3-4


 ──ツン、と、どれだけ覆っても防ぎきれない異臭が鼻から入り込む。

 それだけで、これが『いつ』なのかすぐにわかった。デルゲと呼ばれた、今はない地方。元々帝国の支配をよしとしない傾向の強かった集団が、新皇帝となったルグレアを甘く見て、武力を以て蜂起して──当時各地で起きようとしていた反乱への『見せしめ』として、必要以上に制圧された。


 それが、今言うところの『デルゲの虐殺』である。


 けれども、あの場で実際に起きたことは──大枠だけを切り取れば間違っていないが──少し違う。

 

 その戦場は、腐臭に満ちていた。先週までジャフィーに笑いかけていた、ジャフィーのことを面白がってくれていた年かさの魔術師が、生気のない目でジャフィーを見て、ただ捕食のためにジャフィーに近づいてきて──……


 ジャフィーは。

 ジャフィーは、あのとき──……




「──ジャフィー、おい、起きろ、ジャフィー!」


 ……昔のことを夢に見てばかりだ、と、思っていたけれど、あの日のことは流石に見たくなかったな、と。

 ルグレアに揺り起こされたジャフィーは、まず、最初にそう思った。ルグレアに抱き潰され、悪くない気分のまま寝落ちたはずだったのに、どうしてこんな夢を見るんだろう。ジャフィーはゆるりと目を瞬き、それから、ルグレアのいやに焦ったような顔を見上げた。


「魘されてたぞ。……大丈夫か?」

「だいじょーぶだいじょーぶ……多分これもさあ、此処の魔術のせいなんだよね」

「魔術?」

「そう。記憶にでも干渉されてるんじゃないの? ……昔のことを、夢を見るんだ。それだけ」


 言いながら、ジャフィーはベッドサイドに置かれた水差しに手を伸ばし、中にはいっていた果実水をグラスに注いだ。

 魔力を込める。きん、と、グラスの中身が一気に冷える。俯せに寝そべったままグラスの中身を一口飲み、ジャフィーはちらりとルグレアを見上げた。

 ルグレアは、寝間着ではない服を着て、ベッドサイドからジャフィーを覗き込んでいた。もしかしたら、仕事に戻るところだったのかもしれない。冬が明けてすぐに行われる予定の一大イベント、ログーナとの和平締結に向けて最後の詰めの時期だからだろうか。それとも別の案件だろうか。わからないぐらい政務の中心から遠ざけられていることが、今はもう、悲しくすら感じられないんだなと思う。


 ルグレアは、ログーナと和平を結ぶ方針を、宮廷内にはっきりと打ち出していた。


 それは、明確な方針転換の意思表示だった。掲げていた『大陸統一』の目標は過去のものとなり、今後は、隣国とも対話や交易を行っていく。反乱への対処は厳しく行うが、これ以上の外征はしない。今後は内政に注力し、隣国との友好関係を模索して、一度は廃した古い伝統も受け継ぎながら、新しいジェレニアを作っていく。

 どれもこれも、国を安定させるには必要なことだ。わかっている。

 わかっている、けれど。


「……俺は」


 グラスを置いて、顔を伏せる。

 ぽつり、と、言葉が溢れた。今更に、ずいぶん遠くまで来てしまったのだなと思った。


「俺は、……あんたを、こんなふうにしたかったわけじゃなかったんだけどな……」


 これは、なんの寂寥だろう。

 ルグレアには、ずっと、好きなように生きて欲しかった。欲しいものはぜんぶ手に入れて、やりたいことをやって、ひたすらに自由であって欲しかった。だから国だって手に入れさせてあげた。『大陸統一』なんて夢物語だって、実現させてあげたかった。

 どんな願いだって、ジャフィーなら、叶えてあげられるはずだった。

 けれどもその果てに辿り着いた玉座は、どうにも『好きなように』からも『自由』からもかけ離れて見える。


「こんなふう、って、……なんだよ、いきなり。昔の夢? だのを見たせいか?」


 ルグレアの問いに、少し考える。先程の夢──寂寥を抱くということは、まさかあの血腥い、否、血腥い以上の戦場に、戻りたいということだろうか? そんなわけがない、と思う自分と、それでもいい、と思う自分が同時に存在する。

 それでもいい。

 どれだけ人を殺したっていい。どれだけ悲惨な戦場だっていい。──それが、ルグレアの『真の望み』なら。


「そうかな。そうかも。……なんか、あんたがさ、毎日朝起きて、ちゃんとした格好して、夜まで真面目に働いて、とかやってるのがさあ……」

「いや普通だろそれは……」

「ぜんぜん普通じゃないよ、だってあんた昔はさあ、書類なんて読むのも嫌でさあ!」

「毎日やってりゃ嫌でも慣れるだろ」

「ほら嫌って言った!」

「いやだからそれは言葉の綾で」

「ていうかさ、王様ってさ、別にそういうこと毎日やらなくてもいいんじゃないの? 前のやつはやってなかったでしょ?」


 少なくともジャフィーの知っている王様の普通とは違うし、貴族とも違うし、つまり偉い人全般からかけ離れている。まあその『何もしていなかった』偉い人たちは、ジャフィー達でみんな殺したわけだが。ジャフィーの真意を掴みかねるみたいに、ルグレアが軽く首をひねる。


