貪読の娘の来訪(1話完結)
藍玉カトルセ
1話完結
薪にくべた火から焦げ臭い匂いが立ち込める。
見上げると極小の真珠をうっかり落としてしまったような星空が視界に広がっている。土砂降りの雨のように頭上に降ってくればいいのに、と願いながら一瞬だけ見上げた。
手元には灰色の文字で埋め尽くされた羊皮紙の束。紙束を括っている麻紐を震える手で解いた後、一枚ずつ炎の中へと送り出…。いや、やっぱりできなかった。パチパチと散っていく黄金色の火の粉をぼんやりとした瞳で見つめながら、クシャリと用紙の角を握り潰した。
「また、今日もダメだったか」
ずっと持ち続けていた羽ペンが隣の切り株にちょこんと置かれている。ひたすらに文字を綴り続けた右手は、感覚がずっと麻痺している。痛いのか、痺れるのか、はたまた平常なのかも分からない。
僕は小説を書き続けている。それも、永遠と見紛うほどの長い年月をかけながら。何度、砂時計を逆さにしただろう。回数なんてもはや忘れた。
無から有を生み出す行為は、魂を彫刻刀で削ることと同義だと自信をもって断言できる。そんな生易しいもんじゃない。一文字一文字を格子鉄線という名の原稿用紙に置き連ねていくときに胸の中に浮かぶのは、いつも焦燥と不確かさだった。この言葉選びで良いのか。この展開は本当に「受け入れて」もらえるのか。この主人公にちゃんと向き合えているのだろうか。この物語に情熱と冷静さの半分ずつの塊を投影できているか。そんな考えが立ち込める霧のように浮かんでは脳内をぼやかしてくる。
だが、これらの苦悩はまだ序の口だ。更に恐ろしく耐えがたい程の苦痛を伴う思考がじっとり、ねっとりゼリーのような粘着性を携えて胸の中に侵食する。
今度こそ、「本物」のフィナーレを迎えられるのだろうか。
僕は「ある出来事」が起こるまで一度も物語を帰結点まで導けたためしがなかった。
だが、あの日を境に僕の運命は劇的に変わってしまった。
投げられた賽の目は、確実に180度「平凡」をひっくり返してしまった。
◆ ◆ ◆ ◆
僕は、V国の生まれで、国で唯一の作家としてある任命を受けた。その理由は何とも馬鹿げている。先祖代々、作家を生業としているからだ。そして奇妙なことに、各家庭の人々は、皆それぞれ異なる職業に就いている。言い方を変えると、誰一人として重複して同じ職に就いている者はいない、ということだ。αさんの家系は絹織物商人、βさんの家系はワインソムリエ、Θさんの家系は建築家という具合に。一家族毎に、定められた職務が国から与えられている。もちろん、職業転換は不可能。職業決定はランダムに引いたタロットカードの結果で決まる。我が家系の場合は、「たまたま」作家というだけだった。なんという残酷な宿命だろう。
しかし、やはり人には向き・不向きというのが少なからずあるようだ。どれだけ筆を走らせようが、参考図書を血眼になって読み漁ろうが、一度もthe・ENDまで物語を導けたためしなんてない。僕には才能もセンスの欠片もないのではないか。そう唸りながら原稿用紙に向かう日々は苦痛そのものでしかなかった。
そうやって悲痛な声を上げながらもなんとか一文字一文字を書き綴る物語は、すぐに焚火の肥やしへと様変わり。そんな中、少し奇妙なプロジェクトに強制参加させられることになったんだ。
国の王は何カ月、いや何年も新作を発売することのできない僕の苦悩を見かねて、ある代物を贈ってきた。そして、王の口から放たれた言葉に、僕は震えおののきつつ、己の宿命を心底恨むことになる。
書簡が届いたとき、僕は現在のログハウスに逃げ込む前の住処、花屋の隣にある小さな掘っ立て小屋に住んでいた。狭い書斎で寒さでかじかむ身体に毛布を何枚も引っ掛けながら、蝋燭数本の明かりで内容を読んだ。
