八、

 ぼくが寝室から廊下に出ると、なにやら話し合っていた救急隊の面々が、待ちかねていたようにぼくを囲んだ。

「怪我はないですか?」眼鏡をかけた隊員が聞いてくる。「お姉さんに、蹴られてましたが」

「怪我はない、と、思います」と言ってから、「え、ぼく、蹴られてました?」

「ええ。あのが襲ってきたときに、脇に蹴り倒されてましたよ。たぶん、あなたに危害が及ばないように、遠ざけようとしたんでしょう」

「そう言われれば、確かに……」

 動けなくなっていたぼくがキメラ? キマイラ? を避けられたのは、それのおかげだったようだ。ということは、鎧のひとはあのとき、ぼくを蹴ってから体勢を整えて、キマイラ(これからはそう呼ぼう)の前脚に一閃いっせんつるぎを叩き込むまでを、瞬時にやってのけたことになる。やっぱり、なんだと、しみじみ実感した。

「お姉さんの方は、どうですか?」

「怪我してるかは分かんないですけど、からだに力が入らなくて、立てないって言ってます。ああ、あと、みなさんに謝りたい、って」

「謝ることないのに」

 ゴーグルとマスクの向こうで、隊員が笑った。

「こちらも、は分かってますから。――しかし、ここからが問題なんですよね。実は、あのが出てきた時点で、本部を通じて、非常事態だ、ってことで警察を呼んでるんです。もうすぐ着くと思うんですが、お姉さんが仕留めたあと、肝心のが、消えちゃったじゃないですか。それで、本部に報告したら、『なに言ってるんだ』ってなっちゃって。まあ、当然ですけどね。『逃げただけじゃないか』っていう反応なんです。だけど、警察に『逃げました』って説明したら、きっと、捜索するって言い出して、一大事になっちゃう。じゃあどうしたら良いか、って、さっきから我々困ってたんですよ」

「はあ」

 緊急現場のプロが困っているものを、ぼくにどうこうできるわけがないのだけれど、なにか発言して欲しそうな感じだったので、ぼくは小首を傾げて、さも考えているかのような雰囲気を出しながら、全然考えないでだらだら喋った。

「……ありのまま、話すしかないんじゃないですかねえ……。こっちは、五人も同じものを見てるわけですから、少なくとも、冷やかしじゃないってことは、分かってもらえるんじゃないかなあ、って思うんですけどねえ……。嘘をつくよりは、うーん、みんなで頑なに『消えました』って言い張った方が、まだ良いんじゃないかなあ……」

「――いや、そうですよね。分かりました。そうします」

 踏ん切りがついた様子で、隊員が頷いた。本当にそれで良いのか。

「警察には、もちろん自分が話しますんで、あなたはほかの隊員と一緒に、お姉さんについていてもらって良いですか? あんなに動いてましたけど、立てないくらい衰弱してるということなので、病院へ運ぶ準備は進めますから」

「分かりました」

 ぼくは素直に了解しつつ、「あの、なんか、水が飲みたいらしいんで、ちょっと取ってきます」と断りを入れ、居間の方に通してもらった。そして、カウンターキッチンから京極の名水のペットボトル、残り三本を全部引っ張り出して、両手で抱えながら寝室へ戻ってきた。

 だれかが灯りのスイッチを入れてくれていて、まぶしいくらい明るくなった部屋の隅っこで、跪いたままの鎧のひとに、大柄な隊員ともうひとりの隊員が、しゃがみ込んで話しかけていた。

「あの、お待たせしました」

 ぼくはその後ろからのぞき込むように声をかけて、見上げてきた彼女に、持ってきたペットボトルを一本、また掲げてみせた。「京極の名水、です」

「おお、水来たよ、水」言うと、大柄な隊員は手振りで、ぼくに彼女の真ん前、つるぎの真横へしゃがむよう促した。「お姉さん、待ってたでしょ。先に飲んでください」

「ありがとう」目を細める鎧のひと。

「今度は、自分で飲めますか?」

 ぼくが聞くと、彼女はまた小さく首を振った。

「いいや。いま、このつるぎから手を離したら、倒れて、起き上がれなくなりそうだ」

「僕たちが支えますよ」と大柄な隊員が言ってくれた。「二人でお姉さんの両肩を支えてるから、からだを預けて」

「ありがとう。そのことばに、甘えよう」

 鎧のひとは、長い吐息のあとで、つるぎの柄から、滑らせるように力なく手を離した。ふらり、前のめりになりかけた彼女のからだを、両脇から隊員たちが、後ろへ押し戻すように食い止めた。二人とも「重っ!」と漏らす。

