第三章 力ある者たち

第九話 言葉を紡ぐ者・一

「あ……神部君、もしかしてあそこ?」

「うん、あそこだよ」

 賑やかな通りから入った、人気のない小路の先。見えてきた緋色の鳥居を八意が指差すと、重治はこくりと頷いてみせた。

 今日も今日とて【千仙堂】で切磋琢磨したあと。研究会を早めに切り上げた八意と重治は、棋考横丁からもその姿が見える賢宮神社を目指した。

「圭太君も言ってたけど、棋考横丁とこんなに近いんだね……あの橋を渡って少し歩くだけなんて」

「うん。棋考横丁があそこにあるのも、元々は賢宮神社の参道だったところに三百五十年くらい前、道具職人が工房を構えるようになったからなんだって。あの小橋はその頃に架けられたんだ。【千仙堂】もそのくらいの頃に創業したって、和雅さんが言ってた」

「三百五十年くらい前だと……まだ戦乱の時代だよね? そんなに古くから【千仙堂】はあるなんて、初めて聞いた」

「そうなんだ。棋考の雑誌にたまに載ってたりするけど。海太には棋考の雑誌が置いてなかったりするの?」

 首を傾げる重治に、うんと八意は苦笑してみせた。

「田舎だから、雑誌はなかなか届かないの。本屋に並ぶのはひと月近く経ってからが珍しくないし、一冊しか置いてないのがほとんどだから誰かが買うとその人に貸してもらわないといけなくて……私は晴季君に送ってもらってたけど」

「ふうん。じゃあ天野二冠が送ってくれた雑誌の号には載ってなかったんだろうね」

 納得したのか重治はそう一つ頷いた。

 そんなことを話すあいだも二人の足は止まらず、やがて神社の前に到着した。想像していたよりも広く、緑が豊かであるのが塀から覗く境内に心を躍らせながら八意は足を進める。

 二人が鳥居をくぐった瞬間、周囲の空気が変わった。

 棋考横丁や近隣の家々からの気配や音が遠くなっているだけではない。故郷の神社の境内と同じ、清冽な気配が境内の隅々まで満ちている。けれど力の存在も感じさせ、空気を吸うだけで意識が冴えてきそうだ。

 思兼神の力が境内に行き届いているのだ。これなら帝都を徘徊するあやかしどころか、式も寄りつくことはできまい。八意は神の力の偉大さに畏れを抱くと同時に安心した。

 都会の片隅にあって自然を感じられる周囲を見回し、八意は神社の空気を吸った。肌に馴染んだ、清浄な空気が八意の身体を循環していく。

 この静けさ、満ちる異質な気配、緑の匂い。五感で感じるものすべてが八意の記憶と心を刺激した。目を閉じれば、故郷の神社の境内が容易く瞼の裏によみがえっていく。

 朱色の鳥居、木々に囲まれたここより広い境内、大きな社といくつもの小さな社。すぐ隣には大御神を祀る別の社。

 しゃん、と打ち鳴らされる、五色の帯が垂れる鈴。ひるがえる豪奢な衣裳の袖。緩やかで厳かな笛や太鼓の音。

 互いの呼吸と鳴らす駒音だけが聞こえた、森厳なる社――――。

「賢木さん、嬉しそうだね」

 懐かしい空気に誘われて思い出に浸っていると、控えめな声量の問いが八意の耳に入ってきた。それでやっと八意は陶酔から覚める。

「私、そんなにはしゃいでた?」

「うん。すごく嬉しそうだった。神社は楽しい思い出があるの?」

「うん、まあ。実家の近くにある神社にはおばあちゃんと一緒に参拝したし、社務所の縁側で晴季君に指導してもらってたし。……この時期だとお能の奉納があるし」

 浮かれていたことを自覚しているだけに他人の目にもそう見えたのが余計恥ずかしくて、と八意は顔を赤らめながら説明した。

 幾度となく訪れた故郷のあの神社には、八意の大切な思い出が詰まっている。どれだけ神に祈り、棋考に励み、祭りや芸能を楽しんだことか。

 だから海太でもどうしようもなく心細くなったとき、【彦の湯】のすぐ近くにある神社へ足を運んだものだ。故郷とはまったく違う風情にさみしさがより掻きたてられることもあったが、それでも神社で神に祈ることは八意の心を落ち着かせてくれた。

