おもい、思い、重い

一途彩士

樹とわかな

 静かな読書タイムになると思っていた。用事も済んで、今日の予定はこの本を読み切るだけ。明日はバイトがあるから、できれば早く読んでしまいたかった。

 あおむけになって文章を一行ずつ追っていく時間は昔からの習慣だ。あと半日あればこの一冊は読み終わるだろう。一度読み始めたらそこから先は本の世界。ほかに何かする気もなくなるから、時間さえあれば読み終わってしまうのは簡単なことだった。

 「ねえいっちゃん!」

 その予定が崩れそうになっているのは、俺の体の上に彼女が乗ってきて俺の名前を呼び始めたから。普段は俺がどれだけ好き放題読んでいても何も言わない。彼女は俺が決して一度手に取った本を離さないと知っているから、こんな行動に出るのは初めてのことだった。

「んー」

「いっちゃん!」

 俺の目と本の間に無理やり体を滑り込ませて視界の邪魔をする、なんてことはしてこないけれど。本を持つ俺の腕の隙間から彼女が顔をのぞかせた。

「わかな、あとちょっと待って」

「やだあ……」

 彼女の声のトーンが、泣き始めそうな震えた高いものに変わる。俺は本を片手だけに持ち替えて彼女の頭に手を置いた。彼女の素直に感情を表現するところは長所だ。

 彼女がこうなった理由は、だいたい見当がつく。午前中二人で買い物に出ていたところ、出先で遭遇した俺の友人に言われたことだ。

いつき、本以外に彼女なんていたんだ!』

 俺が昔から本ばかり読んでいることを知っている彼だから、本が恋人だろってフレーズがからかい文句の定番だった。それだけなのだが、彼女はそれを聞いてから、だんだんと口数が少なくなり、帰宅して俺が読書の準備を済ませてようやくこのような訴えを始めた。

「あのね、付き合う前もみんなに言われてたの。いっちゃんは本の虫で本が恋人みたいなもんなんだから、付き合うの無理だって。だから諦めろって。付き合ったって本に夢中で忘れられるよって。付き合ってからも、いっちゃんが本を読んでるの見てわかな邪魔してない? って言われたり……」

 わかなとは一年くらい前に付き合い始めた。周囲が俺たちが付き合い始めたと知って驚いていたのは見たけれど、そんな風に言われていたのは初耳だった。

 頭に添えていた俺の手を彼女がつかんで、そのまま自分の右頬に運んだ。いらだちからか膨らんだ頬が手のひらにちょうど収まる。彼女はしばらくそうしていたが、

「いっちゃんの恋人は本じゃないよね? あたしがいっちゃんの彼女だよね? ね?」

 すがるような声を出した。

「うん……」

「こっち向いて言って!」

 正直今いいところだから、本から目が離せない。それでもわかなは必死な声で「ねえねえ」と言い募る。

「いっちゃん、あたしのことどれくらい好き? 本より好き?」

「どっちも同じくらい好きだよ」

「同じ?」

「ん」

「喜んでいいのかわかんないよー!」

 俺の人生で占める本の価値を知っているだろうに、彼女は納得いかないようで訴え方を変えてきた。

「ねー、じゃあどっか遊びに行こう。デートしよデート」

「今日はもう出かけたろ。それに夜までは、これ読み終わるまでここから立たないって決めてるから」

「トイレも? ご飯も?」

「それ以外では立たない」

「ねーえーー」

 揚げ足取りに屈しない俺の宣言にわかなは嘆きのこもった声をあげて、今度は胸に顔をすりつけてくる。本気で読書タイムを邪魔したいわけではない彼女の気持ちが察せられるも、ずっとこうしていられると読みづらい。彼女を乗っけたまま上半身を起こして、「これでも読めばいい」とそばの棚に並べている本を一冊渡す。

「これ、児童書? おもしろい?」

「俺は十年は読んでる」

 これは俺が読書にはまったきっかけになった本だ。ファンタジーの長編シリーズ。最初は活字なんてまるっきり興味がなく、外に遊びに行くタイプだった。この本を手に取ったのはたまたまだった。歯医者の待合室がひまでひまで仕方なかったときにそばにあったというだけ。読み進めるうちにその世界に引き込まれて、続きが知りたくなった。次の日には初めて自分の意思で図書室に向かった。シリーズの既刊を読み終わって、それでもまだ足りなくて次々と小説の棚を読み漁った。今では本以外の娯楽はほとんど触れていない。

 そんなきっかけになったこのシリーズは、今でもずっと新刊が出るたびに本棚に揃えている。

「十年……あたしの十倍いっしょにいる……」

「もしそれ読むんだったら、あとで感想聞かせて。俺がこれ読み終わっていなくてもいいから」

 衝撃を受けている彼女にそう言うと「え」とさらに動きが止まった。

「……いっちゃんが、あたしとおしゃべりしてくれるってこと? それ読み終わってなくても?」

 俺の読みさしの本を指して彼女は信じられないとばかりに声を震わせた。俺の融通のきかないところを知っているから、本当に驚いている。

「うん。その本が合わなかったら他の本でもいいよ。わかなが好きになれそうなの、探せばもっとあると思う」

 本棚にはまだミステリも冒険小説もある。俺の趣味を押し付けるのもどうかと思って、こんな風に本を勧めたりすることはなかったが、たまにはいいんじゃないか。そう思っての行動だったが、彼女はだまってしまった。彼女にとっては本当に思いがけない出来事だったようで戸惑いが勝っているようだ。もしかして、と思い当たる。

「本きらいだった?」

「きらいじゃないよ」

 彼女はすぐに首を横に振った。それに反して、次に口にする言葉までは一呼吸ほどの間ができた。

「ただ、うーん……ゆっくりでもいい?」

「いいよ」

 読むスピードが遅かろうがはやかろうが、物語のおもしろさに影響はない。じっくり読めば楽しい時間が長く続くし、早ければまた新しいストーリーが待っている。

「じゃあ、読む」

 わかなは俺に乗っかっていた体勢から俺のすぐ隣に腰を下ろした。それでこちらに体を預けるように少しもたれかかってきて、俺の渡した本をおそるおそる読み始めた。

 それを見て、俺も自分の読んでいた本の続きに戻る。しばらく読み進めて、たまに彼女の様子を伺ったが、だんだんと俺の勧めた物語に夢中になっているのがわかって安心した。これまでわかなは特に本に興味がないと思っていたけど、この様子だとかつて本を読むのが遅いとからかわれたとか、彼女が本から遠ざかっていた理由があったのだろう。今回それが解消されたのなら、あの友人の言葉もいいきっかけだったかもしれない。

 ただ、引っかかる部分はある。俺は確かに本が好きで、大事で、何よりも優先しがちだけれど。周囲が思っているほど彼女をないがしろにしてるつもりはなかった。

 俺は彼女の話ならいつだってちゃんと聞いてる。話しかけてきたのが他の人だったら読書中は返事はおろかそもそも声をかけられたことにも気づかないかもしれない。

 大事な本だって彼女にだったらすぐに貸せる。大事なものは丁寧に、他人に滅多に触らせたくないと思っている自分が、だ。周囲から変な印象を抱かれている。その誤解は解くべきなのだろうか。

 でも今は、俺がはじめて夢中になったときのように本にかじりついている彼女が、あとでどんな感想を聞かせてくれるのか。そちらのほうがよほど気になるから、俺も自分の読みさしの本に戻って、彼女が読み終わるのを待つことにする。

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おもい、思い、重い 一途彩士 @beniaya

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