第四章 天才魔術師は愛を捧げる
4-1
季節が巡る。
冬が過ぎ、春が近づく。
薬を飲む。性行為をする。仕事をする。軽口を叩く。
怪しまれないように。いつもどおりに。
王宮の会話を盗聴し、情報を集める。和平交渉は順調で、条件を詰めるために使者がせわしなく両国を行き来しているのがわかる。
これからどうするかを考える。
否、どうするかだけは最初から決まっている。
──そして、その日はやってくる。
いつもの夜だった。和平交渉も大詰めで、雪解けを待っての条約締結に向けて、最近のルグレアは多忙だった。それでも二日に一度は後宮に顔を出していたけれど、泊まっていくのは久しぶりだ。ジャフィーはそれを無邪気に喜んでみせたし、いつも通りに身体を重ねたし、他愛のない会話を少しして、いつものように抱き合って眠った。
違うのは、ジャフィーが、『正気だった』ということだけだ。
寝台の上で、ルグレアが、無防備に眠りこけている。
「……『愛してる』、……って、今日も言ったね。最初はあんなに嫌そうだったのに。慣れたのかな?」
嘘をつくのにも。
呟きながら、その『最初』を思い出す。嫌そうな顔で言うはずだ、と、今更になって納得する。第一感はやっぱり大事だったなとしみじみ思う。
ルグレアは、戦場ではどんな気配も逃さない男だ。けれども、ジャフィーが起き上がって何やら呟いていても、一向に目覚める気配はなかった。身体に染み込むほどの信頼があるのだ。──それなのに、と、ジャフィーは少し恨めしく思った。
寝台から下りると、ちゃり、と、小さく音が出た。金の鎖。
首元で、赤い石が揺れている。
ジャフィーは軽く石を握り、小さく笑った。──これだって、一体、どんなつもりで『お前の色だ』なんて言ったのだろう。
念のため魔術で音を消し、ずいぶん着ていない気がする外出着へ着替える。ちらりと寝台を見て、ルグレアが変わらず眠っているのを確認し、ジャフィーは小さく口を開いた。
「……、」
一体、何を言おうとしたのだろう。思いつかなかったので、結局、何も言わずに外に出る。
部屋から出ても、人の気配はどこにもなかった。けれども、魔術の気配はある。ジャフィーが出ていけば、否、出ていこうとすればすぐに分かるような魔術だ。ひとたびジャフィーが行動に移せば、捕縛の魔術が発動して、ジャフィーを逃さぬようにと絡め取る。
そういう魔術が掛けられていることは、ジャフィーがその気になればすぐにわかった。
なるほど『撹乱』は強力で、かつ、ジャフィー対策として最適な魔術だった。その気になればどんなことでもできるジャフィーを封じるには、『気づかせない』ことが一番なのだ。
(まあ、一度気づいてしまえば無意味だけど。……俺相手に、全部が隠せるわけがない。だからこその『撹乱』……意識誘導と阻害だ。『だった』。今となっては、何の意味もない……)
思いながら、ジャフィーはひんやりとした廊下を歩く。誰も居ない。
空を見上げれば、煌々たる満月が高く辺りを照らし出している。
ルグレアはもう、ジャフィーのことを『持て余して』いる。
「……てか、それこそ、最初から言ってたか。『暇だとろくなことしない』だっけ?」
まったくもってその通りだった。
ジャフィーがひとりでログーナに行った、それがすべての始まりだった。いや、もしかしたら、ルグレアはもっと前からジャフィーに愛想をつかしていたのかもしれないけれど、少なくとも、今ここに至っている発端となったのはあの一件だった。
竜殺しの剣。
ジャフィーはあのとき、ルグレアに剣をあげたくて、同時に、ミトに語ったとおりに、万が一戦争が起きたってちっとも構わないと思っていた。
ひとりでは解決できない問題が起きれば、危機に陥れば、ルグレアはどうしたってジャフィーを求める。圧倒的なジャフィーの魔術を。そうすれば、どんな手を使ってでも、ジャフィーはルグレアの願いを叶える。
ジャフィーとルグレアは、ずっとそうやってきたはずだ。
けれどもルグレアは、どうやらもう、そういうジャフィーが邪魔なのだった。当たり前だ、と、冷静になってみればジャフィーにもわかる。欠片の躊躇いもなく大勢を殺し、魔術のためなら倫理観など頭から無視してのけ、勝手に戦争を起こそうとする魔術師は──なるほど覇道においては傍らにあっても良かっただろうが、ひとたび王道を征くとなったなら、不必要を通り越して有害だ。
だからルグレアは、ジャフィーのことを、どうにかしなければならなかった。
「……いつからだろうな。ねえ、いつから、俺はあんたの邪魔になってた?」
思い返せば、すべてが疑わしく思えるようだった。
例えば、かつて、すべてが変わり果てる境となった日。燃え落ちる王宮で、ジャフィーの満面の笑みを見たルグレアは、一瞬、ジャフィーを見て固まっていたようだった。
否、そんなの、当然といえば当然だったのかもしれない。ルグレアは元軍人で、死体には慣れていたはずだけど、それでも、大量に人を殺している最中に笑っているのはおかしなことだ──と、今になってみればジャフィーにもわかる。
だから、そう、もしかしたら。
もしかしたら、あのときには既に、ジャフィーとルグレアは、噛み合ってなどいなかったのかもしれない。ジャフィーはルグレアの願うとおりにやってきたつもりだったけれど、もしかしたら、ルグレアの本当の願いは、ずっと、違うところにあったのかもしれない。
