第8話 存在の境界線
放課後の図書館。古い木の匂いが漂う空気の中で、アレーテの長い銀髪が僅かに揺れた。夕暮れの柔らかな光が、積み重ねられた本の間を縫うように差し込んでいる。
「本当に、これが正しい選択なのでしょうか」
彼女の声が、薄暮の空間に響く。その紫の瞳には、いつもの冷静さではなく、明確な迷いが宿っていた。机の上には、黄ばんだ一枚の写真が置かれている。
城之内真は、その写真をもう一度慎重に確認した。10年前の学院創立記念式典。教職員や生徒たちが整然と並ぶ中、写真の隅に映り込んでいたのは、間違いなく現在と同じ姿のアレーテだった。時の流れに逆らうような、その不自然な存在。
「正しい選択かどうかは、結果を見るまで分からない」真は静かに答える。彼の声には、いつもの冷静さの中に、微かな緊張が混じっていた。「でも、これが必要な選択だということは確かだ。このままでは、学院が、そして君自身が消失してしまう」
窓の外では、既に異変が始まっていた。夕焼けに染まる空に、イデア界特有の虹色の歪みが見え始めている。それは、まるで水面に落ちた油のような、不自然な色彩の混ざり合い。現実世界とイデア界の境界が、刻一刻と薄れていくのを感じることができた。
「時間がありません」アレーテが立ち上がる。椅子が軋む音が、図書館の静寂を破る。「私たちは、今夜中に...」
その時、図書館の扉が勢いよく開いた。重厚な木の扉が、普段とは異なる音を立てる。
「見つけた!」
佐倉葵が、息を切らせながら駆け込んでくる。制服の襟元が乱れ、頬は走ってきた影響で紅潮している。その手には、古びた革表紙の本が握られていた。表紙の金箔が、わずかに光を反射する。
「図書館の地下書庫で見つけたの。これ、絶対におかしいわ」
葵が机の上に置いた本は、一見すると普通の古い記録集に見えた。しかし、その内容は、あり得ないものだった。ページをめくるたびに、微かな違和感が増していく。
「『学院創立百周年記念誌』...?」真が眉をひそめる。本の背表紙に刻まれた金文字が、確かにそう告げている。「待てよ。うちの学院は創立80周年のはずだ」
「そう。でも、この本には確かに百周年の記録が書かれている。しかも...」葵が本を開く。ページから古書特有の香りが漂う。「この写真を見て」
そこには、現在の学院の様子が写されていた。つまり、20年後の未来の記録が、既に本として存在していたのだ。写真には見覚えのある顔々。しかし、彼らは明らかに年を重ねていた。
「イデア界の影響です」アレーテが本に手を触れる。その指先が、わずかに震えている。「時間の概念が歪み始めている。過去と未来が、混ざり合おうとしている」
「他にも見つけたわ」葵が続ける。彼女の声には、興奮と不安が混じっていた。「図書館の本が、どんどん変化している。小説の結末が変わったり、教科書の内容が書き換わったり。まるで、本の『イデア』が現実に干渉し始めているみたい」
その時、部室の扉が再び開いた。今度は、ゆっくりと、まるで計算されたように。
「予想通りの展開だな」
村松諒が、冷静な声で言う。彼の手には、古いノートパソコンが抱えられていた。画面には既に、複数のウィンドウが開かれている。
「君も気付いていたのか」真が問いかける。村松の表情からは、普段の打算的な雰囲気が消えていた。
「ああ」村松がパソコンを開く。キーボードを叩く音が、緊張感を高める。「実は、10年前の事件について、詳しく調べていたんだ。そして、ある事実にたどり着いた」
画面には、古い新聞記事のスキャンデータが表示される。黄ばんだ新聞紙面が、デジタルの光の中で蘇る。
『県立図書館で奇妙な現象 - 本の内容が勝手に変化』
『連続する失踪事件の謎 - 被害者の共通点は?』
『学院祭で異変 - 参加者の証言に食い違い』
これらの記事は全て、10年前の出来事を報じたものだった。しかし、不思議なことに、記事の日付や細部の描写が、記事ごとに微妙に異なっている。まるで、複数の異なる現実が同時に存在しているかのようだった。