「いやだから、やってなかったから殺したんだろ? 俺等が」

「正論……!」

「あー、それとも……もしかして、構えって言ってるか?」

「言ってねー!!!」


 そのまま頭を撫でてくるので、ジャフィーは慌ててその手を払った。言ってないし伝わらない。ジャフィーはもどかしい思いで、別のほうから攻めてみることにする。


「じゃあ……ああ、そうだ、あんた、身体鈍ってない? 最近剣握ってる?」

「いやだから、なんなんだよ。俺の身体は、お前が一番よく見てるはずだろ?」


 別に昔から変わってないだろ、と言われれば、たしかに見た目には衰えは感じられないなと思う。けれども、あれだけ忙しそうにしていて、更に鍛錬も欠かせていないと言われると、まさしく不自由な生活じゃないか、と更に不満が募った。


「ほんとだ……。おかしいよ、贅肉ないとか」

「いや理不尽だなおい……」

「理不尽じゃないよ。ちゃんと贅沢してる? 王様らしく?」

「さっきから、王のイメージが先例に影響されすぎてねえ?」

「てか最近酒も飲んでなくない? 俺と飲んでないだけ?」


 後宮に届けられる食事はあたりまえに上等なものだが、そういえば、ルグレアがいるときも酒類が出されたことはないなと今更思った。妊娠を目的としている以上、ジャフィーが飲まないのは当然としてもだ。


「飲んだら勃たねえだろ」

「はい嘘」


 ザルとまではいかないが、普通に強いことは知っている。


「あー……なんだ、ほら、飲まない方がいいって言うだろ。孕んでたら」

「アンタは別にいいでしょ、飲んでも」

「でも、お前は飲まないだろ。それじゃああんまりな」


 酒をただ飲みたいわけではなく一緒に飲みたい、というのは、普通に言われて嬉しい台詞だ。ジャフィーは「ぐう」と呻いて一瞬沈黙し、それからまた気力を振り絞って口を開いた。


「……あ、あと、……そうだ! 最近、遠征どころか視察も全然してなくない? どこにも行ってないってことじゃん!」

「いやそれは……そんな嘆くようなことか……?」

「嘆くようなことでしょ! 遊びに行ってないってことなんだから」

「……あー、お前にとって『遠征』は『旅行』なんだったな……好きだもんな旅行……」

「好きだけど……え、あんたにとっては違うの?」

「……それはまあ……、違わなかったか」


 ふ、と。


「……違わなかったな」


 と、過去形にしてルグレアは笑った。しみじみと、なんだかひどく楽しそうに、懐かしむみたいに。それがジャフィーには嫌だった。

 懐かしいということは、もう、今はないものだということだ。

 ルグレアは寝台に座り直して、転がるジャフィーを見下ろした。まだ剣ダコはある指先が、寝台に落ちるジャフィーの長い髪を優しく掬う。


「……、……お前は」


 応酬はいつもの軽口だったはずなのに、ルグレアの声は、いつの間にか湿度を持っていた。懺悔と言うほど重くはないが。


「不満なんだろうな。……そりゃそうか」

「不満、」


 なんだろうか。

 いや、不満は不満だ。けれども、ルグレアに申し訳ながられたいわけでは全くなくって、ジャフィーはルグレアの指の動きを見ながら言葉を探す。


「……不満っていうか、……あんたが、ほんとに、それでいいのかなって……」


 ルグレアがもう夢みたいなことを言わないのが、『諦めた』ということなら、それは嫌だ。言ってしまえばそれだけなのだ。

 ずっと一緒に、馬鹿な話をして、手を叩いて笑っていたいのに。


「……なんだ? つまり、心配してくれてるってことか」

「心配……してるのかな……そうかも……?」

「そりゃ嬉しいね」


 ルグレアが、まるで信じていない声でくつくつ笑う。


「つっても、俺は、王様稼業が向いてたと思ってるよ。自分では。やりたくないことなんてなんもねえ……とまでは流石に言わねえけどな。……無理して見えるか?」

「見えるよ! ……、……ううん、」


 反射で顔を上げ頷いてから、ジャフィーはきゅっと唇を噛んだ。理性は、思考は、真逆のことを言っていた。


「……見えない」


 そう──無理してなんて、見えないのだ、少しも。

 本人が『向いてた』と言うとおり、ルグレアは、立派すぎるぐらい立派な王様なのだった。剣働きは彼の能力のごく一部に過ぎず、為政者として必要な知識と判断力、そして十分すぎるぐらいの勤勉さがルグレアには備わっていた。王は彼の適職であり、彼を王に戴くことができた国民は明らかに幸運である、と、国内の誰もがそう思うほどに。

 だから、ジャフィーはやっぱり、ルグレアを、心配なんてしていないのだった。口ではそう聞こえることを言っているだけで。ジャフィーはいつだって自分のことばかりなのだ。そんなのいつもの、当たり前のことなのに、ジャフィーははじめて反省のような感情を抱いた。


「見えない、から。……そうだね、だからこれは、俺が、無理してるって思いたいだけなんだ。こんなの、ほんとのあんたじゃないんだ、って。あんたが『ほんとになりたかったもの』は、こんなものじゃなかったんじゃないか、って……」


 ルグレアの願いを、叶え続けてきたつもりだった。彼の道を阻むものをすべて排除して、辿り着いた先が玉座だった。

 ルグレアが『大陸統一』を望まないなら、もう、全ての願いは叶ってしまった?


