中に、友達と笑顔で話す遥の姿があった。彼女は時々スマートフォンを見るものの、もう画面に吸い込まれることはない。
「人は、完璧な孤独を求めることで、かえって深い孤独に陥ってしまう」真は静かに言う。「でも、不完全さを受け入れ合うことで、本当のつながりが生まれる」
「それは、私たち哲学部にも言えることかもしれませんね」アレーテが微笑む。「個性も考え方も違う私たち。でも、その違いがあるからこそ、深く繋がれる」
葵が立ち上がる。「さあ、明日からは新しいメンバーも加わるわ。私たちの探求は、まだまだ続くってことね」
村松もパソコンを閉じ、珍しく柔らかな表情を見せる。「イデア界との新しい関係性か...興味深いデータが集まりそうだ」
夕暮れの光が、部室を優しく照らしていた。その中で、誰もが少しずつ、お互いの距離を縮めていることを感じていた。デジタルの世界もまた、彼らをつなぐ一つの手段として、その場所を見つけ始めていた。
真は、アレーテと視線を交わす。彼女の紫の瞳に、いつもより深い感情が宿っているように見えた。
イデアと現実、デジタルと実世界、そして人と人。全ての境界線は、決して消えることはない。しかし、その境界線は、人々の思いと絆によって、しなやかに、そして確かにつながっていく。
それは、新しい時代の、新しい形の「つながり」の始まりだった。
「さて」真は立ち上がる。「明日からの準備をしようか」
部室の窓から見える空は、夕暮れ特有の深い青さを帯びていた。その色は、デジタルの画面では決して表現できない、現実特有の美しさを持っていた。
葵が報告する。「SNSの投稿も、もっと自然になった。いいね数は減ったけど、コメントの質は良くなったって」
「現実とオンライン、どちらも大切な場所なんですね」アレーテが言う。「でも、バランスが必要」
真は、窓の外を見る。そこには、友達と話しながら下校する遥の姿があった。彼女は、以前よりも自然な笑顔を浮かべている。
「孤独のイデア...」真は考え込む。「完璧な孤独を求めることは、本当の孤独からの逃避だったのかもしれない」
「ええ」アレーテが頷く。「現代において、つながりの理想形を探すことは、とても難しい。でも...」
彼女は、そっと真の方を見る。
「一人ひとりの不完全さを受け入れることで、本当のつながりが生まれる。それは、イデアと現実の関係にも似ていますね」
夕暮れの光が、部室を優しく照らしていた。その中で、誰もが少しずつ、お互いの距離を縮めていることを感じていた。
【第9話終】
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