「……賢木さんは、生まれたところが好きなんだね」

「うん。家族が死んだのは悲しかったけど、いい思い出がたくさんあるから」

「……うん。そうだよね」

 即答してみせる八意に重治はほのかに笑み、賛同した。

 その、表情。声音。――――普段の幼さを脱ぎ捨て、深い憂いに染まっている。

 まるで自分に言い聞かせているようで、八意は強い違和感を覚えた。

「……神部君は、故郷があまり好きじゃないの?」

「……どうだろう」

 疑問を八意がつい口にしてしまうと、重治は視線を虚空へ向けた。

「僕、生まれたところのこと、あまり覚えてないんだ。小さい頃に両親が死んで……そのあと、お金持ちの人に拾われたから。賑やかで人がたくさんいるところで育ったのは覚えてるんだけど」

「……」

「でも、育った場所が好きだっていうのはわかるよ。前の家……お金持ちの人の家は好きじゃなかったけど、【千仙堂】は好きなんだ。和雅さんは優しいし、好きなように絵を描けるし、圭太にも会えたし。直家さんに棋考のことをたくさん教えてもらえるし。いい思い出があると、その場所を好きになれるよね」

 重治はそう言って、何かを思い浮かべるように目を伏せる。最後の言葉は、どこか呟くような調子だった。

 なんで、神部君はこんな言い方をするんだろう……。

 語られた言葉が引っかかり、八意の胸にさざ波を立てた。だが、実際にそれらが言葉として重治に向けられることはない。八意の喉から出たがっている疑問を、何かが強く抑えつけている。

 だって、八意は重治のことを知らなさすぎるのだ。彼にとって深い意味を持っているに違いない過去に触れていいかどうかなんて、判断できない。

 けれど、胸は疼く。手を差し伸べてやりたくなる。それは、彼が頼りない容姿だからというだけではきっとない。

 先へと歩きだした重治を追って、八意は手水舎で口と手を清めた。さらに奥へ進むと、本殿と社務所の姿が見えてくる。

 焦げ茶と言っていい濃い色に白壁がよく映える、立派な社だ。職員は社務所にいるのか、八意たちが見る限りは誰もいない。

 八意と重治は賽銭箱に硬貨を投げ入れると作法に則って鈴を鳴らし、手を合わせた。

 八意はまず、参拝が遅れたことを思兼神に詫びた。続いて、考試に向けて日々励んでいることを心の中で報告する。

 そして、どうか何事もなく考試が終わりますように、と強く祈ったときだった。

 周囲から音が消えた。色も失せ、八意は純白の世界に立つ。

「――――」

 八意は思わず目を見開いた。感覚を撫でるものを感じて息を詰め、本殿を見つめる。

「……賢木さん?」

「――――!」

 細い声が聞こえたと思った瞬間、八意は一つの音だけが聞こえる世界から現実世界へ呼び戻された。音が耳から入ってきて、線や色が見え、穏やかな神の気配が身体を包む。

「神部君……?」

「大丈夫?」

 世界の行き来に精神がついていけず混乱していると、ずい、と重治が八意の顔を覗きこんできた。突然間近に秀麗な顔が迫ってきたものだから、乱れていた鼓動が驚きだか緊張だかでさらに高鳴る。胸に痛いくらいだ。

 や、やっぱりこの顔は心臓に悪い……!