「『ほんとになりたかったもの』ねえ。ほんとの俺がなんだかはわからんが、俺はまあ、今の自分に満足してるよ。……こんな俺のそばには居られないか?」

「それを決めるのは、俺じゃないよ。あんたが俺に命じるかどうかだ」


 ルグレアは、ジャフィーにここにいろと言った。魔術師のジャフィーではなく、後宮に侍るジャフィーに。


「……ねえ、ルグレア」


 身体を起こし、ルグレアの目を見て、ジャフィーは尋ねる。

 これでいいの?



「欲しいものは、もう、ないの?」



 ルグレアの願いを叶えたかった。

 ただ、ただ、それだけがジャフィーの望みだった。

 優先順位はいつの間にか逆転し、利害の一致は、気づかぬうちに成り立たなくなっていた。自分が楽しいことより、ルグレアが笑ってくれることが、ただそれだけが大切になっていた。いつのまにか。どうしてか。


(違う。──どうしてか、じゃない)


 だからこれが、最後の確認だった。魔術師のジャフィーと、ここにいる、ルグレアに愛されているジャフィーとの。


「……欲しいもの、か」


 ルグレアの手から、ジャフィーの髪がするりと落ちる。ルグレアはちらりとそれを見下ろし、なんだか困ったみたいに笑う。


「ないわけじゃねえが、お前の魔術に助けてもらうようなもんじゃないからなあ」

「大陸統一は?」

「もう戦はしねえっつったろ」

「……子どもは?」

「いらなくはねえよ、お前とのなら。……でもまあ、できないならできないでいい。跡継なんかどうにでもなるし、種がないのは俺の方って可能性もある」

「わかんないよそれは、他の人と」


 やってみないと。言葉は指で抑えられ、そのまま流れるように口付けられて、ジャフィーは思わず眉を寄せた。


「……もう、やめてよそれ。嫌いになりそう」


 誤魔化すための口づけが嫌なのは、ジャフィーの意見が軽んじられていると思うからか、口づけが軽んじられていると思うからか、どちらだろう。それとももしかしたら、両方だろうか。どちらにせよ『ジャフィーが』軽んじられていることに代わりはなくて、だからジャフィーはルグレアを睨む。


「俺が?」

「……キスが」

「どっちも困るな」


 ごくごく軽い調子で、ルグレアが笑う。

 誤魔化されているとわかるのに、どうしてジャフィーは、かつてのような衝撃を受けなかった。ひどいと詰る気も起こらなかった。

 欲しいものはもうなくて、戦をするつもりもなくて、子どももいらなくて──それなのにジャフィーがここにいる理由は、やっぱり、たったひとつしかありえなかった。


「……もう寝ろ」


 ルグレアの大きな手がジャフィーの頭を撫でながら寝台に沈める。優しい声で、優しい手だ。

 可愛い我儘を言う情婦を、甘やかすみたいに。

 『みたいに』じゃない。ルグレアにとってのジャフィーはもう、いつからかわからないけれど、とっくにそういう存在だった。

 愛されている。



 ジャフィーは、ルグレアに愛されている。



 一致している、と、ジャフィーは思った。

 ルグレアの側にいれば得られる刺激が欲しかったはずのジャフィーは、いつの間にか、ただルグレアが喜ぶことを目的とするようになっていた。魔術師としてのジャフィーを必要としていたはずのルグレアは、今はもう、ただのジャフィーを『愛している』という。

 ルグレアにとってのジャフィーの立ち位置が変わり、ジャフィーがルグレアに求めるものも変わって、おそらく両者は一致している。だから変わりなく一緒にいられる。これからもずっと。ふたりきりで。

 ルグレアが笑ってくれることが大切で、ただ、彼の願いを叶えたかった。


(そんなの)


 なんで、今の今まで、気づかないでいられたのだろう。ルグレアのことが、ずっと、誰より特別だったのに。



(愛してる、って、ことだろ。俺も)



 最後の問いだった。答えは得られた。

 ルグレアと並び立つジャフィーではなく、ここにいるジャフィーをルグレアは望むと言った。ついこの間までのジャフィーだったら、そんなの絶対に御免だと言って、逃げ出したかもしれないけれど──今のジャフィーは、それが、ルグレアが、ジャフィーを愛しているということなのなら──それでルグレアに必要とされ続けることができるなら、ルグレアのそばに居つづけられるのならそれでいい、と、そういうふうに、思ってしまう。


 いつの間にかそうなっていたのだ、と、少し苦しく、ジャフィーは思った。



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