第8話 公女の正体

 狂乱の舞踏会から離れ、桃ナギは再び島の小径を辿る。道は揺らめいているかのようで、昨日と同じ場所を歩いているはずなのに、風景はどこか違う。建物はわずかに傾き、路地の角度が少し変わったように感じる。色あせた看板の文字は滲み、意味を失っていく。


 朝なのか夕方なのか、時間の感覚さえ曖昧だ。光は淡く、空気は薄く甘い。桃ナギは遠くで聞こえるクル・ルタルの旋律に耳を澄ましながら歩く。その音は空のどこかで反響し、意味をなさない符号を紡ぎ出している。


 ふと、路地裏の角からエフェメリカ公女がぬっと現れた。先ほどの舞踏会で騒ぎ立てていた姿とは打って変わり、今は静かな佇まい。衣の裾はきちんと畳まれ、尻尾を垂らし、頭の獣耳はぴくりとも動かない。


「公女……?」桃ナギは問いかける。

「ええ、私よ。」公女は微笑する。その笑顔は、先ほどの軽薄な狂騒からは想像できないほど落ち着いている。「先ほどは騒がしくてごめんなさいね。ほころびを祝うには、ああいった混沌が必要だった。」


「あなたは私をここへ導いているの? それとも島があなたを動かしているの?」桃ナギは問いを投げる。

「どちらでもあり、どちらでもない。私は媒介に過ぎない。」公女は頭上に片手を掲げ、そっと虚空を撫でる。「私はね、この島に潜む、あるいはこの島を形作る『他人の夢』を運ぶ存在なの。ケモノの耳や尾は、その異質さを示す記号のようなもの。私自身は、何者でもなく、いくつもの層を通して現れた仮面と言えるわ。」


「仮面……。」桃ナギは息をつく。「巨人ヨルダマリを討伐せよと命じたのも、あなたなのに。」

 公女はうっすらと笑う。「そう、けれどあれは言葉の戯れ。『討伐』という言葉が、君を旅へと駆り立てた。それが重要だった。実際に巨人を殺す必要があるとは限らないわ。言葉は足掛かり、誘い水。君がこの島を巡るための装置に過ぎないの。」


 桃ナギは困惑と苛立ちの入り混じった感情を覚える。「なら、私はまるであなたの手のひらで踊らされているようなものじゃない。」

「踊っているのは、君だけでなく私も。」公女は肩をすくめる。「君がいなければ、私の存在も浮かび上がらない。私もまた他人の夢の一部、巨人ヨルダマリと同じように、君が何かを探す行為で、私自身が引きずり出されている。」


 遠くで哲学の犬がくしゃみをしたような気配がする。風が一瞬ざわめき、森の方向から粘菌使いの胞子が舞い上がる。クル・ルタルの旋律が微かに音程を外し、道が一寸だけ傾く。すべてが微妙なバランスで成り立った詩的空間で、桃ナギは公女の瞳を凝視する。


「あなたは何のために存在するの?」

 公女は微笑んだまま答える。「私には始まりも終わりもない。名付けと忘却を繰り返すことで、何度も姿を変える。私は君が忘れた何か、あるいは君が求める何かを、比喩的に示す存在かもしれない。つまり、私は君自身の一部でもあるわ。」


 桃ナギは思い出そうとする。自分は何を失い、この島に来たのか。記憶は霞み、核心には辿りつけない。それでも、何かが心の片隅で熱を帯びている気がした。

「巨人ヨルダマリは、私の忘れた記憶、あるいは心の塊なの?」

「かもしれないわね。」公女は曖昧に応じる。「この島は他人の夢だけれど、君がここにいるなら、それは君の内面ともつながっている。巨人は時間や記憶、感情が凝縮された存在。君がそれに触れることで、自分が何を求めていたか理解するかもしれない。」


 桃ナギは静かに頷く。「あなたは私を騙しているわけでも、真実を語っているわけでもない。ただ、示唆的な言葉で導いているだけ……」

「その通り。私は世界に差し込まれた一枚の鏡の破片みたいなもの。」公女は踵を返し、また別の路地へと溶け込む。「さあ、君は引き続き進むしかない。巨人は眠り続けている。君がいつそこへ辿り着くかは分からないけれど、近づいていることだけは確かよ。」


 遠ざかる公女の足音は、路地の先でふっと消えた。桃ナギは一人取り残され、港の淡い光に包まれる。言葉は曖昧で、結論は出ないが、彼女は一歩ずつ前に進むしかない。


 島にはまだクル・ルタルの旋律、哲学の犬のパラドックス、粘菌使いの森林世界、博士の専門用語がある。どれも答えにならないが、それでいてすべてが小さな道標だ。ここは詩的で曖昧な迷宮。

 桃ナギは再び歩き出す。公女が仮面であるなら、その背後にある素顔もまた、彼女自身が解き明かさなければならない。


 巨人はまだ姿を見せない。けれど、街角の影、風の音、割れ目から漏れる光、そのすべてが巨人への序曲のように感じられた。彼女はゆっくりと、けれど確実に、島の更なる深みへ向かう。

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