「記録自体が不安定になっている」村松が説明する。彼の声には珍しく、感情が混じっていた。「まるで、真実が複数の可能性の間で揺れているかのようにね」
「それって...」葵が考え込む。机に散らばる資料に目を走らせながら、彼女の表情が明るくなる。「プラトンの『想起説』みたいね。私たちの見ている現実は、イデアの不完全な写しで、本当の真実は別のところにある...っていう」
「その通りです」アレーテが頷く。その紫の瞳に、今までにない光が宿る。「そして今、その『写し』と『本物』の境界が崩れ始めている。イデアの世界が、現実に干渉を始めているのです」
「このまま進めば...」真が言葉を継ぐ。窓の外の歪みは、更に強くなっていた。「全てが元の『イデア』に飲み込まれる。つまり、現実世界が消失する」
重い沈黙が部室を包む。その静寂さえも、どこか不自然に感じられた。
「でも、どうして今になって?」葵が疑問を投げかける。彼女の声には、不安と焦りが混じっている。「10年前の事件との関連は?そして、アレーテは...」
真は、机の上に散らばる資料に再び目を走らせる。そこには、断片的な事実が記されていた。まるでパズルのピースのように、バラバラな情報が、少しずつ繋がり始める。
- 10年前の連続失踪事件
- 図書館での奇妙な現象
- 集団的な記憶の改竄
- アレーテの存在
- 影山玄の名前
「全て繋がった」真が立ち上がる。「10年前、影山玄を中心とする group が、意図的にイデア界との境界を操作しようとした。その実験は一度は失敗に終わり、大きな犠牲を伴って事態は収束された。しかし...」
「その影響が、完全には消えていなかった」村松が続ける。彼のノートパソコンの画面が、不規則に明滅し始めている。「むしろ、長期的な歪みとなって蓄積されていった」
「そして今、その歪みが限界を迎え」アレーテが立ち上がる。銀髪が、見えない風に揺れる。「全てが、崩壊点に達しようとしている」
その時、突如として図書館全体が大きく揺れ始めた。本棚から本が落ち、窓ガラスが軋むような音を立てる。窓の外を見ると、空が虹色に歪み、建物の輪郭が不鮮明になっていく。
「もう、限界です」アレーテの声が震える。「境界が...完全に崩れようとしています」
真は即座に判断を下した。「葵、村松。君たちは他の生徒の避難を。特に図書館にいる生徒たちを優先して」
「でも、真くん!」葵が抗議する。その目には、強い意志と不安が混じっている。
「頼む」真は真剣な眼差しで言う。「君たちにしかできない役割だ。僕とアレーテは...」
村松が葵の肩に手を置く。「行こう。彼らを信じるんだ。それに...」彼は珍しく優しい表情を浮かべる。「哲学部の名誉にかけて、僕たちにも守るべきものがある」
二人が去った後、真とアレーテは図書館の屋上へと向かった。階段を駆け上がる間も、建物の歪みは進行していく。壁が波打ち、床が傾き、時には階段の段数が変化する。現実の法則が、着実に崩れていっていた。
「ここまで、全て計画通りだったのですね」アレーテが階段を上りながら言う。「影山玄は、私を...いえ、私たちを、この場所に導くように仕向けていた」
「ああ」真は頷く。「君の力を利用して、イデア界との境界を完全に崩すつもりなんだ。だからこそ、10年前の事件の記憶を残した。僕たちが真相に近づくことを、予測していた」
「でも、どうして...」
アレーテの言葉は、途中で途切れた。屋上のドアを開けた瞬間、そこには信じられない光景が広がっていたからだ。
空全体が巨大な渦を描き、その中心では、イデア界の景色が透けて見えている。無数の本が宙を舞い、その頁は勝手にめくれ、文字が踊っている。それは美しくも恐ろしい、現実とイデアの混沌だった。
そして、その渦の中心に、一人の人物が浮かんでいた。
「よく来たな、アレーテ。そして、城之内真」
影山玄の声が、現実とイデアの境界を震わせる。彼の姿は半透明で、まるでイデアそのものが具現化したかのようだった。
「これが、10年前から準備してきた実験の完成形だ」影山が両手を広げる。「イデア界と現実世界の完全な融合。そして、その鍵となるのが、君なんだよ。アレーテ」
