七、

 化けもの。

 一目見てそう思った。

 なぜなら、その生きものは、たてがみを生やした大きなライオンに、角を生やした山羊の首、それに、ゲームでしか見たことのないドラゴンの首がついた、正真正銘の合成獣キメラだったからだ。

 キメラは、体長が寝室の端から端まで達するほどもあって、ドアのあたりを三つの頭とライオンぽい爪のある前脚で塞ぎ、山羊っぽいひづめつきの後脚でぼくの脚つきマットレスを布団ごと踏んづけ、ドラゴンぽい皮の翼を半端に広げ、あげく、太くて長い蛇を尻尾代わりにうねり動かしていた。つまり、頭は全部で四つあって、山羊以外、どれもこれもこちらに対し、威嚇なのか怒りなのか、牙をむき出しにして、激しく唸るか啼くかしていた。

 それを目の当たりにしたぼくは、自分から意識が逃げ出したような、不思議な感覚におちいった。からだも、こころも、ぴくりとも動かないし、動かせないのを、外から他人事のようにただ観察しているような感じだった。

「わたしへの、のつもりか」

 キメラと対峙たいじしていた鎧のひとが、ぽつりと言って、天井を仰いだ。

「陛下」

 そして均衡は破られた。

 キメラが一瞬、その身を伏せたかと思うと、瞬く間にこちら目がけて飛びかかってきた。

 我先にらいつかんとするキメラの頭が、

 強引に捕らえんとする大きな前脚の爪が、

 ぼくの視界を埋め尽くす寸前に、

 からだの右側に受けた衝撃で、残像になった。

 真横になぎ倒されながら滑って、頭がなにかにぶつかる。

 脚つきマットレスの下の衣装ケースしか見えない。

 キメラのけたたましい咆吼ほうこう

 我に返って、からだを起こすと、

 血のついたつるぎを構えた鎧のひとが、さっとこちらに身を退くところだった。

 ついさっきまでぼくたちがいたところには、前脚を二つとも失くしたキメラが突っ込んでいて、床に血を塗りたくって、もがいていた。斬り落とされた脚が、湯気に包まれ、たちまち見えなくなる。

 鎧のひとが、相変わらず肩で息をしながらも、はっきりした声で言った。

「わたしは、死なない」

 キメラはそれに逆上するかのように、山羊以外、敵意むき出しの形相そのままに、狭い空間で無理矢理羽ばたいて、後脚で立ち上がった。

 ドラゴンが大きく口を開け、その喉奥で、火がゆらめくのが見えた。

 直後、

 鎧のひとはすかさず一歩踏み込み、低い姿勢から、目にも留まらぬ速さでつるぎを振り上げて、その刃を思いきりドラゴンの首元へ叩きつけた。

 長いドラゴンの首がねられ、宙で傾き、熱い炎を短く吐いて、ぼとりと落ちる。

 よろめいたキメラの断面から、血と火が噴き出して、あたりに飛び散る。

 鎧のひとは素早く後ずさると、間髪入れずにつるぎを繰り出し、キメラの腹へ突き刺した。そのまま前進し、キメラを後ろの壁へ押しやった彼女は、渾身の力をこめてえながら、キメラの胴体を、深く刺したつるぎで一気に真下へ斬り裂いた。

「おおおおおおお!」

 キメラからさらにほとばしる血。

 一身に浴びる鎧のひとの後ろ姿。

 ぼくにまで届いた生温かい飛沫しぶき

 壁にもたれたまま崩れるキメラ。

 そして山羊の絶叫。

 完全に一方的な戦いだった。けれど鎧のひとは止まらない。すぐさま体勢を立て直し、仰向けであがくライオンの喉をき斬り、足元に這い出して巻きついてきた蛇をキメラから断ち斬った。そのままつるぎを手放して、鎧の守りがない太ももの裏側へ迫った蛇の首を素手で鷲掴わしづかみすると、力尽くで蛇を足から引き剥がして高く掲げ、ぐねぐね身をよじらせて抵抗するその首を、両手だけで、荒々しく、引きちぎった。

