第八話 恵まれた身の上
あてがわれた部屋で一人盤面を見下ろしていた八意は、聞き覚えのある声がしたような気がしてふと顔を上げた。
「おい賢木、いるんだろ」
「三岸さん」
気づいた八意は、慌てて襖を開けた。
「すみません、研究していて気づかなくて……」
「ああ、そうみたいだな。――ん?」
八意越しに棋考盤と駒を見つけ、勝彦は軽く目を見張った。
「おいおい。お前の盤と駒、どっちもすっげえ高そうなんだが」
「はい、師がくれたもので」
「へえ、いいなあ。重いだろうがこういうやつは一生もんなんだよな。俺のも頑丈っちゃ頑丈なんだが……」
と羨ましがる勝彦の視線は【晴宗】と【晴邦】に釘付けだ。八意は苦笑した。
「ところで三岸さん、何か私に用ですか?」
「ああ。下でちょっくら研究会しねえか? そうやって一人でずっと盤とにらめっこしてるのも、つまらんだろ」
と口の端を上げ、勝彦は八意を階下へと誘う。断る理由があるはずもなく、八意は頷いた。
そうして足を運んだ大広間は先日と違って、子供が賑わいの中心になっていた。数人の大人が十歳前後の子供たちに棋考を教えてやっている。中にはふざけている子供もいるが、すぐ叱られて大人しくなっていた。
八意は勝彦を見上げた。
「今日は子供たちに指導する日なんですか?」
「おう、午前中はな。ま、学校に代わって親が働いてるあいだ預かってるみたいなもんだな」
「今日は休日ですからね」
一つ頷き、八意は棋考道場の様子を見つめた。
八意も幼い頃はこのように、亡き祖父や店を訪れる常連から棋考を教わったものだ。駒の動かし方や規則、定跡。専門雑誌や新聞に掲載されている棋譜の読み方、王手に至る問題の解き方。一つ一つを大人たちは時に荒っぽく、時に丁寧に教えてくれた。
海太へ引っ越してからは【彦の湯】で、今度は八意が子供たちに棋考を教える側に回った。もちろん大人たちとも対局したり、教えることもあった。
眼前の光景はそんな、八意が山浪で過ごした日々に重なる。自然と頬が緩んだ。
不意に、八意と三岸を見つけた子供があ、と声をあげた。
「三岸のおじちゃん!」
「誰がおじちゃんだ! 俺はまだ二十五だっての! お前の親とそんなに年変わんないんだぞ!」
「じゃあ老け顔なんだ」
「ちげえええ!」
他の子供からも無情な一言を投げつけられ、勝彦は叫んだ。大人たちは爆笑である。八意は笑っていいのか大いに迷ったのだが。
まあ、あの子くらいだと三岸さんは大分年上だもんね……。
とはいえ親より少しは若いのだろうから、せめておにいちゃんくらいにしてもよさそうなのだが。まったく容赦がない。
これ以上子供に噛みつくのは大人げないからか、勝彦は苦虫を噛み潰した顔をする。そんな勝彦を見てくくくと笑いながら、子供と対局していた老人の一人が勝彦に顔を向けた。
「で、今日はこのあいだの雪辱戦か、勝」
「ええ、子供に強豪の対局を見せるのは大事でしょう」
にかりと笑って勝彦は即答する。やはり研究会とは名ばかりの、雪辱戦のつもりだったらしい。そうだろうと思っていた八意は苦笑した。
一番八意の近くにいた少年は目をまたたかせた。
「もしかしておねえさんが、山浪県から来た地域代表?」
「うん。一昨日からここにいるの」
「! すっげえ! じゃあ俺、対局見たい!」
前にも似たような質問をされたなあと思いつつ八意が答えてやると、少年は目を輝かせ、元気よく手を挙げて観戦を所望する。他の子供たちも同様だ。
勝彦は恨めしそうな顔になった。
「お前ら……俺が地域代表になったときは大して反応しなかったくせに、賢木には反応するのかよ」
「だって、三岸のおじちゃんが強いのは知ってるし。それに、父ちゃんは女は口は強いけど棋考は弱いって言ってたもん。なのに地域代表になって、三岸のおじちゃんが対局しようとするなんてすっげー!」
「こら坊主、失礼だろ」
「だって」
「だってじゃない。棋考は強けりゃ何も関係ねぇんだよ。いつも言ってるだろう」
勝彦がたしなめても食い下がる子供に、近くにいた大人が重ねて注意する。それでも子供はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、大人たちの目を気にしてか口をへの字に曲げるばかりだった。
