月と礫

横浜ひびき

月と礫

「島本君はお酒飲めないもんね」

カウンター席の隣に座る女性は上品に装丁されたメニュー表を見ながら、艶やかに声をかけてくれた。

「先輩が知っての通り、僕は下戸なんで」

「なんで若干、緊張してるのよ」

不自然に唇でまごついた僕の声に、隣の楓先輩は陽気な笑顔を見せながら脇腹を軽く突いてくる。

「いやぁ.......。あまりこういうお店来たことなくて......」

アンティーク調にあしらわれた内装に調光の低い照明、眼前のカウンターには異国情緒溢れた洋酒のボトル。映画で見るような大人の世界には、静かで厳かな時間が流れていた。キョロキョロと行儀悪く周囲を見渡せば、身なりの良い30代前後のカップルや白髪混じりのサラリーマンがめいめいの時間を楽しんでいる。

こんなにもお洒落で本格的なBarに、齢21の下戸が訪れる機会などまずなかった。

「君なら彼女とこういう場所ぐらい来たことありそうだけどね?」

「生憎、島本肇は大学1年生の時に別れて以来、彼女が居ないので。非常に残念ながら、彼女とこういう場所には来たことがないんですよ」

「ふぅ〜〜ん。そうなんだ」

先輩はどこか満足気に、澄ました笑顔を向けてくる。若干コケにされた気がしないでもなかったが、先輩のどこかミステリアスな微笑みが見れただけでも今夜は付き合った甲斐があった。

「そしたら....」

楓は細く透き通った中指を軽く折って自らの顎にピトりと付け、メニューを物色しては

「ソフトドリンクもあるけど、折角ならモクテルにしたら?その方が雰囲気も楽しめるんじゃない?」

と、その指をゆっくりとメニュー表にまで降ろして、本人の勧めるモクテルの欄をそっと指差した。

「モクテルって僕でも飲めますかね?」

「もちろん。モクテルはカクテルを模したソフトドリンクだから、アルコールは入ってないよ」

「へぇ〜〜。世の中そんなオシャレな飲み物があるんですね、初めて知りましたよ」

「まだまだメジャーじゃないと思うけどね。私もこういうオーセンティックな雰囲気のバーにあるとは思ってもみなかったし」

せっかく先輩に勧めてもらった手前、この提案を却下する理由は特になかった。

ただ.......

「先輩のおすすめってどれかありますか?」

モヒート、シンデレラ、バージンブリーズ、シャーリーテンプル.......

お酒と縁もゆかりもない人生を歩んできた僕には、これらハイカラな名前だけでモクテルの味を検討することなど到底無理な話であった。

「うーん、この中だとシャーリーテンプルがいいんじゃない。ザクロの甘さと香り、ジンジャエールの爽やかさがあって、全体的にバランスがいいから人を選ばないかな?」

僕のヘルプを察した先輩は、教鞭を取る先生のようにつらつらと要点だけを教えてくれた。

「そしたら、折角なのでシャーリーテンプルにします」

「うん、それがいいと思う」

こくりと楓が軽く頷いて、彼女はつつがなくオーダーを始める。

それを側から見る僕の目には、バーテンダーと会話をする先輩の姿がドラマや映画のワンシーンのように華麗で情緒的に映った。それはこの瞬間を切り取って、額に入れて飾ってしまいたいと思わせるほどに。

一通りのオーダーを終えた楓は、改まった口調で

「わざわざ付き合ってくれてありがとうね」

と、その柔和で魅惑的な赤い唇を柔らかく動かして感謝を口にした。

「いえいえ。むしろ先輩とこういう場に来れて嬉しいんで」

「何その言い方。なんか邪なこと考えているでしょ?」

楓は崩れた笑顔で問いかけてくる。

「別にそんなことないっすよ」

「ホント?」

「嘘です」

「ほらやっぱり」

天下の山﨑楓と逢瀬のような一時を過ごせるなら邪な妄想の一つや二つ、考えない方が無理な話だ。ハイウエストで身につけた黒のチュールスカートにふんわりとした印象が可愛らしい七分袖の白いニット。大人の女性を体現するコーディネートは、細身で腰位置の高い先輩のためだけに誂えられたように思えてならない。