そうやって噛み合わないまま辿り着いた場所、ルグレアが出した結論が──この、後宮という檻なのだとしたら。
「俺は天才で、好戦的で、この国のことを知りすぎてる。……でも、俺は、強すぎるから……物理的に殺せなくて、自由にさせるわけには勿論いかない。だから、」
勿論、ルグレアが本当に本気になれば、ジャフィーを殺すことは出来るだろう。
けれども、そうする理由が難しい。たとえ物騒なあだ名がついていようとも、ジャフィーは曲がりなりにも政変の立役者で国内の有力貴族だ。そういうジャフィーを殺すには、正当な理由が必要なのだ。
そのうえ、万が一ジャフィーが逃亡したら、周りに被害を出さないように殺さねばならない。それは、さすがのルグレアにも難しい。
だから。
「俺が『自主的に』無力化されて、『自主的に』ここにいるように、あんたは一計を案じたってわけだ。……『男でも子どもを作れる』、馬鹿な思いつきじゃなかったんだな」
懐胎は、結果的には、ジャフィーを閉じ込めておくには悪くない言い訳だった。
ルグレアが子どもを『欲しがる』なら、ジャフィーはそれを拒否できない。ルグレアの子どもがいるかもしれない身体ではどこにもいけない。もしジャフィーが薬の開発に成功しなかったらどうするつもりだったのだろう、と少し考えて、その場合は普通に愛妾として後宮に入れたんだろうなと思う。
ジャフィーが性的な経験に疎いことは、ルグレアも当然知っていた。それこそ媚薬なりなんなりをつかって、身体で懐柔できると考えた可能性は大いにある。……つくづく馬鹿にされている、と、ジャフィーは皮肉に唇を歪めた。
「……『愛してる』、なんて、ねえ。ひどいよなあ……」
ミトはやっぱり馬鹿な女だ、と、同情するみたいに思った。根が善良ということかもしれない。ルグレアのこともジャフィーのことも、普通の人間だと思っていて、その行動を綺麗なふうに解釈しようとするから、愛だの恋だのを幻視してしまう。
愛なんて、そんな、ルグレアにも、ジャフィーにも、あるはずのないもののことを。
子どもは要らない。
愛なんて、最初からあるわけがない。
だとしたら、ルグレアがジャフィーを抱いていた理由はひとつだ。
『愛してる』なんて、あんなに言いたくなさそうに口にした理由は一つだ。
つなぎとめておくためだ。
ジャフィーが後宮という檻に相応しい扱いに慣れ、この檻にいることを当然と思い、自分から出ていこうという発想が出てこないようにするためだ。そうやって精神的な暗示をかけて、後宮に掛けられた『攪乱』の魔術の効果を強めようとした。
馬鹿みたいだ。
好きだなんて、譫言みたいに言って。気持ちがよくて流されて満たされて。
愛されてるだなんて。
愛してるだなんて、勘違いをして。
「……ひどいな、ルグレア」
立ち止まる。
どうして、と、最後に残ったのはそれだけだった。胸が痛くて息が苦しい。どうして。触れる手の優しさも、見つめる瞳に宿る熱も、すべてが偽りだったのだ。どうして、そこまでして。そんなことしなくたって。
ジャフィーがもういらなくなったのなら、別に、こんな回りくどい手段を取らなくたって、ただひとこと──ただひとこと、『愛してる』なんて嘘じゃなく、もっと簡単な言葉ひとつを、ジャフィーに言ってくれればよかったのだ。そうすれば、ジャフィーはこんな、胸の底から溢れる痛みに溺れるみたいな、苦しい思いをしなくてすんだ。
でも。
ルグレアはそのひとことを、きっと、『愛してる』よりもっと言えなかったのだろう。
だとしたら。
「──ジャフィー様」
ふ、と。
空が陰った。月明かりが失われ、後宮内の魔術が薄れていく。
アリが立っている。
ミトの兄。後宮には本来立ち入れないはずの、男性の護衛。
「お迎えに上がりました。──我らが王の大望のため、お力をお貸しくださいますよう」
彼を呼んだのは、勿論、ジャフィーだった。
ルグレアがジャフィーを閉じ込めていた理由は、よく考えてみなくとも、わかりやすく明らかだった。ルグレアの対外政策の変更に反対する、強硬派の存在。あとの問題は、どうやって彼らに接触するかだったが、その賭けにもどうやら勝ったらしい。
ジャフィーが後宮から一歩も出られなくなって、結果的に接触がなくなった──そして、ミトを経由して後宮にかけられた魔術を中和する薬を差し入れてきた彼を、怪しんだのは正解だった。
ジャフィーは、ミトに気づかれないように魔術を仕込み、彼女を経由してアリと連絡を取り合い、そして今日──魔力が最も高まると言われている満月の夜なら後宮に掛けられている魔術に打ち勝てると踏んで、彼を此処に呼び寄せた。
「うん」
振り返る。
アリの顔を見て、一瞬、迷いに似た感情が浮かんで混乱した。こうと決めたことを、迷ったことなんてなかったのに。
いいのか? 本当に?
「……行こうか」
──いいんだ、これで。
満月を背に、すべてを振り切るようにしてジャフィーは笑った。
『愛してる』なんて、ばかみたいな嘘で、ジャフィーに『愛』なんてものを教えてしまった責任を、あの男にとって貰わなければならないと思う。
さあ。
「思い知らせてやらないと。……愛。そう、」
愛ってやつを、さ。そう呟いて、ジャフィーは、後宮を後にした。
そして、決して振り返らなかった。
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