庶民の娯楽として親しまれている棋考だが、実際に嗜むのはほとんどが男性だ。女性で指す者は少なく、見るだけなのが大半。少女にいたってはそれすら皆無だ。だから八意はここへ来た初日、珍しがられたのである。
そんな男社会を日頃から目にして親の言葉を聞いていれば、子供がこういう考え方を当然と思うのは仕方ないことかもしれない。
とはいえ、十歳くらいの子に言われるのはなんだかなあ……。
のんびりしていると言われがちな八意であるが、ここまで言われると棋考指しとして黙ってはいられない。それに今はまだ明かすことはできないが、これでも天野晴季二冠の弟子なのだ。
ここはひとつ、実力を見せねばなるまい。八意は奮起した。
そんなこんなで、結局二人の対局はまた衆目の中で行われることになった。駒絵を実体化させると、先日と同じ老人が対局開始を告げる。
今回は子供たちに見せるためということで術式を用い、持ち時間を十五分、使いきれば自動的に負けと設定しての対局になった。
いつもの感覚で考えこんでいるとたちまち時間を使いきってしまうため、思考に割く時間の配分が一層大事になる。基本的には直感と少々の思考だけで、手は進んでいった。
ひそやかな熱気に包まれた対局が終わった頃。八意はもう子供たちの尊敬を勝ちとっていた。
「おねえさん! 僕に教えてよ」
「僕にも!」
「俺も!」
少年たちは八意を囲み、きらきらした目でねだる。今回も先日の対局同様に辛勝だったのだが、それでも自分たちが知る強い人に勝った、という事実は彼らにとって性別より重いものであるらしい。周囲の大人たちも八意が対局前に彼らへ向けていたような慈しみや苦笑を顔に浮かべている。
けれどもう昼前なのだ。八意は申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさい。私は午後から予定があって、今日は貴方たちに教えられないの」
「えー、駄目なの?」
「こらこら、行く場所があるんだから、無理なもんは無理だろうが。それに嬢ちゃんは考試の勉強に忙しいんだ」
仕切り役の老人はたしなめると、八意のほうを向いた。
「嬢ちゃんはこれから勉強しに行くんだろ?」
「はい。神部君が誘ってくれたので」
「……じゃあ、考試が終わってから教えてよ! それならいいでしょ?」
ふくれた子供が言う。八意はその子供の頭を撫で、微笑んだ。
「うん、わかった。他の皆にも教えてあげるね」
「約束だよ!」
「約束ー!」
八意の答えに満足してか、子供たちは一様に満面の笑みを浮かべる。
それぞれの対局に戻っていく子供たちを見送って、勝彦は八意を見下ろした。
「神部に誘われたってことは、【千仙堂】へ行くのか?」
「はい。それから賢宮神社へも案内してもらうつもりです」
そう八意が答えると、ああ、と勝彦は納得の声をあげた。
「それなら俺も混ざりてえなあ。あいつ、まじで強いし。いい勉強になりそうだ」
「やめとけ、勝。馬に蹴られるぞ」
悔しそうにする勝彦の横で、常連がくつくつと笑う。彼らが何を想像しているのかおおよそ理解できて、八意は呆れた。
どうして大人たちが何でもかんでも恋愛沙汰に結びつけたがるのか、八意としては理解しがたい。そもそも自分たちは一昨日会ったばかりの好敵手なのだ。目前に控えた考試そっちのけであれこれしようがないだろう。
重治のためにもここは誤解を説いておかねば、と八意は口を開こうとした。しかしその矢先、そういえばよ、と常連の御隠居が先に話を変えた。
「あんた、考試が終わったらどうするんだね? 女将から聞いたけど、考試が終わってもここにいるらしいね」
「あ、はい、しばらくというか……私、【赤城荘】で働かせてもらうんです」
「おや? 帰らないのかい?」
八意の返答が意外だったのか、御隠居は目を丸くする。勝彦や他の者たちも同じだ。
それも当然のこと。八意は年頃の庶民の娘なのである。本来なら考試に出場させてもらえるだけでも御の字。終われば即刻帰郷して、家の手伝いや奉公に励むべきなのだ。
それでも八意ははい、とはっきり頷いてみせた。
「考試でどこまで勝ち進めるかわかりませんけど……こちらなら、棋考の研究書や棋譜が海太にいるより早く手に入りますし、対局相手にも困りませんから。【彦の湯】……前の職場とここの女将さんにも了承してもらってます」
八意が上京を嘆願してすぐ、伯父夫婦が手紙で【赤城荘】の女将に話をつけてくれた。もちろん、晴季にも報告済みだ。