 なんとか彼女が正座のていに収まったところへ、ぼくはすぐさま、キャップを外したペットボトルを差し出した。震える両手でそれを受け取った彼女は、数回呼吸を整えたあと、意を決したように飲み口をくわえ、からだごとボトルを傾けて、がぶ、がぶと中の水を飲みはじめた。

「お姉さん、ゆっくり飲んで。ゆっくり」

 大柄な隊員の言うことには耳を貸さずに、彼女は結局、先ほどとは比べものにならない速さで五百ミリリットルを飲み干してしまった。ぷはあっ、と思いきり息を吐き出すと、再び満足げにふう、ふう呼吸をして、こころからの感激に浸るように、目を閉じながら言った。

「最高だ……。この水を飲ませてくれて、本当にありがとう」

 なんとなく、一連の彼女の様子が、CMになってテレビから流れてくるのを想像した。それはそれとして、ぼくはたずねる。

「一本で良いんですか?」

「充分だ。これで、戦った分は……」

 鎧のひとは、ペットボトルをそっと脇に置くと、顔を上げ、片膝を立て、それを支えにして、あっけないほど普通に立ち上がった。

「取り戻して、あまりある」

 先ほどまでの、明らかに危なげな感じは一切なくなり、呼吸の乱れも落ち着いて、つま先から頭に至るまで、からだじゅうに力が行き渡っているように見えた。

「ああすごい、良かった良かった」

 ぼくはそれを、単純に歓迎した。けれどそのあとで、隊員たちが、きつねにつままれたような空気で彼女を見上げているのに気づいた。

「お姉さん……、いまさっきまで、立てなかったよね?」と、大柄な隊員が聞く。

「ああ。立てなかった」

「いまは、大丈夫なの?」

「ああ。立てるようになった」

「それは、まあ、見りゃ分かるけど、なんで?」

「ん?」

 鎧のひとは、自信に満ちた表情で、こう答えた。「良い水を飲んだからだ」

「お姉さん、あのね、」

 大柄な隊員が失笑しながら腰を上げて、彼女へ諭すように説明した。「普通、人間は、良い水を飲んだからって、こんなにすぐに、からだの調子が良くなることは、絶対ないんです」

「なるほど」しっかり頷いてから、彼女が言う。「では、そうなのか」

「そうなの」

 言い返してから、大柄な隊員は腕を組んでうな垂れた。「あのといい、どこから来たんだよ……」

 そこへ、

「失礼しまーす」

 との野太い声を伴って、金のエンブレムがついた紺の帽子をかぶり、やたらポケットの多い同色のチョッキを着たごつい男性が、同じような服装の小柄な若い女性と、眼鏡をかけた隊員を引き連れて寝室に入ってきた。どう見てもお巡りさんで、チョッキの胸元にも、ちゃんと「北海道警察」と書いてある。ここまで、パトカーのサイレンの音なんか外から全然聞こえてこなかったので、いきなりの登場に、ぼくはちょっと驚いた。

「部屋の借り主は?」ごつい方のお巡りさんが、隣に立った隊員に聞く。

「あちらの男性です」隊員が手で示してくれた。「野々さんといいます」

「野々さん、」

「あっ、はい」

「ちょっと良いですか?」

「あっ、はいっ」

 大声で呼ばれたので、ぼくはすぐに立ち上がり、なにもやましいことはないのになぜか緊張して、残りのペットボトルを抱えたまま、速やかにごついお巡りさんのもとへ駆けつけた。お巡りさんは、「警察ですけど、」とあまり意味のない自己紹介をしてから、こう言った。

「――申し訳ないんですが、なにがあったのか、もう一度聞かせてもらえますか?」

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