例えるなら、マンハッタンに住むアメリカンショートヘアと表したくなる容貌だ。

「肇は良い子だから誘ったんだけど。なんか幻滅だなぁ」

そんな楓は、玩具で遊ぶ猫のように肇を手の上で肇を思うがままに転がして蠱惑こわく的な微笑みを浮かべでいる。

「そんなこと言うなら、2次会行ってくればよかったじゃないですか」

「それはいや。どうせ3次会のカラオケで夜明けまで付き合う羽目になるんだから。時間とお金が勿体無い」

かと思えば、辟易とした表情で歯に衣着せずに悪態を吐く先輩には、流石の僕も乾いた笑い声で合わせるしかなかった。

そもそも僕達はついさっきまで研究室の飲み会に参加していた。

と言っても、その麗人ぶりと愛想の良さから傾国の美女サークルクラッシャーと事実無根の実に不名誉な異名を付けられている楓を囲う席は常に満席であり、先輩と話す機会など終始無かった。6時過ぎから始まった一次会が9時のちょっと前でお開きとなり、希望者という名のほぼ全員が参加する二次会に行くお決まりの流れの中、僕は下戸を理由に早々と帰路につくことにした。

が、二次会に参加したと思っていた楓と一次会の最寄り駅で偶然にも遭遇し、

『物足りないから少し付き合って』

と直々に二次会のお誘いを受けたのだ。

そして幸か不幸か電車に揺られ、肇が一人暮らしをする学生マンションの最寄り駅から徒歩十分程度歩いた先にある地下一階の隠れ家的Barを訪ねて今に至る。

「それこそ島本君は二次会に行かなかったの?秋本くんや幸田くんとかは二次会行ってるんでしょ?」

先輩の言う秋本や幸田は研究室の同期で、先の一次会でも結局最後まで話していた男友達のことだ。

「あいつらは2次会行きましたよ。なんで、僕も二次会行ってもよかったんですけど....。どうせ、最後まで面倒を見ることになるって考えたら色々と面倒で……。結局、前回の飲み会も最後あの二人を僕の家に押し込む羽目になったんですからね」

「そうだった、そうだった。結局さ、お酒と上手く付き合えている人に介抱のお鉢がまわってくるよね。ほんと世の中って理不尽」

二人の話し振りは正に、経験者は語るのソレだった。

「楓先輩はそういう経験少なさそうですけどね?」

「普通にいっぱいあるよ。島本君なら知ってるだろうけど、私お酒好きだし強いのもあるから、人並み以上には飲み会には参加してるからさぁ。それで毎回、私が潰れた女子の面倒を見てるんだもん。それは百歩譲ってまだいいのよ。でも、潰れた本人は酔って記憶がないから、毎回同じ失敗するのよ?この前の女子会だって……」

溜まりに溜まった楓の鬱憤は音を立て、既に口から溢れ出ていた。

「先輩……お疲れ様です…」

「でしょ、でしょ。だから二次会はあまり気乗りしないのよ。その子いるし」

それ、うちの研究室の話だったんか......

こんな感じで僕は先輩とのたわいもないやりとりを楽しんでいるも、脳裏では一抹の疑問と対峙していた。それは、僕のような大学生Aなら思ってしまうこと。

ー先輩はどうして僕を誘ってくれたのかー

について。

楓と僕は研究室の先輩後輩の前に、文芸部の先輩後輩という間柄。3年も同じ部活で活動してきたから飲み会の数なら両手以上だし、某テーマパークとか合宿だって何回も行ってきた。だから、研究室の室員より幾分気心の知れた仲だと自負してるし、僕と先輩の関係ならまず事故なんて起きない。

なので、お手頃でクリーンな相手だと思って僕を2軒目に誘ったというのが、関の山だと九分九厘思っている。

ただ、出会ってから僕を誘うまでのスピード感や決め打ちで提案されたこのBarとか、色々と都合が良すぎたことが十分にならない理由にあった。

もしこれを側から見る人がいれば『そんなこと直接本人に聞けば直ぐ解決する話だろ』と思うだろけど、どうせ真正面から先輩に切り込んだところでまともに教えてくれない。

それは僕の経験則が確かに物語っていた。

肇が密かにさして重要でもない疑問に悩まされていれば、頃合いよくカクテルの提供がはじまった。

最初に運ばれたのは鮮烈な紅に身を染めたシャーリーテンプル。砂上の大海原で一人挑発的に舞い踊るベリーダンサーのように、それは毒々しも魅惑的な雰囲気を纏ったカクテルだった。

