第7話 時の記憶



学校図書館の地下書庫。古い革張りの本が並ぶ棚の前で、司書の山村静子が立ち尽くしていた。


「これは......いったい」


彼女の手には、一冊の古文書が握られている。その表紙には、不思議な文様が浮かび上がっていた。まるで生きているかのように、文様が淡く輝きを放っている。


城之内真がその異変を知ったのは、放課後のことだった。


「山村先生が、地下書庫で倒れているのを発見したんです」


図書館委員の川島美咲が、真に報告する。「意識はあったんですが、様子が......何か変でした」


「変って?」


「まるで、別人のように......昔の言葉で話し始めたんです」


真は、隣にいるアレーテと目を合わせた。銀髪の少女の紫色の瞳には、いつもとは違う光が宿っている。


「行ってみましょう」


保健室に運ばれた山村は、うわごとのように何かを呟いていた。


「御前様......お待ちください......」


その声は確かに山村のものだが、口調も言葉遣いも、まるで数百年前の人物のようだった。


「これは......」アレーテが山村の枕元に置かれた古文書に手を伸ばす。しかしその瞬間、彼女の体が一瞬、透明になったように見えた。


「アレーテ!」


真が駆け寄ると、アレーテは苦しそうに目を閉じていた。


「大丈夫です。ただ......この本から、強い波動を感じます。まるで、時のイデアが......」


その言葉の意味を理解する前に、異変は起きた。


保健室の空間が歪み始める。壁や天井が溶けるように消え、そこには見知らぬ世界が広がっていた。


「これは......江戸時代?」


そこは確かに同じ場所——しかし時代が違っていた。木造の建物が立ち並び、着物姿の人々が行き交っている。しかし、その光景は実体のないもののように、やや透明で揺らいでいた。


「時のイデアが乱れています」アレーテが説明する。「この古文書が、過去の記憶を呼び覚ましてしまったのです」


二人の周りで、異なる時代の風景が重なり合っていく。明治、大正、昭和——。それぞれの時代の姿が、幻のように現れては消えていく。


その中で、一人の少女の姿が浮かび上がった。銀色の髪を持つその少女は......アレーテによく似ていた。


「あれは......」


アレーテの表情が、一瞬蠢いた。しかし彼女は何も語らず、ただ静かにその光景を見つめていた。


「調べる必要があります」アレーテの声は、いつになく切迫していた。「この古文書の正体と、なぜ時のイデアが乱れているのか」


真は頷いた。しかし、調査を始める前に、新たな問題が持ち上がる。


校内のあちこちで、山村と同じような症状を示す者が現れ始めたのだ。


「保健室に次々と運び込まれています」


佐倉葵が報告する。「皆、昔の人のような言動を......」


状況は刻一刻と深刻化していく。感染者の中には教師も含まれ、授業も混乱し始めていた。


「これは......記憶の伝染?」


真が呟いた時、図書館から悲鳴が聞こえた。


「大変です!」図書館委員の川島が駆け込んでくる。「地下書庫から、別の古文書が......消えています!」


事態は思わぬ方向へと展開し始めていた。


真とアレーテは急いで地下書庫へと向かう。そこでは、蔵書の一部が不思議な輝きを放ち始めていた。


「まるで、本が意志を持っているかのよう......」


アレーテの言葉が途切れたその瞬間、空間が大きく歪んだ。


二人は、見知らぬイデア界へと引き込まれていく。それは、これまでに見たことのない光景だった。


無限に広がる図書館のような空間。しかしそこには、通常の本ではなく、「記憶」そのものが収められているようだった。様々な時代の光景が、まるで万華鏡のように折り重なっている。


