第10話 欲望の方程式
放課後の光が、学院の廊下に長い影を落としていた。
生徒会室の大きな窓から、夕暮れの光が斜めに差し込む。予算書の数字が、オレンジ色の光に照らされて微かに揺れて見える。机の上には、各部活動からの予算申請書が山積みになっている。
佐倉葵は、手元の会計資料を何度も見直した。彼女は生徒会の会計監査として、毎月の予算執行を確認する立場にあった。通常なら単純な作業のはずが、今回は違和感が消えない。むしろ、詳しく調べれば調べるほど、その感覚は強くなっていく。
「おかしい...。この数字、絶対におかしいわ」
彼女は、生徒会の予算執行データが記された表を睨みつける。文化祭、体育祭、各部活動への配分。一見すると完璧な計算。しかし、その背後に何か別の意図が隠されているような...。
特に気になったのは、予算配分の変動パターンだ。部活動への予算は、通常、活動実績や部員数によって決められる。しかし最近の配分には、その基準では説明できない異常な偏りがあった。まるで、誰かが各部の「熱意」や「意欲」を数値化し、それに基づいて判断しているかのように。
時計の針が、六時を指す。
部屋の中は既に薄暗く、夕陽の光だけが頼りだった。葵は椅子に深く腰掛け、溜息をつく。この違和感の正体を、どうしても突き止めたかった。それは単なる好奇心ではない。何か重要なこと、見過ごしてはいけないことが、この数字の裏に隠されているような気がしていた。
その時、部屋の扉が静かに開いた。
「まだ残っていたのか」
生徒会長の柏木結衣が、優雅な足取りで入ってきた。完璧な立ち居振る舞い、誰もが認める実力。白いブラウスとスカートが、夕陽に照らされて輝いている。しかし今、その整った表情には微かな翳りが見えた。
「あ、会長」葵は慌てて立ち上がる。積み重ねた資料が、机の上で小さな音を立てる。「予算書の確認を...」
「ご苦労様」結衣は微笑む。しかし、その笑顔は普段より硬い。まるで仮面のように。「もう遅いわ。帰りましょう」
葵が資料を片付け始めた時だった。一枚の紙が、ふわりと床に舞い落ちる。
結衣が素早く拾い上げようとしたが、葵の目は確かに見た。文化祭予算の裏に書かれた、不可解な数式を。それは通常の会計計算とは全く異なる、複雑で神秘的な方程式。そして、その隅には奇妙な記号が記されていた。
後になって気付くことになるが、その時の違和感こそが、全ての始まりだった。
***
「欲望の数値化?」
翌日の放課後、哲学部の部室で、城之内真が眉をひそめる。夕暮れ前の柔らかな光が、部室を優しく照らしている。
「ええ」葵が頷く。彼女の声には、興奮と不安が混じっている。「文化祭予算の裏に書かれていた数式、明らかに通常の会計計算じゃないわ。まるで...人の欲望を定量化しようとしているみたい」
真は、葵が持ってきたメモを見つめる。写し取った数式は、確かに異様だった。通常の数学記号に混じって、見たことのない記号が踊っている。それは、まるで古代の魔術のようでもあり、最新のアルゴリズムのようでもあった。
アレーテが、静かに目を閉じる。銀髪が、見えない風に揺れる。「最近、イデア界で感じる違和感の原因かもしれません。欲望のエネルギーが、異常に高まっているんです」
「欲望のエネルギー?」真が問い返す。
「はい」アレーテが紫の瞳を開く。「人々の願望や欲求が、通常以上にイデア界に影響を与えているように感じます。まるで...誰かが意図的にそのエネルギーを操作しているかのように」
村松諒がパソコンの画面から目を上げる。部室の薄暗がりで、モニターの光が彼の眼鏡に反射する。
「興味深いな。実は、生徒会の予算執行に関して、奇妙なデータがある。各部の予算配分が、部員の"熱意"に応じて変動しているんだ」
「熱意?」真が問い返す。
「そう」村松が画面を回転させる。複雑なグラフと数値が表示されている。「表向きは部の活動実績による配分だが、実際は別の基準がある。部員たちの"欲望の強さ"とでも言うべきものが」
真は椅子に深く腰掛け、考え込む。「まさか、イデア界の力を使って...」
その時、アレーテが突然立ち上がる。椅子が軋む音が、静かな部室に響く。「この感覚...」