アレーテの体が、かすかに光を放ち始める。それは彼女の意思とは無関係に、イデア界に呼応するように輝いていた。
「やめろ!」真が叫ぶ。「強制的な融合は、両世界の破滅を招くだけだ!」
「破滅?」影山が冷笑する。「これは進化だ。物質的な制約から解放され、純粋なイデアの世界で生きる。それこそが、人類の次なる段階だ。プラトンが見た理想郷の実現...それが、私の目指すものだ」
渦は更に激しさを増し、現実の歪みが加速する。学院の建物が、まるで波打つように揺れ始めた。遠くからは、避難する生徒たちの声が聞こえる。
「違う」真が一歩前に出る。「プラトンが求めたのは、イデアを理解し、それを現実の指針とすることだ。決して、現実を否定することじゃない」
アレーテの体からの光が強まる。彼女の銀髪が、イデアの風に揺れる。
「そう、その力だ」影山の目が欲望に輝く。「君は両世界の架け橋として生まれた存在。その力を使えば、完全な融合が...」
「アレーテ!」真が叫ぶ。彼の声には、これまでにない強い感情が込められていた。「君は道具じゃない。君には君自身の意志がある」
その言葉が、アレーテの心に響く。混沌の中で、彼女の意識が明確になっていく。
「そうですね」彼女が微笑む。その表情には、もう迷いはなかった。「私は、父から与えられた使命の為だけに存在するのではない。現実世界で出会った人々、感じた感情、全てが私の一部なのです」
アレーテの光が変化する。それは強制的な融合を目指す影山の力に抗うように、柔らかな銀色の輝きとなった。
「真さん」アレーテが真の手を取る。「私には、分かりました。私たちがすべきことが」
真は頷く。「ああ。イデアと現実は、融合するものでも、完全に分離するものでもない。必要なのは...」
「適切な距離を保つこと」アレーテが言葉を継ぐ。「調和のとれた関係を築くこと」
二人の手が強く握り合わさる。その瞬間、アレーテの光が周囲に広がり始めた。それは穏やかで、しかし確かな力を持つ光だった。
「何を!?」影山の声が焦りを帯びる。渦の中心が、揺らぎ始める。
アレーテの意識が、両世界の境界そのものと共鳴を始めた。それは、彼女の本来の力。強制的な融合ではなく、自然な調和をもたらす力だった。
「これが、私の選択」アレーテの声が響く。「イデアを見つめ、理解し、しかし現実に生きること。それこそが、私たちの進むべき道」
光が最高潮に達する。真は、アレーテをしっかりと支えながら、目を閉じた。
その時、世界が一瞬にして静まり返った。
渦が消え、空が元の色を取り戻していく。しかし、それは以前とは少し違っていた。より深い青さ、より鮮やかな夕焼け。現実でありながら、イデアの輝きを帯びた空。
影山の姿は、光の中に消えていた。
アレーテは、真の腕の中でゆっくりと目を開いた。彼女の姿は、以前よりも実体を持って見える。まるで、現実により深く根を下ろしたかのように。
「成功...したのですね」
「ああ」真が答える。「君が新しい境界を作った。強すぎず、弱すぎない、正しい『距離』を」
二人は、変化した空を見上げる。遠くから、葵と村松が駆けつけてくる声が聞こえた。
「でも、これは終わりじゃない」真が続ける。「影山は必ず、また現れる」
「はい」アレーテが頷く。「でも今度は、私たちには仲間がいる。そして...」
彼女は、真の手をそっと握り直した。その仕草には、以前には見られなかった自然な温かさがあった。
「私には、あなたがいる」
夕暮れの空に、一羽の鳥が飛んでいく。その姿は、現実とイデアの境界を優雅に泳ぐように見えた。
新しい物語は、ここから始まる。
***
「イデアと現実の境界線は、実は人々の心の中にある。そして、その境界は、決して固定的なものではない。それは、人々の思いや絆によって、柔軟に、そして確かに守られていくものなのだ」
真の言葉が、静かに夜空に消えていく。その空は、かつてないほど美しく、そして深く青く輝いていた。
【第一部完】
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