第6話 カフェマスターと内省
森を抜けると、景色はゆるやかに港町へと戻っていた。とはいえ、同じ町かどうかも怪しい。先ほどまで見かけなかった蔓草が石畳にからみつき、いつから存在したのか分からない木製の小屋が港近くに据えられている。桃ナギはそこを通り抜け、カフェへと足を運んだ。
カフェマスターの店は相変わらず南国植物に縁どられ、木漏れ日のようなランプが静かに灯っている。ドアを開けると、甘い香りが鼻孔をくすぐり、彼女は微かに安堵を覚えた。ここはまだ、あの不条理な島の中で唯一、少しだけ拠り所になりうる場所だ。
「おかえり、桃ナギさん。」
カウンターの向こうで、マスターは微笑む。白いシャツの袖をまくり、相変わらず詩行を紡ぐようにカカオをすくう。その動作を見ていると、桃ナギは不思議と心が静まる気がした。
「ココアをお願い。」彼女は短く告げる。
「もちろん。」
マスターがココアを淹れている間、桃ナギは自分がこれまで見てきた光景を反芻する。巨人を探せという公女の依頼、奇妙な楽士クル・ルタルが奏でた旋律、地下に潜む博士と意味不明な専門用語、粘菌使いが紡ぐ森の織物……どれもが曖昧で、固まらない。だが、この曖昧さの中に、ふと懐かしさのようなものを感じ始めている自分に気づく。
ココアを受け取り、スプーンでゆっくりと撹拌すると、湯気が揺らめく。その湯気を見つめていると、彼女は問いを口に出したくなった。
「マスター、この島は何なの?」
「さあね。僕も知らないんだ。」マスターは肩をすくめる。「だけど、詩を作る時と同じで、必ずしも意味や筋道が必要なわけではない。君はここでココアを飲み、森や地下を彷徨い、巨人なるものを探している。すべては不可解な詩みたいなものじゃないかな。」
「でも、私は巨人を『討伐』するように言われている。それは何を意味するの?」
「討伐が本当に『倒す』ことを意味するとは限らない。君が巨人と対峙して、触れるだけで、あるいは見つめるだけで何かが変わるのかもしれない。」マスターはココアカップを覗き込んだ。「熱いココアは、時間が経てば冷めていく。その変化は自然なことで、良いとも悪いとも言えない。巨人との遭遇もそういう類のものかもしれない。」
桃ナギは唇を結ぶ。自分は何を探してここへ来たのか。何を失ったのか。思い出せないまま、この島をさまよっている。しかし、さまよいながら、彼女は孤独を感じながらも、どこかでこの不条理な状況を受け入れはじめている。
「哲学の犬が、問いは光が漏れるほころびだと言っていた。犬の言葉も、意味があるんだかないんだか……」
マスターは小さく笑う。「犬は哲学を娯楽にしてるんだろう。ここでは不条理なものが日常を編んでいる。理屈は通じない。でも、それをただ見つめ、感じることで、君自身が浮かび上がるかもしれない。」
「私自身……」桃ナギはカップを両手で包む。自分自身が、ここで何者として存在しているのか。それは巨大な謎だ。だが、ココアの熱さが掌に伝わり、肩の力が少し抜けていくのを感じる。
「あの公女は、私が何かを失っていることを知っている気がする。粘菌使いは私の記憶を示唆し、博士は意味不明な装置をいじるばかり。巨人ヨルダマリという名を通して、私の内側を見せようとしているのかもしれないわね。」
「あるいは、君がそう感じたいだけかもしれない。」マスターは優しく言う。「けれど、感じることは大事だ。詩は意味の断片を並べて人の心を揺らす。島は詩に似てる。意味不明な符号が散乱し、君はその中を泳ぐことで、自分を少しずつ浮かび上がらせていく。」
桃ナギは微笑む。確かに、この島には明確なストーリーラインも論理もない。けれど、彼女は足を止めるわけにはいかない。混沌の中に漂い続け、やがて何かを掴むかもしれない。その「何か」は言語化できないかもしれないが、存在するはずだ。
「ありがとう。」彼女はマスターに礼を言い、ココアを飲み干す。甘くて温かい液体が喉を潤し、遠い記憶を呼び起こすかのように胸の奥で揺らめいた。
マスターはカウンターを拭きながら、ふと窓の外を見やる。「公女が港で何やら動きを見せているらしい。舞踏会でも開くつもりか、それとも奇妙な宣言でもするのか……君が行ってみるといい。」
港へ戻るか、森へ戻るか、地下へ降りるか、どこへ行ってもまともな答えはないかもしれない。だが、桃ナギは立ち上がる。内省を経て、わずかに心が軽くなった気がした。
店を出ると、外の空気は淡い青色を帯び、風が花粉を散らしている。遠くの港には、ちらちらと人影が動くのが見えた。
「行ってみるわ。」彼女は呟く。問いの答えは分からないが、問い続けること自体が、彼女の在り方を形作り始めている気がした。
カフェマスターは店内で微笑み、哲学の犬はどこかで欠伸をしているだろう。粘菌使いは森で胞子を漂わせ、クル・ルタルは奇妙な旋律を風に乗せている。
桃ナギは、詩の行間を読むように、この島を歩く。内省を得て、ほんの少しだけ、次の一歩が軽くなった。
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