『オースティン、風の噂を聞いたよ。全然物語を書けていなんだとな。かれこれ、20年は経過しているんじゃないか。…まぁそんな愚痴を書いたところでどうにかなる訳でもないから、小言はここまでにしておく。悩める君にこの羽ペンをやろう。これは「言霊紡ぎの羽ペン」だ。先月「崩壊の孤島」に旅行した時に謎の商売人から譲り受けた。この羽ペンは、少し変わった代物でね。普段原稿用紙に綴る文字は灰色なんだが、物語を書き終え、かつこれまでにない傑作が生まれた場合のみ、文字が金に変色する。
そして、このペンで君にはある役目を請け負ってもらう。1ヶ月後、「貪読の娘」がこの国を訪れることが決まった。貪読の娘の噂なんて、作り話に過ぎないと端から疑っていたのだが、どうやら真実らしい。…もう書簡を綴る手が疲れたから、ここまでで締めさせてもらう。詳細は、その本に書いてあるから熟読したまえ。健闘を祈る』
書簡の本文はそこで終わっていた。貪読の娘?言霊紡ぎの羽ペン??一体、王は何のことを言っているんだ。書簡をもつ手が震えている。そして目線は中編小説くらいの本に向かっている。
タイトルは、「貪読の娘」。文字の下には、美しい黒い宝石が描かれていた。黒曜石とは違う、神秘的な石だった。一気に情報の洪水が脳内に入り込んできたせいで、あまり上手く思考回路が繋がっていなかった。だが、本文の一文字目を捉えたと同時に、瞬く間に意識が覚醒していった。
■■■
ー貪読の娘は、魔術を使いこなせる若い女で異名の通り、日々書物を読み漁ることに時間を費やしていた。自国には物語を書く人はいなかった。以前からあった全ての書物を読破してしまうと、新たな物語を求めて世界中を旅する、ということを繰り返した。だが、どの国に訪れても作家が生み出した物語に満足することはなかった。そこで、長年旅をしていた南半球の最後の一国を後にしてから、こんな布告を北半球の各国に広めた。
『今までで一度も読んだことのないような物語を完成させることのできる作家に出会えた暁には、不死鳥の涙を王に献上する』
不死鳥の涙は、数多いる冒険家、資産家、貴族、国王が喉から手が出る程欲する伝説の涙だ。枯れた井戸にほんの数滴、滴らせるとたちまち井戸は大水で溢れかえる。そしていくら飲もうが、畑仕事に使おうが、禊に用いようが枯渇することはないー
■■■
より国の豊穣に尽くそうと様々な策を練っていた王は、即座にこの夢のような話に飛び付いた。だが、貪読の娘がいつV国を訪れるのかは誰にも分からなかった。心の中でV国以外で極上の物語を完成させる作家が現れないことを痛切に願う他、やれることはなかった。
王の願いが神に届いたか、はたまた奇跡の連なりか。ついに貪読の娘がV国を訪れる胸の一報がL国から届いた。貪読の娘が次の国に出立するとなった場合、その旨を到着の1カ月前に伝書鳩で知らせるのがしきたりと決まっていたからだ。
◆ ◆ ◆ ◆
そしてついに、貪読の娘がこの国に到着する前日が来てしまった。僕は焚火を前にして絶望感と寂寥感に打ちひしがれている。途方に暮れているんだ。貪読の娘に物語を献上する一日前だというのに、僕は未だ「本当の」物語にフィナーレを迎えさせられていないんだ。どうするんだ、このままじゃ恐ろしいことが起こる。国家の運命が懸かっているというのに。
国王からの書簡を受け取ってからというもの、僕は未完状態が長らく続いていたかの日々が嘘のように次々と物語を完成させていった。「この命(めい)を何としてでも全うせねばならない」という激情を包含した使命感が筆を持つ手をひたすらに動かす、原動力だった。
だが、問題が消えたわけじゃなかった。むしろ、もっと深刻な壁が眼前に立ちはだかっている。
未だに完成させた原稿の全文字は灰色のままだった。
時間だけが非情に過ぎていき、下唇をきつく噛み締めてやるせなさを鋭い痛みで薄めることしかできなかった。机にうず高く積まれた原稿用紙の山が視界に入るだけで、肩が縮こまる。膨大な時間と血の滲むような努力が生み出した結晶は、言霊紡ぎの羽ペンにそっぽを向かれたままだ。