僅かに遅れてもう一つ。

今度は鮮やかなオレンジ色にピンクのエッセンスを数滴垂らしたどこか優しさが滲み出るチェリーブロッサム。黄昏の空に映る爛漫と咲いた桜並木を歩く恋する乙女に似合うカクテルだ。

両者共に情緒的で物語性を感じさせ、さながら板上の名俳優の風格と威厳があった。

役者が揃ったことを見計らい、楓は自身のチェリーブロッサムを目線まで上げて乾杯のポーズを取った。それに遅れないよう、肇も慣れない手つきでグラスを持てば、楓は『よろしい』と示すように口角を少し上げた。

「それじゃあ、乾杯」

「乾杯」

誰も知りえない二人だけの時間がこうして始まった。



僕はどちらかと言えば群れ生きるタイプの人間だ。基本誰かと一緒に過ごしている方が好きだし、一人で行動するのは精々雑貨を買う時か図書館に行く時ぐらいだ。だから、一人でカウンターに座っていると孤独に耐えられないかと思っていたが、身体を暖かく撫でるように流れていく時間が存外心地よかった。

朗らかな顔で滔々と流れる時間に身を委ねる肇には、初な緊張の残り香は香っていなかった。肇は追加で頼んだサラトガクーラーをちょぴりっと口へ運び、凛とした佇まいで主人を待つカクテルグラスをぼんやりと眺める。当の本人は席を離れているが、肇には楓の仕草に声、香りと楓を構成する全てが幻想として、今も目の前にいるように感じられていた。

そんな尊い時間に浸っていたとしても、小刻みの振動があれば肇は無意識にポケットからスマホを取り出してしまう。確認すると、二次会に参加した秋本からの連絡だった。内容は幸田と研究室の同期である春日井が互いに泥酔しながら熱く抱擁している写真に

『ラブラブカップル爆誕❤️』

の一言。肇は絵に描いた酔っ払いの痴態に呆れながらも、この乱痴気に混ざって一緒にバカをやりたい気持ちを否定はできなかった。

「誰と連絡してるの?」

不意に声を掛けられた肇の身体がビクっと跳ね上がる。

ふんわりと店内雰囲気に揺蕩う声の主人は、席を離れていた楓であった。

「秋本です。2次会は相当盛り上がってるみたいで、随分と楽しそうですよ」

と言って、早々に肇は電源を落としたスマホをポケットにしまった。

「ふぅぅ〜〜ん、私と飲むより楽しそうなんだぁ」

席に戻るや否や、先輩はカウンターに両ひじを軽く組んで置き、紅く艶めく口を尖らせてムスりとさせてから、僕の顔を覗き込むようにあざとい上目遣いでその大きな瞳をパチリパチリと幾度と瞬かせて訴えてくる。計算された表情と一目でわかっても、その天衣無縫ぶりに意図も容易く心が揺れ動いてしまった。

肇は言葉を選ぶような間を置いてから

「いやぁ、先輩......」

と楓に言い、

「ん?何?」

と楓は敢えて軽く挑発するような口調で応える。

僕の頭の中には、

『そんなこと思ってたら、最初から断ってますよ』

と、可もなく不可もなく至って無難な回答が既に用意されてあり、後はいつも通り適当に流すだけであった。

なのに.......

「先輩の口紅、超可愛いです。ホント大人の女性って感じがしてめっちゃ刺さってます」

ふと口から出たのは、先輩が戻ってきた時に感じた本音だった。

大人の雰囲気に当てられたから?

一次会で飲まされた酒が回ったから?

野郎共の写真を見た後で先輩の可愛さが天元突破したから?

