第7話 夢のほころび
桃ナギはカフェを出た後、港の方へと足を向けた。穏やかな潮風が頬を撫でるが、その感触さえ不確かに揺らめいている気がする。港町は相変わらず寂れているが、今日は何やら奇妙な気配が漂っていた。まばらだった人影が、いつの間にか数を増している。いや、人と呼べるのかも曖昧だ。半透明な肢体をもつ者、獣耳を揺らす者、影法師のように背丈を変える者が混じり合い、ざわめき立っている。
その中心には、エフェメリカ公女がいた。空に浮かぶかのような優雅な身振りで、彼女は長衣の裾を翻す。貴婦人の礼儀作法に似ているが、そこに獣的な違和感が混じり、どこか滑稽な舞踏となっている。彼女の周囲では、意味不明な専門用語が笑い声のように飛び交い、奇天烈なキャラクターたちがねじれた調子で手を叩いている。
「公女……これは一体?」桃ナギが近づくと、公女は振り向き、透けるような微笑を向けた。
「ようこそ、桃ナギ様。今夜は舞踏会。世界のほころびを祝して、皆で狂乱を楽しむの。」
「祝す、ですって? ほころびを?」
「ええ、この島は他人の夢で織られた布。ほころびこそが、新たな光と意味不明な刺激を生むわ。巨人ヨルダマリは、その布の深層で微睡む大きな結び目。あなたが討伐すれば、あるいはほどけば、布はさらに複雑に、あるいは単純に編み直されるかもしれない。」
公女が踊るたび、空気が波打つ。港の建物が傾き、看板が逆さに吊り下がり、タイル敷きの道がぷくりと膨らむ。まるで現実が柔らかいゴムの膜でできていて、衝撃で歪んでいるようだ。桃ナギは足元が不安定になるのを感じ、ふらつきながら周囲を見回した。
笑い声が反響し、奇妙な言葉が踊る。「ゲトロジウム!」「ニュラ・ステーション!」「マニロース管が逆回転!」誰かが叫ぶたびに、町の輪郭がかすれ、建物が空に浮き上がるような幻影が見えた。まるでねじの狂った世界に踏み込んだようだ。論理も秩序も崩れ、夢の断片がさらけ出されている。
「哲学の犬はどこ?」桃ナギは混乱の中、問いかける。
すると、犬の声が頭上から降ってくる。「ここにいるよ、いや、いないかもしれない。君はどこに立っている? 質問は答えに溺れ、答えは質問に染み出す。」
見上げると、犬は屋根の上で逆立ちするようなポーズでこちらを見下ろしていた。尻尾は風になびき、尻尾の先が文字のような形を描いている。読めない文字、意味不明な記号……けれど、その奇天烈さに、不思議と桃ナギは怖さを感じない。むしろ、世界が溶け、問いと答えが混ざり合う状態は、どこか静かな受容を促している。
「公女……あなたは私に巨人を探せと言ったわね。」
「ええ、そうよ。それがあなたの任務。けれど任務はただの言葉。あなたが求めるのは、本当に巨人なの? それともあなた自身? あるいは、失われた何か?」
公女はひょいと宙を跳ね、まるで重力が半減したように身を翻す。「ここでは言葉が意味を失い、意味が言葉を喪う。私たちは他人の夢の中で踊る人形、あなたも、私も、哲学の犬も、クル・ルタルも。」
クル・ルタルの旋律が遠くから微かに響く。歪んだ和音が町を満たし、舗道に描かれた亀裂は淡い光を漏らしている。桃ナギは足元を見つめ、ひび割れの向こうに流れる奇妙な液体光を覗き込む。まるで島の下層に別の世界が重なっているかのようだ。
「ほころび……それは不安定な状態。でも、不安定さがなければ、この島はただの無味乾燥な現実かもしれない。」桃ナギは独り言のようにつぶやく。
哲学の犬が屋根からヒョイと飛び降り、彼女の足元に来る。「不安定であることは、可能性があること。巨人ヨルダマリは、可能性の塊かもしれない。君は問うてばかりだが、答えはもう目の前に散らばっているかもしれないよ。」
公女は優雅に頭を垂れ、奇天烈な客人たちは手を打ち鳴らす。舞踏会は狂乱のまま続くが、桃ナギはふと、内側で微かな変化を感じる。問いが解かれるわけではないのに、心がほんの少し柔らかくなる。まるでこの混乱自体が、彼女を別の段階へと押し上げているようだ。
「私は巨人を、いや、私自身を確かめるために先へ進むわ。」桃ナギはそう決意する。公女は笑みを深め、「あなたが求めるなら、巨人は必ずその足下にあるわ」と謎めいて答える。
クル・ルタルの音が跳ね、粘菌使いの胞子が風に舞い、博士の専門用語が闇に消える。哲学の犬は静かに笑い、小さな尻尾を揺らす。
突然、地鳴りのような低音が響く。町が再び揺れ、建物の影がぼんやりと形を変える。桃ナギは顔を上げ、遠くに微かに揺らめく巨大な影があるような気がした。巨人ヨルダマリ。それはまだ遠いが、確かに気配を持って、この世界のどこかに存在する。
舞踏会は頂点を迎え、ほころびはさらに広がる。記号と意味、夢と現実が混ざり合い、桃ナギはその渦中で静かな理解に達しつつある。答えなど存在しないかもしれない。でも、存在しない答えが彼女を導く。空中で揺れる公女の笑みは、祝福にも見えた。
桃ナギは港から離れ、再び森へと向かう。島のほころびは深まり、夢と詩が境界を失う。彼女が歩む足元で、土地は微かな調べを刻み、不可解な未来を孕み続けている。
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