第七話 明日、何をしようか

「うん、ありがとう晴季君」

「……ありがとうございました」

 八意に続き、重治もぎこちなく頭を下げる。晴季はそれを特に見ようとはせず、帳面と矢立を袂にしまう。

 ――――と。

「……」

 何に気づいたのか、不意に晴季が縁側のほうへ目を向けた。つられて八意もそちらを見ると、梅雨前の眩しい日差しを浴びた空を飛んでくるものがある。

 人の形をしたそれを無造作に掴み取った晴季は、一読するや機嫌を降下させた。嫌だとかふざけるなといった荒々しい言葉が全身からにじみ出ているかのようだ。

 八意は首を傾けた。

「晴季君、どうしたの?」

「……呼び出しだ」

「……もしかして、会長さんから?」

「ああ」

 おそるおそる八意が尋ねると、まとった空気に相応の声で晴季は答えた。口の中で何か呟いたかと思うと、術で燃やす。

 い、いいのかな……。

 だが仕方ない。かの御仁は甥をからかうのが好きなのだ。故郷で八意が晴季から指導してもらっているところに居合わせたときも、それはそれは楽しそうにしていた。あとで晴季が不穏な空気を漂わせ、『あのくそ狸』と罵っていたものである。

 さっき、私そっくりの絵は会長さんが借りていったって神部君が言ってたけど……それも多分、晴季君に見せてからかうためだよね……。

 なので、晴季のこの反応は納得でしかない。彼らの関係は相変わらずなのだと改めて理解する八意だった。

 晴季は気を取り直すためか、一つ息を吐いた。それより、と話題を変える。

「八意。本戦までに賢宮神社へ行っておけ」

「賢宮……ってこの近くにある、あの有名な?」

「ああ。帝都はろくでもない奴が山浪より大勢いるし、いつ何が起きるかわからないからな」

 目をまたたかせる八意に晴季は淡々と言った。

 賢宮神社は棋考横町の近くにある神社だ。知恵の神である思兼神を祀っていて、棋考横丁や棋考会館と近いこともあってか地元の棋考指しや棋士が願掛けによく訪れる。棋考を愛する者にとっての聖地と近頃は盛んに喧伝されていた。

 でもそうだよね。駅の辺りから離れていても、人がこんなにたくさんいるもの。私は海太から来たばかりのおのぼりさんだし、子供だから悪い人に狙われやすいよね。

 幼馴染の思いやりを理解し、八意は頬を緩めた。

「うん、時間を見つけて行ってみるね。心配してくれてありがとう、晴季君」

「……別に」

 そっけなく言って、晴季は立ち上がる。こういう晴季の態度に慣れている八意は、相変わらずだなあとにこにこするばかりだ。

 そこにちょうどやってきた和雅は、おやと目をまたたかせた。

「晴季君、もう帰るのかい。もう少しいればいいのに」

「いえ、用は済みましたし、叔父に呼び出されましたので」

「直家さんに? じゃあ仕方ないね。また遊びに来ておくれ」

「……失礼します」

 店主に冷めた声だけ返し、晴季は踵を返す。八意は尊大な背中を見送った。

「天野二冠、何の用事だったのかな……」

「さあねえ。直家さんは晴季君に色んな仕事を頼むようだからね。今日彼がここに来たのも、直家さんが持っていった重治の掛け軸を返すためだったし」

「え、今までずっと会長さんが借りてたんですか?」

「ああ。直家さんは重治の絵を気に入ってくれているからねえ。きっと色んな人に見せていたんじゃないかな」

「……!」

 八意は目が遠くなった。再び、含みのある笑みを浮かべた御仁の顔が目に浮かぶ。

 なんで甥っ子の弟子の絵姿を見せびらかすんですか会長さん……!

 これでは、思わぬところでおかしな注目をされてしまいかねない。八意は嘆かずにいられなかった。

 一方。和雅は膝をつくと、すっかり空になっている湯呑に茶を淹れなおした。

「それにしても、随分熱心に訊いていたね、二人とも」

「あ……すみません、うるさくして」

「いんだよ。やかましいというほどじゃなかったし、客もさっき一人来ていただけだからね。最近ここで対局や研究会をしていったのは、むさくるしい声の棋士や棋考指しばかりだし。若い子の声が聞こえるのは嬉しいよ」

 柔らかな笑み混じりの声に八意が眉を下げると、和雅は手を振って軽く流した。それに、とこらえきれずといったふうでくすくす笑う。

「あんなふうに拗ねた晴季君を見るのは初めてだよ。直家さんたちとうちで研究会をするとき、からかわれて不機嫌になっているのはたまに見るんだけどね。まさか、幼馴染によそよそしくされたからって……随分可愛らしいところがあるんだねえ」

「……」

 あれの一体どこが可愛らしいのでしょうか。

 八意は心の中で呟かずにいられなかった。晴季は十九歳の、不愛想の権化と言っていい青年なのである。可愛らしくはないだろう。

 そもそもこの店主、あのときには見ていたのか。八意はまったく気づいていなかったのに。温厚そうな外見に騙されてはいけないのかもしれない。

 まあそれは置いといて、と和雅は話題を変えた。

「君は、考試まで時間は空いているのかい? どこかの棋考道場へ行ったりは」

「いえ、今のところは特に予定を入れてませんが」

 八意が答えると、じゃあ、と和雅はにっこり笑った。

「重治の相手をしてやってくれないかな。この子は直家さんや他の大人の強豪に鍛えてもらったから、強くて歳の近い棋考指しが身近にいなくてね。君も強い相手が欲しいだろう」

「! 僕、賢木さんと一緒に研究したい!」

 重治は顔を輝かせ、ずいと八意のほうへ身を乗り出した。棋考盤の向こうから麗しい顔が近づいてきたものだから、思わず八意はのぞける。

「こらこら、落ち着きなさい」

「あ、ごめんなさい」

 和雅にたしなめられて重治は慌てて座り直す。そんな重治を和雅は微笑ましいものを見るような目で見つめている。

 これなら確かに、普段から重治は簡単に仕事を休ませてもらえるのだろう。雇い主と奉公人というより、家族のようなのだから。わずかなやりとりの中に二人の関係のぬくみを感じ、八意は自然と頬が緩んだ。

「じゃあ、明日の午前中から来させてもらうね」

「うん! ……そうだ」

 嬉しそうに頷いた重治はすぐ、何かを思いついた顔になった。

「帰りに賢宮神社に案内するよ。さっき天野二冠が行ってこいって言ってたでしょ?」

「おやおや、晴季君がそんなことを? 本当に君のことが大事なんだねえ」

 和雅は軽く眉を上げると、くすくす笑った。

「でも今日はやめておきなさい。あちらまで行ってから【赤城荘】へ向かうと、遠回りになってしまうからね。明日、早めに研究会を終わらせてからにしなさい」

「わかった。賢木さんもそれでいい?」

「うん」

 八意は笑顔で応じた。圭太に道を教えてもらって一人で行くつもりだったのだが、案内してもらえるなら厚意に甘えさせてもらうほうがいい。

 師と再会して、好敵手との研究会もとりつけた。対局には負けてしまったけれど、なんて自分は運がいいのだろう。

 明日からも充実した毎日が続く予感に、八意は心が躍った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る