◆ ◆ ◆ ◆
夜11時半。コン、コン、コン。ドアノッカーが木製扉を叩く音が3度聞こえる。
「はい、お待ちしておりました...」
消え入りそうな声を発したと同時にゆっくり扉を押し開けた。まず目を奪われたのは、何にも染まりたくないと主張しているのかと錯覚しそうな程の、純白なカールした、長い髪の毛。いつか見た、ダイアモンドダストを包む白い雪を彷彿とさせた。
「こんばんは。お初にお目にかかります。私のことは聞いているわね。早速、物語を読ませてくれるかしら」
貪読の娘は朗々とした声でそう言った後、ビーズのように透き通った緑の双眼を僅かに細めて微笑を湛えた。何か温かい飲み物を出してやりたかったが、娘の声には有無を言わせぬ強い意志が込められていた。
重たい足取りで、ログハウスの地下室兼書斎に彼女を案内した。前方を歩く貪読の娘を照らす小さな明かり。蝋燭をもつ手が不安でカタカタと震えている。嗚呼、いよいよ物語を献上する時間が近づいているのか。コツ、コツと革靴の足音だけが響くこの静寂を何とかして破りたくて、おもむろに口を開く。
「そういえば貪読の娘よ、君の名は何というんだ」
「名前?…生まれたときからこの方、名無しのままよ。親に捨てられて孤児院に入れられた私は、物心ついたときからずっと書物を読み漁っていた。そんな姿見た人々からは、『貪読の娘』と異名をつけられてしまった」
訥々と身の上話を吐き出した貪読の娘は地下書斎の扉に着いたとき、くるりとこちらに顔だけを向けて意味深なことを質問してきた。
「あなたは、誰にも言えない秘密をいつか明かさなければならなくなった場合、誰に打ち明ける?」
「え?秘密かぁ…。もし秘密を抱えていたとしたら、僕なら物語に書き留めておいて読者に読んでもらいたい。その読者は、別にたった一人だとしても構わないし、ちょっと気まずい関係にある人でも良い。なんなら失恋の相手とかね」
「あら、あなた失恋したの。ならこの質問は聞かなかったことにしてちょうだい」
「いや、これは譬えだよ。僕はずっと物語を書くのに暫く多忙を極めていたから、片想いをする余裕も、そんな相手もいないよ」
「じゃあ、現在は創作に恋慕を抱いているという訳ね。さぞ、情熱的な物語がこの先に眠っていることでしょう。期待が高まるわ」
声を弾ませた彼女の顔にはいたずらっぽい笑みが浮かぶ。しまった、自分で自分の首を絞めるようなことを言ってしまった。もう、後戻りできない。
◆ ◆ ◆ ◆
「わぁ…!!!」
軋む重厚な扉を押し開けたと同時に視界に飛び込む数多の書物に貪読の娘は歓声を上げた。だが、それら古びた書籍は先代が代々に渡り紡ぎ続けてきた小さくて儚い結晶だ。その結晶をあらゆる角度から楽しんだ読み手は方々にいる。
「この本、全部あなたが書いたの?」
「いや…これは先代の家族が残してくれた物語たちだよ。僕にとっての遺産だ」
「じゃあ、あなたの生み出した物語はどこにあるのかしら」
首をかしげて真っ直ぐ僕を見つめる瞳が凛としすぎていて、口ごもってしまう。
「そ、その書斎机の…」
恥ずかしさに俯きながら机の方向を指さした。人差し指が向く方に彼女の視線もおのずと移された。卓上には、うず高く積まれ過ぎてバランスを崩し、今にも倒れてきそうな原稿用紙の束。製本する金も技術も皆無。だから、麻紐で簡易的に括って辛うじて散乱しないようにしているだけ。絵師による美麗な装飾も、ページ数も記載されることのなかった紙束にひたすらに綴ってきた。その事実を直視するだけで、卒倒しそうな程、脳内はパニック状態だ。
貪読の娘は書斎机に駆け寄り、どかっとログチェアに腰掛けるや否や一番上に積まれた束を手に取った。そして、凄まじい勢いで用紙を捲り続け読み耽り始めた。文字に指を当ててなぞりながら、慈しむように、愛おしむように。少しだけ開いた口から漏れる言葉は聞き取れなかった。だけどその声のトーンは、耳に心地よい程弾んでいたように感じた。