御隠居は感心顔で何度も頷いた。
「ほおお、さっすが女将。懐がでかい」
「おいおい、おだてても当人がいねえから、なーんも旨味はねえぞ」
「だったらお前が女将に言ってやれ。気をよくして何かもらえるかもしれねえぞ」
男たちはけらけらと笑う。常連である彼らは、圭太だけでなく女将とも軽口を叩きあう仲なのだ。
「この旅館でってことは、ここで勝彦の手伝いでもするのかね?」
「はい、そのあたりのことはまだ何も言われてませんけど……できれば」
御隠居に問われて八意がちらりと勝彦を見上げると、目をまたたかせた勝彦はにかりと笑った。
「おお、いいぞ。小娘だろうがなんだろうが、強い奴がここを手伝ってくれるのはありがてえ。がきどもも喜ぶ」
「そうだね。いっそ三岸君も彼女にここを任せて、本業のほうに集中したらどうだい? うちもそろそろ商売を広げようと思っていてね。君さえよければ、もう少し仕事を回すよ」
「お、そいつはありがてえ」
古物商だという男に話を持ちかけられ、勝彦は目を輝かせた。姿勢も前のめりになる。
「そういえば三岸さん、運び屋だと前に言ってましたよね?」
「ん? ああ、まあな」
八意が首を傾けると、勝彦は肩をすくめた。
「こうやって人に頼まれて、色々なものを帝都のあちこちに届けてるんだ。それほど稼ぎがいいってわけじゃねえがここの管理よりはいいし……学問がからきしなんじゃ、親父の仕事を継ぐのが一番手っ取り早いからな」
「つまり、棋考がつええ割には馬鹿なんだよな」
「うるせえよ」
同年代なのだろう男にからかわれ、勝彦はねめつける。そこでまた笑いが起きた。
ふと掛け時計を見上げた常連が、お、と声をあげた。
「勝、そろそろ本業の時間じゃねえのか?」
「うげ、もうかよ」
机に置かれた時計の針を見て、勝彦は慌てて立ち上がった。
「んじゃ賢木。悪いが、後片付けしといてくれねえか?」
「はい。お仕事、頑張ってください」
「勝彦おじちゃん、いってらっしゃい」
頼まれて八意が頷けば、対局していた子供たちは勝彦の出勤を手を振って見送る。勝彦はもちろんというべきか、だからおじちゃんじゃねえっての、と反論してから広間を出ていく。
「……皆さん、仕事しながら考試の準備をしてるんですよね」
「ああ。本当はあいつも、考試のほうに集中したいだろうけどな」
たくましい背中を隠した襖から目が離せず八意が呟くと、御隠居はそう息を吐いた。
「ま、こればっかりは仕方ねえさ。食っていけねえのに棋考に没頭なんて、馬鹿がすることだ。棋考は食い扶持を稼いでからじゃねえとな」
肩をすくめ、御隠居は子供たちの指導に戻っていった。
八意の胸がつきりと痛んだ。
棋考は古くから賭博の対象になっているし、棋考指しの大会で優勝すれば賞金が出ることもある。しかし、賭け金や賞金だけで生計を立てるのは難しい。八意が地区予選の決勝で退けた秋山も、本業は県庁の役人なのだという。
棋考はあくまでも娯楽でしかないのだ。棋士になれないのなら、なる気がないのなら。働かざる者食うべからずという庶民の現実を忘れてはならない。
――――でも、私は。
「……」
八意が開け放たれた障子のほうに顔を向けると、よく手入れされた庭園と外を仕切る塀の向こう――――川に架かる昔ながらの橋が見えた。
人々が行き交う橋の上に、空っぽの荷台を引く人影があった。人影は橋を渡りきると、異国風の建物が見下ろす通りへ姿を消す。
八意はなんとなく、その人影が勝彦のような気がした。
「どうしたの?」
「……ううん、なんでもないわ」
表情を見てか見上げてくる子供に、八意は緩く首を振ってみせる。そして自分も一度部屋へ戻って身支度を済ませ、【赤城荘】をあとにした。
歩いていると、八意の脳裏に自然と様々な人やものがよぎっていく。
晴季、伯父夫婦、圭太の両親。【彦の湯】の奉公人たちや実家の元常連たち。伯父夫婦に訃報を伝えてくれた友人。
最高級の棋考道具、仕事や家族にとらわれない身の上。
そして、目指す未来。
家族は皆失ってしまったけれど、いい環境で好きなことに打ちこめる自分は恵まれている。
だから、思うのだ。
自分は絶対に、無様な対局をしてはならない。
してはならないのだ。
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