 むき出しになった骨をへし折り、だらんと動かなくなった蛇をその辺に放って、代わりにつるぎを拾い上げながら、彼女はもう一度、だれにでもなく、言った。

「わたしは、死なない」

 その全身血まみれの姿や、横顔や、狂気じみた決心、みたいなものの宿る眼光を、部屋の端っこでへたり込んでただただ目に映していたぼくは、ここで、突如として、理解した。

 彼女はだ、と。

 後脚をぴく、ぴく、と不規則に痙攣けいれんさせるキメラのからだから、もくもく湯気が立ちのぼりはじめた。カーテンや床のあちこちを焦がしていた小さな炎や、大量の血痕からも、どういうわけか湯気がゆらめき、寝室じゅうが一時いっとき、ぼんやりと白く曇った。

 そして、炎が、血だまりが、キメラが、まるで蒸発するように湯気の中へ、見る見るうちにいった。こちらへ振り返った鎧のひとやつるぎにべっとりとついた血も、湯気になって、いつの間にか消えてしまった。

 彼女は、真顔のままだったけれど、ぼくのことを見て、ふっ、とまなざしを和らげたのが分かった。

「怪我はないか?」

「あ、え、……」

 怒濤どとうのごとく尋常じゃない出来事に巻き込まれた余韻で、喋り方を思い出せなかった。ちょっと口をぱくぱくさせて、ようやく、

「っけ、怪我は、な――」

 と言いかけたところで、鎧のひとがいきなり、ぼくの股ぐらにつるぎを突き立てた。

 あまりにも突然だったので、なにをされたのかまったく分からず、呆然ぼうぜんとしたまま下を向くと、首から上だけになった蛇が、どうやってここまで来たのだろう、股先数センチのところで大きく口を開いたまま、彼女のつるぎに脳天をぐしゃりと貫かれていた。

「うぅうわぁっ」

 恐怖で、思わず背にした壁をずり上がったぼくとは反対に、鎧のひとがつるぎの柄を握りしめながら、がくんとその場に両膝をついた。

「すまない、仕留め損ねていた……」

 蛇はすぐに湯気にまぎれて、煙のように姿を消した。その湯気も、とどまることなくみんなどこかへ流れていって、ぼくの寝室には、あちこち焦げて焦げ臭い以外、キメラの痕跡がどこにもなくなった。

 静まりかえった室内に、鎧のひとの荒い呼吸だけが続いている。

「あの、」

 ぼくは、こういうシチュエーションにふさわしいことばが思いつかなかったので、とりあえず、確認をした。「……これ、もう、大丈夫、ですか?」

のことなら、もう大丈夫だ」うつむいたまま、彼女は答えた。「わたしが、倒した。安心して良い」

「ああ、それは、良かった……」

 ようやく頭の中に適切な台詞が浮かんだので、ぼくはそれを、そのまま述べた。

「助けてくれて、ありがとうございました」

「いいや、礼を言うのは、わたしの方だ」

 彼女は顔を上げて、力なく笑んだ。「あなたの飲ませてくれた、あの水がなかったら、わたしはまともに、つるぎも振るえなかっただろう。あなたは、まさしく、いのちの恩人だ」

「いやあ、それは……」いくらなんでも言い過ぎだけれど、むげに否定するのも気が引けたので、軽く流して、話題を変えた。「それで、その、からだは大丈夫ですか? 立てますか?」

「立てない」小さく首を振る鎧のひと。「もう、全身に、力が入らない」

「ああ、やっぱり」

 コップも持てないほど弱っていたのが、うそだと思うくらいの立ち回りだったから、本当に、最後の力を振り絞っていたんだなあ、とぼくは素直に感心した。

「じゃあ、救急隊を呼んできます」

「先ほどのひとたちか。……守るためとはいえ、ひどい態度を取ってしまった。謝りたい。それと――」

「それと?」

「前言を、撤回する」

 どことなく、吹っ切れたような目の色で、ぼくを見上げた彼女が言った。「あの水を、もう一本だけ、飲ませてくれないか」

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