「面白い!!」
顔を勢いよく僕の方に向けて一言言い放った後、即座に再び紙面に視線を落として物語の世界へとのめり込んでしまった。
その後も、何分も何時間も、何日間も貪読の娘は食事も拒みながら僕の完成させた創作小説を読み漁っていった。彼女が頬をバラ色に染めながら読書に耽る姿を見守るとき、決まって僕はアーモンドミルクティーを彼女に淹れてあげることにしている。専用のミルでアーモンドを砕いて半分をミルクティーと混ぜ、残りの粉を上から降りかけたら、極上のアーモンドミルクティーの完成。おいしそうにカップの淵に口を付けてチビチビと飲む彼女の仕草を見ると、こちらも癒される。貪読の娘にとっても、「今日はいつもよりアーモンドの量を1.5倍増しでお願いね」とウインクしながらお願いしてくるほど、お気に入りのドリンクとなっている。
◆ ◆ ◆ ◆
貪読の娘がこのログハウスに滞在して数週間が経とうとしたとき、ある2つの事件が起きた。
1つは言霊紡ぎの羽ペンに関することだ。僕は、国王から譲り受けた例の羽ペンを不自然に思われない場所に、こっそりと置いていた。ブックシェルフの中の書籍の隣に、インク容器に複数の羽ペンと共に中に立てかけてあった。しかし、貪読の娘がおもむろに目線をよこさぬまま背表紙を引っ張った瞬間、バランスを崩した本の表紙の角が当たってしまい、音を立ててインク容器が倒れてしまった。
カシャーン。不快な金属音と共に散乱した普通の羽ペンと言霊紡ぎの羽ペン。だが、一目で後者のペンは普通の代物と異なると気づける仕組みになっている。ペン先が僅かに金色になっているからだ。彼女は、注意深く言霊紡ぎの羽ペンを指で摘まむと苛立ちを含ませた声で、こう吐き捨てた。
「嗚呼、まただわ。言霊紡ぎのガセペン。あれ程、崩壊の孤島の来訪者には言って聞かせたのに。シルクハットを被った謎の商売人には用心しろ、って。あいつはいつも口車に乗せて偽品を高額で観光客やら来訪者に売りつけるしか能がないんだから。これで何回目かしら。今まで訪れた作家の家にいっつもこのペンがあったものだわ。ああやって、作家の心を弄んで、血の滲むような努力を無下にして、何がしたいのかしら。さっぱり理解ができない」
ボキッと不気味な音を立てて貪読の娘はガセの羽ペンをへし折った。瞬間、今まで縋ろうとしていた希望の綱がブチッと切れてしまった。
「なんだって?!じゃ、じゃあ、完結した物語が傑作だった場合に、文字が灰色から金色に様変わりするのは、ウソだってことなのか?!」
洗い物をしていたティーカップをシンクの中に落としてしまい、鈍い金属音が部屋内に響いた。
まんまとその商売人とやらに丸め込まれた僕は、思い切り取り乱してしまった。「いつか、文字が金色に変わるのかもしれない」と消え入りそうな心を鼓舞したあの膨大な年月と期待は全部無駄だったなんて…。
「そ、そういえば、君が読んできた物語の中で、気に入ったものとか好みに合うものはあったかい?!『面白かった』って呟く声が何度も聞こえたけど。君は、僕の書いた話についてどんな感想を抱いたんだい?」
「背中に羽が生えたような心地を味わわせてくれた、としか表現できないわ。どの物語も極上のものばかり。…でも、私が求めている話はどの原稿用紙にも認められていなかったわ」
え…。そんな!どの話も、心血注いで紡いできたものなんだ!!ずっとスランプが続いていた。どれだけ書けども書けどもフィナーレまで漕ぎつけることはできなかった。だけど、書かなくちゃいけなかった。完成させなきゃいけなかった!!君が…貪読の娘がここに現れると決まったその日から、がむしゃらに、手が真っ黒になるまで、痺れて感覚がなくなるまで…僕は物語を紡ぎ続けてきた!!それなのに…その労力と必死さを無為にするというのか!!ひどすぎるよ…。