窓の外を見ると、夕焼け空が異様な色を帯びていた。通常の茜色ではなく、欲望を象徴するような紫がかった金色。雲が渦を巻き、そこに見たことのない模様が浮かび上がっている。
「生徒会室へ行きましょう」アレーテが、いつになく切迫した声で言う。「何か、重大な変化が起きています。このままでは...」
その言葉が終わらないうちに、校舎全体が微かに震え始めた。窓ガラスが軋むような音を立て、廊下の蛍光灯が不規則に明滅する。
四人は急いで生徒会室へ向かう。廊下を走る足音が、静まり返った校舎に響く。窓の外の異変は刻一刻と進行し、空全体が歪な光を放ち始めていた。雲が渦を巻き、その中心には、数式のような模様が浮かび上がっている。
「待って」葵が立ち止まる。「聞こえる?」
生徒会室の方から、かすかな音が漏れてくる。まるで誰かが呟くような、しかし人の声とも違う響き。それは数式を唱える声のようでもあり、祈りの言葉のようでもあった。
「気をつけて」真が扉に手をかける。取っ手に触れた瞬間、異様な温かさを感じる。「みんな、心の準備を」
ドアを開けた瞬間、四人は息を飲んだ。
結衣が部屋の中央に立ち、彼女を中心に無数の数式が宙を舞っている。それは通常の数字ではなく、欲望のエネルギーが具現化したような、紫がかった光の式。数字と記号が絡み合い、まるで生命を持つように蠢いている。
その光は部屋全体を不思議な色で染め、影さえも歪んで見える。机や椅子が宙に浮かび、ゆっくりと回転している。カーテンは無風なのに大きく揺れ、まるでイデア界の風が吹いているかのようだ。
「完璧な方程式」結衣が呟く。その声は、どこか虚ろで、まるで別の場所から響いてくるよう。「人の欲望を完全に理解し、最適に制御する...ついに、理想の解を見つけた」
彼女の姿は半ば透明になりかけていた。制服が紫がかった光に溶け込み、長い黒髪が宙に舞う。その周りでは、数式が更に複雑な渦を巻いていく。
「会長!」葵が叫ぶ。
結衣がゆっくりと振り向く。その瞳は、いつもの知的な輝きを失い、代わりに異様な光を宿していた。制服の襟元が乱れ、長い黒髪が宙に浮かんでいる。
「佐倉さん...いえ、みなさん」彼女の声が響く。その声は、まるで別の場所から届くかのよう。「見てください。これが、私が見つけた答えです。人の欲望を数値化し、最適な配分を実現する方程式」
数式が渦を巻き、部屋の空気が震える。机の上の書類が舞い上がり、カーテンが異様な風に揺れる。
「でも、どうして...」葵の声が震える。
「なぜって?」結衣の表情が歪む。完璧な仮面に、初めてひびが入ったかのよう。「この学院で、生徒会長として見てきたのよ。人々の際限のない欲望、それに振り回される混乱と矛盾。より多くの予算を求める部活動、自分たちの利益だけを主張する生徒たち...」
彼女の周りの数式が、さらに激しく渦を巻く。
「でも、これなら」結衣の目が、狂気的な光を帯びる。「全てを理論的に、完璧に制御できる。誰も不満を持つことなく、全ての欲望を最適化できるの」
アレーテが一歩前に出る。銀髪が、異界の風に揺れる。「それは、イデア界の力を使って...?」
「ええ」結衣が僅かに微笑む。「偶然見つけたの。数式に特別な力を込めることで、人の欲望そのものに干渉できることに。そうすれば、無駄な争いも、理不尽な配分も、全て無くなる。完璧な調和が実現する」
真は状況を理解し始めていた。結衣は、生徒会長として理想を追求するうちに、偶然イデア界の力に触れてしまった。そして、人間の欲望を完全に理論化し、制御しようと試みている。
部屋の空気が、更に重く、歪んでいく。窓の外の空は既に、現実離れした色彩を呈していた。イデア界の力が、この空間に流れ込んでいる。
「でも、それは違う!」葵が、光の渦に向かって一歩踏み出す。彼女の体が、紫がかった光に照らされる。「人の欲望は、そんな簡単に数式化できるものじゃない。それに...」
光の数式が、まるで葵の存在を拒絶するかのように渦を巻く。しかし、彼女はさらに一歩前に進む。
「会長が本当に求めているのは、この完璧な制御じゃないはず」葵の声には、強い意志が込められていた。「みんなが納得できる、心からの理解と公平な関係を作ることでしょう? それは、数式だけでは実現できない」
