なんでもないぼくと戦士のオルガ

小河彰護

プロローグ

プロローグ

 小学生のころのぼくは、なんとなく、全知全能の存在にあこがれていた。

 はじめて買ったゲームは、神の子になって、オリュンポスの神々に挑むゲームだったし、その次に買ったのは、いよいよ神になって、惑星を育てるゲームだった。ぼくは、いろいろな奇跡の力を思うがままに操って、テレビの向こうの小さな世界を思いどおりにしようと、夢中になって遊び続けた。

 頂点に立ちたい。

 喝采を浴びたい。

 伝説になりたい。

 なんの中身もない、ただそれだけの野望を、胸の中に秘めて生きていたあのころ。


 それから二十年が過ぎた。

 ぼくは中学生になり、高校生、大学生になり、つつがなく、社会人になった。

 神にはならなかったし、なれなかった。

 なんとなく年月としつきを重ねたぼくの身には、これといった栄光も、挫折もなかった。そうしているうちに、ぼくの空っぽな誇大妄想は、ゆっくり静かにからだの中から洗い流され、遠いどこかに行ってしまった。端から見れば、いちおうひとのかたちに収まったぼくが、ここにいる。

 大人になったんだね、と世間は言うのかもしれない。

 けれど、どうなんだろう。

 果たしていま、ここにいるぼくは、ちゃんとした大人なんだろうか。

 ちゃんとした、人間なんだろうか。


 スズメのまばらなさえずりと、ふくらんでいく夜明けの気配で目を覚ました。

 カーテンの隙間から白い光が漏れだして、物音ひとつしない居間にうっすらと広がっている。布団の中からなんとか重いからだを起こして立ち上がると、ぼくは、ねずみ色のカーテンの前に立って、ゆっくりそれを開けた。

 大きな窓の向こうには、白いプラスチックの板みたいに平坦へいたんな曇り空。そして、アスファルトの駐車場に置かれたいろいろな車たちや、見慣れた周りの家々からは、かすかな気だるさが漂っている。

 よくある冴えない朝のはじまり。

 口と喉が渇いていて、冷たい水を飲みたかった。カウンターキッチンの奥に足を運んで、冷蔵庫に手を伸ばしかけたとき、きっとも飲みたいだろうと思いついた。冷蔵庫の中に平積みしていた、五百ミリリットルのミネラルウォーターを二本抜き取る。

 居間を出て、短い廊下の先、玄関の手前のドアに向かう。

 軽くノックすると、向こうから、

「どうぞ」

 と、彼女が返事をした。

 そのりんとした声を聞くと、どういうわけか、少しの緊張と、気おくれと、期待みたいなものが入りまじった不思議なきもちが湧いてきて、未だに慣れない。それを振り払うようなイメージで、ぼくはドアを押し開けた。

 ぼくの寝室、空間に、一歩足を踏み入れる。

 明るいフローリング調の床に、真っ白な壁と天井。

 そのあちこちには、えぐるような、傷跡や焦げ跡。

 左手の開け放たれた窓から、そよ風が吹いてくる。

 正面壁際の脚つきマットレスに腰かけて、いつものように、彼女は目を閉じていた。

 鈍い銀色のよろいを全身にまとい、大きなつるぎを斜めに背負ったまま、暗赤色の短髪も、褐色の肌も、ももの上に置かれた手も、微動だにさせない。荒廃した部屋の中で、彼女だけが、揺らぎのない水面みたいな、清く正しい存在に見えた。

 ぼくはそこへ、いくばくか、敬意をこめて声をかける。

「――おはよう」

 すると、待ち構えていたように、彼女は即座に目を開き、わずかにうつむいていた顔を上げて、髪と同じ色の瞳でしっかりと、ぼくのことを見つめた。

 そして、笑む。

「おはよう!」

 そのはつらつとした挨拶が、物憂げな朝の空気も、この部屋の痛々しさも、すっかり吹き飛ばしてしまった。

「いつもより早いな。どうした?」

「なんとなく起きちゃって」

「そうか」

 ぐいと上半身で伸びをしてから立ち上がった彼女は、ぼくが小脇に抱えるペットボトルに、早速目を留めてくれる。「ん、『キョウゴクの水』か?」

「そう。起きたら、喉、乾いてて。――飲む?」

「もちろん。ちょうど、水が欲しいと思っていたんだ」

 鎧をがしゃんがしゃん言わせながら歩み寄ってきた彼女へ、ぼくはミネラルウォーターを一本手渡した。

「ありがとう。じゃあ、一緒に飲もう」

「ああ、うん……」

 脚つきマットレスに二人、並んで座り、各々、ペットボトルのキャップを開けた。ちびちび中身を口に含むぼくとは正反対に、彼女は、ん、ん、と喉を鳴らして一気に飲み干すと、これ以上ないくらい満足そうな様子で、ため息をついた。

「やっぱり、キョウゴクの水はうまいな! 生き返るようだ」

「そうだね」

 ぼくはうなずきつつ、「でも、冷たい水なら、大体なんでもおいしいんじゃないかな」

「確かに」

 彼女はぼくと顔を見合わせて、さわやかに笑った。「冷たければなんでも良いな!」

 ぼくもつられて、ふふ、と含み笑いをした。

 こんなたわいもないやりとりだけで、深く沈んでいたからだとこころが、少しずつ舞いあがっていくのが分かる。

 冴えない朝はもう終わり、少しだけ良い一日がはじまる。そういうささやかな予感がする。

 そして、いつもどおり、彼女は声を弾ませ聞いてくるのだ。

「――さあて、今日の朝飯はなんだ?」


 とはいったいなんなのかを、分からせてくれたひと。

 強く明るく、すがすがしい、太陽のような彼女。

 彼女の名前は、オルガという。

 そして、

 彼女はこの六畳間だけの、英雄。

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