 『赤城壮』で会ったときから思っていたが、重治はどうも自分の容姿について無頓着すぎる。ぼうっとしているところでいきなり近づいてきたりするから、余計に破壊力がある。

 一方。八意の内心を知らない重治は首を傾けた。

「今の、もしかして御神託?」

「わ、わかるの?」

「あ…………うん」

 八意が問い返すと、重治は慌てた表情になった。視線をさまよわせ、仕方ないといったふうで小さく頷く。

 八意は目を輝かせた。

「じゃあもしかして神部君は、御神託を授かったりできるの?」

「う、ううん。僕は御神託を授かったりできないよ。神様の力を感じたり、あやかしを見ることはできるけど……」

「そうなの? それでも私、おばあちゃんや晴季君たち以外で神様が御神託を授かったことに気づく人、初めて!」

 八意はにっこりと笑った。自分と同じような異能を持っているというだけでも、なんだか嬉しい。

 そこで重治は何かに気づいた様子で、目をまたたかせて首を傾けた。

「でも、賢木さんの実家は酒屋さんじゃなかったっけ。神職とか術者じゃなくて」

「うん。おばあちゃんも巫覡の才が少しあったの。何日かあとのお天気を当てたりとかしてて。だから御先祖様がこういう異能を持ってて、たまたま血が表に出てきたんだろうって晴季君は言ってたよ」

 実は八意という名も、産まれたばかりの孫娘の異能に気づいた祖母がつけた。常人にはない才能ゆえの苦難に遭うだろうと憂い、普段から参拝している思兼神の神の異名の一つである八意やごころ思兼神にあやかることで加護を願ったのだ。

 もちろん日々参拝を欠かさず、孫娘にも神への祈りを絶やさないようにと折に触れて伝え続けた。

 【赤城荘】へ着いた初日に周辺のあやかしたちが八意が近づくなり逃げていったのも、そのためだ。神との深い結びつきが、八意を闇に連なる存在から守ってくれるのである。

「賢木さんに巫覡の才があること、天野二冠は知ってるんだ」

「うん。おばあちゃんは私のことで、晴季君を頼りにしてたから」

 そこで八意は眉を下げた。

「でも他の人……特に術者には天野家の人であっても知られないようにって晴季君には言われてるの。もし連れていかれてしまったら閉じこめられて、棋考を指せなくなるかもしれないからって」

「ええ? 確かに天野家は異能や術の才能を持つ人をいつも探してるって、直家さんは言ってたけど……だからってそんなことするかなあ。賢木さんは天野二冠の弟子なんだし」

「うん、私もそう思うんだけどね。でも、絶対に知られるなって」

 首を傾ける重治に、八意は苦笑してみせた。

 異能の中で神から言葉を授かったり加護を得る力は、巫覡の才と術者のあいだで呼ばれている。しかし現代ではこの異能を持つ者は少なく、持っていてもささやかな加護を得られる程度の力しかないのだという。

 神の言葉を聞き、あやかしから守られるほどの加護を得られる巫覡の才の持ち主は他にいない。だから八意は術者にとって、非常に価値がある人材なのだ。棋考指しでいたいなら最低限、神託を授かるほどなのだと知られてはならない――――。晴季はそう、八意にきつく言い聞かせていた。

 事情を聞いた重治は、真面目な表情で頷いた。

「じゃあ、僕も話さないほうがいいよね。……和雅さんや直家さんにも」

「うん。お願い」

 成り行きとはいえ申し訳なくて、八意は眉を下げた。信頼する和雅や直家にも話さないようにというのは、重治には心が痛むことだろう。

 それで、と重治は話題を変えた。

「さっき、思兼神様はなんて仰ったの? 僕にはわからなかったけど」

「それが……」

 何気なく尋ねられ、八意はそこで視線をさまよわせた。これを言っていいのか迷う。

 言い淀む八意の様子につられてか、重治も不安そうな顔になった。

「そんなに悪いことなの?」

「ううん…………ただ、『逃げ回る災いに気をつけなさい』って」

 緩く首を振り躊躇った末、八意はそう告げた。

 性別も年齢もはっきりしない、不思議な響きの声だった。そもそも、耳で聞いていたかどうかもわからない。あそこはこの境内をも超越した、神霊の世なのだろうから。

 そんな世界で、声とも思念ともつかない音の連なりが八意に注意を促していた。

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