結衣の表情が、微かに揺れる。完璧な仮面に、小さな亀裂が走った。数式の光が、それに呼応するように明滅する。
「確かに...でも」彼女の声が震える。両手を見つめる結衣の姿は、どこか儚げだった。「理解なんて、結局は感情的で不安定。この方程式なら、全てを論理的に、完璧に...」
「方程式じゃない」真が一歩前に出る。光の渦が、彼の周りでも踊り始める。「必要なのは、対話だ。理解し合おうとする意志。それは時に不完全で、混乱を伴うかもしれない。でも、その過程にこそ意味がある」
アレーテの体が、かすかな銀色の光を放ち始める。それは結衣の紫の光とは違う、柔らかな輝き。「その不完全さこそが、人間らしさなのです。理想を追求することは素晴らしい。でも、人の心を完全に理論化しようとすることは、かえって本質を見失うことになります」
村松が、手元のデータを見ながら冷静に分析する。「実際、この一週間のデータを見てみろ。予算は完璧に配分されているように見えて、実は活動の質が低下している。なぜか分かるか?」
結衣が息を飲む。数式の渦が、わずかに速度を緩める。
「情熱が失われているんだ」村松が続ける。「欲望を制御されすぎて, 本来の創造性や積極性が損なわれている。人間の活動は、単純な数値だけでは測れない」
宙を舞う数式が、大きく揺らぎ始める。まるで、結衣の心の動揺を反映するかのように。光と影が入り混じり、部屋全体が不安定な状態になる。
「私が...間違っていたの?」彼女の声に、初めて迷いが混じる。「でも、この混乱を収める方法が...」
「方程式じゃない」真が言う。彼の声は、静かだが力強い。「必要なのは、対話だ。理解し合おうとする意志。それは時に不完全で、混乱を伴うかもしれない。でも...」
「その不完全さこそが、人間らしさなのです」アレーテが静かに続ける。彼女の紫の瞳が、深い理解を湛えて輝く。「理想を追求することは素晴らしい。でも、人の心を完全に理論化しようとすることは、かえって本質を見失うことになります」
村松が、パソコンのデータを見ながら言う。「実際、この一週間の各部活動のデータを見てみろ。予算は完璧に配分されているように見えて、実は活動の質が低下している。なぜか分かるか?」
結衣が息を飲む。
「情熱が失われているんだ」村松が続ける。「欲望を制御されすぎて、本来の創造性や積極性が損なわれている」
宙を舞う数式が、大きく揺らぎ始める。まるで、結衣の心の動揺を反映するかのように。
「私が...間違っていたの?」彼女の声に、初めて迷いが混じる。「でも、この混乱を収める方法が...」
「一緒に考えましょう」葵が、さらに一歩近づく。数式の渦が、彼女の周りで舞う。「会長は一人で背負いすぎです。みんなの気持ちを理解しようとして、自分を追い詰めている」
「完璧な解なんてない」真が言う。「でも、だからこそ意味があるんだ。不完全さを認め合い、それでも理解しようとする過程に」
アレーテの体が、柔らかな光を放ち始める。それは結衣の紫がかった数式の光とは違う、穏やかな輝き。
「イデア界が教えてくれたのは」アレーテが言う。「完璧な理想を追い求めることよりも、現実との調和を見つけることの大切さです」
結衣の周りの数式が、ゆっくりと色を変えていく。紫がかった光が、より自然な輝きへと変化していく。
「本当の意味での最適化は」村松が椅子から立ち上がる。「機械的な計算ではなく、人々の理解と共感から生まれるものだ。データが示しているのは、それだけだ」
光が次第に薄れていき、部屋が通常の様子を取り戻していく。結衣の体から力が抜け、その場に膝をつく。
「私...何を」
葵が駆け寄り、彼女を支える。制服の袖が、夕陽に照らされて揺れる。
「大丈夫、一緒に考えましょう。より良い方法を。今度は、一人じゃなくて、みんなで」
窓の外の空が、通常の夕焼け色を取り戻していく。異様な渦は消え、代わりに穏やかな茜色が広がっていた。
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