「ここが......時のイデアの在り処」


アレーテの声が、不思議な響きを持っていた。


その時、一つの光が二人の前に現れる。それは次第に人の形を取り、一人の老人の姿となった。


「よくぞ来てくれた、アレーテよ」


その声に、アレーテの体が僅かに震えた。


「あなたは......」


「私は『記憶の守人』。そして、お前の過去を知る者」


老人の言葉に、真は息を呑む。アレーテの過去——それは、これまで全く語られることのなかった謎だった。


「時のイデアが揺らいでいる」守人は続けた。「過去と現在の境界が薄れ、記憶が混濁を始めている。このままでは、歴史の秩序が崩壊する」


「なぜ、こんなことが?」


「それは——」守人がアレーテを見つめる。「お前自身の存在が、時のイデアに影響を与えているからだ」


その言葉は、重い意味を持っていた。アレーテの表情が、一瞬だけ苦悩に歪む。


「アレーテ......」


真が声をかけようとした時、空間全体が大きく揺らいだ。様々な時代の記憶が乱れ始め、混沌が広がっていく。


「このままでは、現実世界の秩序まで......!」


守人の警告の通り、イデア界の混乱は現実世界にも影響を及ぼし始めていた。学校中で、様々な時代の記憶が実体化し、混乱を引き起こしている。


そして、その混沌の中心にいるのは——アレーテ自身だった。


「私は......」アレーテの声が震える。「私は、時を超えて存在する者。イデア界と現実世界の調停者として、代々この役目を担ってきた」


その告白は、これまでの謎を解く鍵となった。彼女は単なるイデア界の住人ではない。時の流れそのものと結びついた、特別な存在だったのだ。


「でも、なぜ今になって......」


「時の流れが、大きな転換点を迎えているからだ」守人が説明する。「そして、お前自身も変化している。人間との交流によって、お前の中に『感情』が芽生え始めている」


アレーテの体が、淡く光を放ち始めた。彼女の周りで、過去と現在の記憶が渦を巻いている。


「私は......どうすれば」


その時、真は決意を固めた。


「アレーテ、あなたは一人じゃない」


彼は、渦巻く記憶の中を歩み出る。


「確かに、あなたは特別な存在かもしれない。でも、それは人との繋がりを否定する理由にはならない。むしろ、その繋がりこそが、新しい可能性を生み出すんじゃないか?」


真の言葉が、混沌とした空間に響き渡る。


アレーテの目に、涙が光った。


「イデア界の理(ことわり)として、宣言します」


彼女の声が、強い意志を帯びて響く。


「時は流れるもの。しかし、その流れは決して一方向ではありません。過去と現在は、人々の記憶と想いの中で、常に交わり、影響し合い、そして新たな未来を生み出していくのです」


アレーテの宣言に呼応するように、混沌としていた記憶の渦が、徐々に秩序を取り戻し始めた。様々な時代の光景が、美しい螺旋を描いて整列していく。


「見事だ」守人が頷く。「お前は、ついに理解したのだな。時のイデアとは、単なる過去の保管ではない。それは、過去と現在の対話によって紡がれる、生きた記憶の網なのだ」


しかし、その時。


「まだ終わっていませんよ」


闇の中から、もう一つの声が響いた。そこには、黒いローブを纏った人影が立っていた。


「影山!」


真が声を上げる。イデア界の反乱分子のリーダーである彼が、なぜここに。


「時の記憶を、完全に解放するのです」影山の声には、狂気めいた色が混じっていた。「過去も現在も未来も、全てを一つに溶かし合わせる。そうすれば、人々は全ての真実を知ることができる」