血液が逆流し、沸騰しそうな程の怒りと悔しさを滲ませた瞳で彼女を睨みつけてやりたかった。だけど、彼女の清らかな微笑が脳裏によぎって、そうはできなかった。その代わり、俯いて拳を作り、爪を思い切り掌に食い込ませた。じんわりと血が滲むのが分かった。
「オースティン、あなた、本当は私に隠し事していない?一個だけ。あなたがあなた自身についている嘘でもあるんだから、それは、対峙し難いわよね。でもね、私は何でもお見通しなの。流石に物語の中身までは一言一句ピタリと当てることはできないけれどね」
「…何が言いたいんだ?」
「ここにある原稿用の束が全てではないのでしょう?本当は、私に見せたくない、物語をどこかに隠している」
「え…」
「私はね、秘密と隠し事の匂いは分かるのよ。飢えた獅子が怪我を負ったターゲットの血痕に敏感で、逃げ場所をいとも簡単に暴いてしまう程にね」
微笑みながら貪読の娘は目の奥の光をギラつかせた。そして、勝ち誇ったように言い捨てた。
「地下書斎に案内してくれるかしら?綺麗事ばかり並びたてられた物語には、ほとほとうんざりだわ」
◆ ◆ ◆ ◆
ちょうど、彼女が立っている場所には、ラグ絨毯が敷かれている。その絨毯をペラリと剥がすと、鍵穴が顔を出す。震えでかじかむ右手が恨めしい。なかなか鍵が差し込まず、時間がかかる。この瞬間が氷と化して、永遠に動き出さなければよいのに。だが、無念にもしっかりと鍵と穴とが合致した音が鼓膜を貫いた。
地下書斎へと続く梯子を下る。そんなに高さはないから、あっという間に、フロアに足がついてしまう。先に下り切った貪読の娘は、狭い書架に歩を進め、詰め込まれた未完の小説原稿の束を「全て」取り出した。その作品数は数百、いや、幾千はくだらないだろう。
最初に読み始めた物語は、「王と宴会」。その次は、「薔薇の棘が抜け落ちる白日に」、次に「コーネリアの夕餉の味」、「期限切れのパスポートが導く先に」、「くちなしの花が枯れた季節」、「ハンプティ・ダンプティが逃げた訳」、「朝焼けが飲み込む大海」…もう既に何作品目を読んだのかも追いつけない程に、彼女は未完の物語を次々と読み終えていった。
とっぷりと日も暮れたころ、壁に身体を預けて横たわっていた僕は貪読の娘の白い両手に揺さぶられ、突然に起こされた。長いこと眠っていたらしい。
「あなたの未完の物語、全作読ませてもらったわ。てんで辻褄も合っていないし、誤字脱字のオンパレード。おまけに主人公の名前だって途中から何度も変更されて一貫性の欠片もないんだもの。今までにこんなお話、読んだことないわ。何もかもがへんてこだったわ。…でも、良かったわ」
?? 完結すらしていない物語のどこが「良かった」んだ?大抵の場合、完結済みの小説を誰だって好んで手に取るはずだろ。僕の未完小説は駄作以下だ。なんせ、織りなされる次の展開を知りたくって読者はそれが叶わないのだから。
「あなたはには、褒美を授けることにする。でも、その褒美はまだ見せられない。私がこのログハウスを去って一晩経ってから、このドアを開けてね。翌朝になるまでは絶対に開けてはだめ。素晴らしい物語の中へと旅をさせてくれて、本当にありがとう」
そういって、彼女は黄金色の真珠で出来た涙を頬に伝わらせた。そっと、拭いかった。頼りない両手で受けとめて、首飾りを作って彼女の首筋に巻き付けたい衝動に駆られた。だけど、それらは全て、僕の夢想に過ぎなかったのかもしれない。落ちた金の真珠は音もたてず空気に溶けるように消えてしまったから。
貪読の少女は、靴に付いた塵をそっと払って旅立っていった。僕は、閉ざされる扉が僕と彼女との間に完全な隔たりを作ってしまう瞬間まで、白い髪と後ろ姿を見つめていた。
◆ ◆ ◆ ◆
翌朝、恐る恐る扉を開けると、輝きを纏った、黒く涙の形をした宝石が1つの水差しに入っていた。声にならぬ叫びが喉からほとばしるようだった。この宝石、見覚えがある。「貪読の娘」の本の装丁にあしらわれていたあの黒い石に見目形がそっくりではないか。そんな…。まさかとは思うが…。
