龍虎

@kinchanmaru

龍虎

 甲斐国 武田氏の居城である躑躅ヶ崎館には六畳ほどの部屋がある。


悩みごとがあるとここで香をたいて一人踏んばるのが、甲斐の龍と呼ばれる男の習慣である。



「御館様、領民の多くが吐気や頭痛を訴えております」


側近の声に信玄はゆっくりと目を開けた。

香の煙を胸いっぱいに吸い込むと、それは大きなため息に変わった。



「ふう、それも塩のせいか」



1567年 武田信玄の治める甲斐国が塩不足の危機に陥っていた。


山々に囲まれて海のないこの国では海産物を輸入に頼っていたが、信玄は東海地方を手に入れるためその地を治める今川氏と十余年に及ぶ同盟を破棄した。


当然の事ながら今川は武田領内への海産物の輸出を禁止した。


するとあっという間に塩が不足し、甲斐国では健康被害が出はじめていた。



「策を考えておるところだ、下がってよい」



関東の北条や越後の上杉から塩を輸入するという手もあったが、北条は共に三国で同盟を結んでいたにも関わらず今川を裏切った武田に憤り塩の輸出を禁じた。


越後を治める上杉謙信とは信濃の領地を巡って十年にも及ぶ戦いを繰り返していた。


中でも四度目の合戦は激しく、死者数は両軍合わせて八千名近くにもなった。


信玄は川中島で散った兵たちを想い、再び目を閉じた。


こうしていると、まぶたの裏に当時の光景が鮮明に蘇る。


「もしあの戦いがなければ、越後に塩の輸出を願うことも出来たかもしれぬ……」



信玄は此処でよく独り言をつぶやいた。


風呂の残り湯を流す音が信玄の独り言をかき消してくれる。



元はと言えば儂の信濃侵攻に耐えかねた村上義清を助けるために川中島での合戦に及んだ、義に厚い男。

塩を輸出して欲しいと相談すれば必ず売ってくれたに違いない。


信玄は謙信が少々羨ましかった。

ただでさえ寅の年にうまれたと言うだけで越後の虎などと呼ばれてかっこいいのに、敵にすら義に厚い男だと言われている。


それに引替え、自分はなんと呼ばれているのだろう。

領土拡大のために今川との同盟を破棄した"不義の男"とか、そんな所だろうか。



よく考えてみれば、東海への進出も企てなければ塩に困ることはなかった。


「ふっ、ははは」


儂は海がほしかったのだ。

海が手に入れば塩も手に入る。

そうして上洛を果たす。

そう考えていたのに、これでは本末転倒ではないか。


そう思うと、己の愚かさについ笑ってしまったのだった。



「儂は多くを望みすぎたのか」



我が領地を豊かにするため、領民のために戦ってきたが、結果として領民を苦しめている。


これまでの戦いで散っていった者たちは今の塩不足に苦しむ甲斐を見てどう思うだろうか。


「こんな領主では、仏は助けて下さらぬか」


信玄が弱音を吐くと、側近が駆け足で向かってくる音が聞こえて再び残り湯を流した。


「御館様、よろしいでしょうか」


「なんだ」


「上杉は塩の輸出を禁止せぬとの事です、決して高値にもするつもりも無いので、いくらでも越後から買えばよいと……」


「なんだと?何故だ、何かの罠ではないのか」


「それから、これを」


そう言って少しだけ開けられた戸の隙間から差し出されたのは、薬が包まれた紙に似ていた。

中には何か書かれているようだ。


信玄はJCが授業中に先生に隠れてこそこそ回す手紙のようだと思いながらそれを広げると、サラサラと白く輝く粒がこぼれ落ちた。


「これは……」


ついさっきまで塩と偽って毒薬でも寄越すのではないかと危惧していた信玄が本能のままにトイレの床に落ちたソレを人さし指につけて舐めた。



「……越後から塩を輸入せよ」



側近が下がったのを確認すると信玄は薬包紙を広げた。


そこには確かに謙信が書いたことを証明する花押も書かれている。


"四度目の川中島での戦いの折、我が軍の兵を手厚く供養してくれたことに感謝している 今こそ、あなたの義の心に報いたい"


信玄はその紙で尻を拭いた。

信玄の忍び泣く声を、残り湯の流れる音がかき消した。

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