彼が手にしていたのは、山村が最初に手にした古文書だった。それは今、不気味な輝きを放っている。


「その本は......」守人の表情が曇る。「時の記録(クロニクル)。全ての時代の記憶が刻まれた禁書だ」


影山がその本を掲げると、空間全体が揺らぎ始めた。様々な時代の記憶が再び混ざり合い、制御不能な渦となって暴走する。


「このままでは、時空の秩序が完全に崩壊します!」アレーテの警告が響く。


真は、決意を固めて一歩前に出た。


「過去を知ることは大切だ。でも、それは破壊的な形であってはいけない。記憶は、人々の心の中で自然に育まれ、理解されていくべきものなんだ!」


その言葉に呼応するように、アレーテの体から柔らかな光が広がっていく。


「私は、時の調停者として——」アレーテの声が透明な力を帯びる。「全ての記憶の安寧を願います」


真とアレーテの想いが重なった瞬間、不思議な現象が起きた。


時の記録から放たれる混沌の渦と、アレーテの放つ光が、まるで陰と陽のように対峙する。光と闇が交錯する中、様々な時代の記憶が万華鏡のように空間を彩っていた。


遠い過去の戦場、古の祭典、忘れられた約束——。無数の記憶の断片が、光となって二人の周りを舞う。その光の中には、かつてアレーテが見守ってきた数々の時代の記憶も混ざっているようだった。


それは壮大な歴史のパノラマであり、同時に一人一人の心の中に刻まれた大切な記憶でもあった。そして、その間に一本の道が開かれていく。


それは、過去と現在を結ぶ、新たな可能性の道筋だった。光の粒子が螺旋を描き、記憶の調和する場所へと導いていく。


「なぜだ......」影山の声が震える。「なぜ、記憶を解放しようとする私の意志が......」


「それは」守人が静かに告げる。「お前の方法では、真の解放にはならないからだ。記憶は、理解されるべきもの。破壊されるべきものではない」


影山の手から、時の記録が滑り落ちる。本は光となって砕け、その欠片は美しい光の粒となって空間に溶けていった。


「アレーテ」守人が声をかける。「お前は選択をしたのだな」


アレーテは静かに頷いた。「はい。私は、この世界に留まることを。人々と共に在ることを」


その決意は、彼女の新たな一歩となった。


イデア界の混乱は収まり、現実世界でも秩序が戻り始めていた。山村を始めとする感染者たちは、まるで長い夢から覚めたように意識を取り戻していく。


数日後、図書館。


山村は、少しずつ記憶を取り戻していた。彼女の机の上には、様々な時代の古文書が広げられている。


「不思議な体験でした」と彼女は言う。「まるで、様々な時代を旅してきたような......でも、それは決して恐ろしいものではなかったんです。むしろ、過去の人々の想いが、直接心に響いてくるような」


確かに、この出来事は人々に小さな変化をもたらしていた。歴史への興味が深まり、過去の記録をより丁寧に読み解こうとする姿勢が生まれていたのだ。


歴史部では新たな研究会が発足し、地域の古い記録を掘り起こす活動が始まっていた。図書委員会でも歴史資料の整理が進められ、デジタルアーカイブ化のプロジェクトも立ち上がった。


地下書庫には、新しい専用の棚が設置された。歴史資料を、より大切に保管するための場所。温度や湿度も管理され、過去の記憶を守るための環境が整えられていく。


「記憶は、守るべきもの」アレーテがつぶやく。「でも同時に、新しく生まれ続けるものでもあるのですね」


真は、彼女の横顔を見つめた。そこには、以前より人間らしい表情が宿っているように見えた。時の調停者としての使命と、一人の少女としての感情が、自然な形で調和しているかのように。


「アレーテ」


「はい?」


「いつか、あなたの過去の話も、聞かせてほしい」


アレーテは、少し照れたように微笑んだ。その表情には、かつての謎めいた雰囲気の中に、確かな温かみが混ざっていた。


「ええ。その時が来たら」


夕暮れの図書館に、穏やかな空気が流れていた。本棚に並ぶ古い本々は、まるで昔話を楽しむように、静かに佇んでいる。時折、古い革の匂いが漂い、それは不思議と懐かしさを感じさせた。


窓から差し込む夕陽が、本の背表紙を黄金色に染めていく。それは時の流れそのものを映し出しているかのよう。過去と現在が重なり、そして新しい物語が始まろうとしているーー。


(了).

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