黒涙の宝石を取り出し、水差しをもって上下左右をゆっくり観察したところ、水差しの底に「私を割って」と書かれていた。
胸騒ぎがする。勢いよく地面に叩きつけて黒涙の宝石を割ると、小さな巻物状の書簡が入っていた。内容を小さな声で読み上げた。
オースティン
全て読ませてもらった物語は、本当に白昼夢を見ているかのようでした。
どのお話もとても、とても素晴らしかった。
…たった1つ、私はあなたに許されぬ嘘をつきました。
それをこの書簡を通じて明かさねばなりません。
訪ねる国や地域に『今までで一度も読んだことのないような物語を完成させることのできる作家に出会えた暁には、不死鳥の涙をその国の王に献上する』と伝えてきました。けれど、それは真っ赤なウソです。
本当は、「未完の物語」を探し求めて各国を練り歩いていたのです。
私は、この惑星とは全く違う次元の全く異なる世界で不死鳥として生まれた身でした。あるうららかな春の日、悪い魔術使いに呪いをかけられ、人間の姿へと変えられました。
不死鳥の分際で日々人間の世界へと降り立ち、失われた物語を住処に持ち帰るという素行の悪さを積み重ねてきたことへの罰が与えられたのでしょう。
その呪いとは、『未完の物語』を読むことがなければ、二度と不死鳥に戻ることができない というものでした。
私はその呪いがかけられたことを明かされたとき、絶望しました。人間は正しく、上っ面が整ったものが大好きです。精錬されたThe・Endを飾った物語のみを愛する読書家たち。その熱望に応えるかのように、店頭に並ぶ書物は全て完結済みばかり。
だから、諦めていました。どの作家の家を訪ねても、綺麗にフィナーレが締めくくられた本ばかりが書棚に並ぶ。
「今までで一度も読んだことのないような物語」という文言を布告に織り交ぜたのはある種、賭けでした。もしかしたら、あまりの難度の高さに、ほとんどの作家が途中で執筆を投げ出すという事態が起こるだろう、と予測を立てていました。そして、家には未完の小説で溢れ返っている…しかし、蓋を開けると、全ての作家は「未完の作品はとっくに土の肥やしと化した」と言うのです。未完の作品には読み手を引き付ける価値も存在意義もない。彼らは口々にそう私に告げました。
だけど、オースティン、あなただけは違った。
未完の物語も全て保管されていた。恐らく、こう考えたのでは?「もしかしたら、未完になってしまった物語にだって誰かに読んでもらうことがあるのかもしれない」と。
ほぼ全ての未完の小説原稿は用紙の角の部分が煤で汚れていたり、焼けちぢれていた。
初めて会った時のあなたの絶望的な顔を見て、私の心には一筋の希望の光が差し込んだ。この人は、未完の物語をもっているかもしれない と。
今頃、私は久しぶりの飛翔の快感を思い切り抱きしめていることでしょう。ようやく、あの翼で、空を駆けることができます。本当にありがとう。
どうか、未完の小説が誰かに希望を与える種になるかもしれないことを忘れないで。
貪読の娘より
書簡を読み終えた僕は貪読の娘の流した涙を持ち、陽光に翳した。怪しげに光っているそれは、ひどく甘美で静謐な空気を醸し出していた。
ログハウスに戻ると、何枚かの原稿用紙が床に散乱していた。貪読の少女が読んでくれた、僕が創った物語だ。窓のカーテンが揺れている。うっかり開け放して、風が吹き込んだのだろう。落ちている一枚をかがんで手にした僕は、自分の瞳が何を映しているのか信じられなかった。それは、紛れもない僕の自筆の字。けれど、その全てが眩い黄金色に輝いていた。
ー9655字ー
ー終ー
貪読の娘の来訪(1話完結) 藍玉カトルセ @chestnut-24-castana
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