第4話 青年アタリ 3

 路地裏での乱闘から数日が立ち、アタリは新宿駅のホームに立っていた。


 その日もアタリは相変わらず競馬場へと足を運ぼうとしていた。先日の乱闘で獲得した資金は八万を超え、アタリはこの軍資金を使って再び一攫いっかく千金に挑戦しようとした。


 昔の彼からすれば、こうして自分がギャンブルに依存するなど想像もしていなかっただろう。当然彼にもギャンブルを恐れて蔑視べっししていた頃があり、生活費をつぎ込むほどまで落ちぶれるとは思ってもいなかったはずだ。自分は将来、金銭にこだわったり悩んだりすることは絶対にない。そんな昔の意志も今や面影がなく、彼の脳内は金とギャンブル、そしてギャンブルのお供である酒やタバコへの欲求で埋め尽くされるようになってしまった。


 彼が競馬にのめり込んだのは十七の頃だった。当時は家出をした直後で仕事も無く、頼りにできる人物もいなかったため、彼はしばらくの間公園や路地裏などで寝泊まりをするような生活を続けていた。しかし所持金が減っていくにつれて何とか稼がなければいけないと思い立ち、彼が最初に取った行動は競馬場に行くことだった。


 まだ十七歳であったものの誰も彼の年齢を疑うようなことはせず、彼は無事に馬券を購入することができた。その賭け金は一万円、ほとんど全財産だった。当然競馬への知識も無く彼は適当に馬を選んだのだが、幸運にもその結果は大勝利となった。一万円の賭け金が一瞬で三十七万に増え、アタリは味を占めてしまった。


 そういうわけだから、彼は十九になった今でも年齢を偽って競馬、競艇、そして競輪で日銭を稼ぐ生活を送っていた。安定こそしないものの何とか住居を手に入れることも可能となり、真面目に働くのが馬鹿らしいとの理由で彼はギャンブルから抜け出せずにいた。


 そして、アタリは今日も例外なくルーティーンをこなすために外出していた。


 駅は混雑していた。その日は金曜日の早朝であり、通勤・通学中のサラリーマンや学生、その他大勢の人間がいた。ホームは人でごった返しており、駅員がしきりに電車との接触事故を防ぐためホームの端から離れるように喚起かんきしていた。都心部で見るようなありきたりな光景。そんな蒸し暑いような光景も、アタリの日常の一部であった。


 人々の話し声と駅員のやかましい声を聞かないようにと、アタリはイヤホンを取り出して両耳の穴を埋めた。イヤホンは雑音を防ぐ機能を備えており、周囲の喧騒けんそうは一瞬にしてかき消された。曲を聴くつもりは無かったが多少気分が落ち着くため、彼はイヤホンをしたままスマホをいじり始めた。一切の雑音が無い、自分だけの世界。彼はその静けさを心地よく感じていた。


 しかし、その平穏は突然破られることとなった。彼がスマホの画面を触っていたその時、隣に立っていた中年の男性が、何の前触れも無く宙に浮いた。正確に言えば──後ろから線路に押し出されたのである。


 男性は静かに線路上に落下し、近づいてくる電車に向かって口を開いた。叫び声を上げていたようだったが、それはアタリの耳に入ってこなかった。アタリはその一部始終を呆然として眺め、男性が電車の下に消えていったと同時に思わず声を上げた。


 駅のホームは騒然となった。電車が急ブレーキする音、車輪の間に挟まった何かが線路の上を滑る音、そしてその一部始終を目撃した人々の悲鳴。周りが阿鼻叫喚となる中、アタリは一人考えていた。


 あのオッサンが転落してから、いったい何秒が経過した? 俺が時をさかのぼることができるのは五秒間だけだ。一瞬の出来事のように思えたが、もしも五秒以上が経過したなら、あのオッサンは死ぬことになる。


 アタリは能力を発動させ、それに応じて時が止まり、世界は刻一刻と五秒前に戻っていった。時を戻していく中で、アタリは不思議な感覚にとらわれていた。ていうか、何で俺がこんなことをしてるんだ? このオッサンは赤の他人で、こいつが死のうが俺の知ったことじゃない。じゃあ何で、俺は能力を使っている?


 アタリは五秒前の世界に戻ると、自分を納得させるように心の中で言った。いや、俺はこのオッサンを助けたいわけじゃない。俺はただ人身事故が発生して電車が遅延するのを防ぎたいだけだ。──きっと、そうに決まってる。


 能力を解除するなり、アタリはすぐさま隣にいた中年の男性を見て、そして眉間みけんにしわを寄せた。彼は目の当たりにした──男性の後ろに、今にも男の背中を押そうとする手が、人混みの中から伸びていたのである。指紋が付くことを防ぐために黒い手袋を装着しており、どう見ても意図的な犯行だった。


「てめぇ!」アタリはその手を掴むと怒鳴った。「何しようとしてんだよ!」


 やっぱり事故なんかじゃねぇ、彼は思った。こいつは立派な犯罪だ。こいつはあのオッサンを殺すために後ろから突き飛ばしやがったんだ。


 捕まえた男性をどうしてやろうかと考えながら、アタリはその手を引っ張った。いったいどんな人間がこんなことをしでかすのかと、彼は顔を拝むつもりでいた。


 だが、そこにあったのは無であった。文字通り、無だったのである。アタリが引っ張ったものはただの手に他ならず、それ以外の部位が存在していなかった。その手の持ち主だと思われる人物の顔や肉体、ましてや腕はなく、ただ一つの手のみがその場に漂っていたのである。


 そんな異様な光景を目にして、アタリは思わず固まってしまった。生涯の中で人体の部位のみが独り歩きしている場面など当然ながら遭遇そうぐうしたことがなく、だからこそアタリの脳は理解することを拒んでしまっていた。しかし、突然自身の手の中にあったはずの感覚が消え失せると、アタリは我に返って自身の手元を見た。掴んでいたはずの物体はもはやそこに存在しておらず、彼の手には無が残った。


 アタリはしばらくその場に立ち尽くしていた。周囲の人間は彼を変人かのようにはやし立てていたが、彼はそれに構わず自分がたった今体験した不可解な出来事について考えを巡らせていた。


 どうなってやがる、アタリは当惑しながら呟いた。

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