きっと全部が原因だ。

「……待って、どうしていきなりそんなことを言うのよ。島本君ってそういう事言うタイプじゃなかったよね」

必死に笑いを抑えながらも、クスクスとお腹を抱えた楓は抱腹絶倒の一歩手前。気の利いたセリフなど滅多に口にしない後輩から脈絡も情緒もない褒め言葉を貰ったことが、楓にはどうもおもしろおかしかったみたいだ。

対する肇は自分の言動が全く理解できておらず、今も間抜けな顔で公園の鳩のように目をパチパチとしている。

「いやぁっ、そのっ、違うんですよ。いやっ、違わなくはないんですけど…。先輩の口紅が似合ってるなぁとは本当に思ってて。でも、別に変なこととか思ってたわけじゃなくてですね……」

やっと状況を理解した肇は、嘘を隠せない子どものように慌てふためきながらも必死に弁明を試みていた。

「わかってる、わかってるって。島本君が光源氏みたいな好色男じゃないことぐらい知ってるって。ただ、いきなりそんなこと言うから思わず面白くて、つい」

「ほんと似合ってますよ。先輩の口紅......」

身も心も羞恥に焼かれた肇が出す声はそれはそれはか弱くて、体裁も矜持も既に灰塵と化していた。

「ごめんって。つい笑いすぎちゃった。褒めてくれてありがとうね。でも、島本君がこうやってちゃんと私のこと褒めてくれるなんて今まであまりなかったよね?」

「もうほんと…やめてください......」

「やめてあげないよ?」

そう言う楓は少し戯けた表情を見せた。

「だって......」

「私のこと可愛いと思ってるんでしょ。なら肇の口から、ちゃんと言って欲しいもの」

身じろげばその柔らかい唇が耳に触れてしまう距離の中、楓は月光の下で淑やかに煌めく夜露のように艶めき湿った声でそっと囁いた。

楓の温かい両手でそっと掬い上げられた肇の心はその胸元でぎゅっと抱きしめられて、優しくも決して逃げることのできない高嶺に捕えられていた。

「ほら、肇。私に何か、言うことがあるんじゃない?」

頬杖をついて肇を見上げる楓は、馴染みあるいつもの声音で揶揄ってくる。

「////////」

肇は両手で目を覆って、声にならない声を出して恥ずかしさに身悶えていた。

「ねぇ、肇。あなたは私のこと、可愛いと思ってないの?」

楓は尚も追撃してくる。

「……可愛いです」

「小さくて聞こえないよ?。ほら、もう一回。もっとちゃんと大きな声で、私の目を見て言って」

もうどうにでもなれば良いと思いながら、僕は何とか先輩の瞳を捉えた。

「楓先輩は可愛いです」

腹の中から絞り出した声は、見事なまでにヤケクソだった。

「大変良くできました」

先輩は僕の返事に花丸を付けて、えらーいえらーいと頭を撫でるような口調で褒めてくれた。

もう死にたい………

「.......先輩」

「ん、なに?」

こちらを見る先輩はニンマリと恍惚な笑顔であった。

「もしかしなくても酔ってませんか?」

楓は2回瞬きをしてから、

「もしこれが酔ってなくて、素の私だとしたら?」

と質問を質問で返した。

肇の出方を伺う、如何にもあざといやり口。

「そしたら僕、本当に困りますよ?」

「どうして?」

「だって先輩とはこれまでの関係ではいられなくなっちゃいそうかだから」

肇は俯き、斜向かいに置いたグラスの氷が静かに溶けゆくのをただじっと見つめながら言葉を紡いでいった。

「私たち、互いに酔ってるかもね」

「そんな事ないですって。僕お酒飲んでないですもーー」

肇が体を前のめりにして楓に猛抗議を示し、その言葉にも自ずと力がこもっていた。

が、そんな勢いづく肇の額に、楓はその華奢な指をそっと当てて

「そんなこと、いつもの肇なら言わないよ?肇、酔ってるでしょ」

と一言で制止させて見せた。

歳の差は僅か一歳。

誕生月を考慮すればたったの7ヶ月の差。

なのに諭す楓は4歳も5歳も肇より年上で、品と余裕を兼ね備えたお姉さんそのものだった。

こうなるともう、肇は牙を抜かれた猛獣同然で、楓に柔順する他なかった。

「多分、先輩のカクテルで酔っ払ったのかもしれないです」

「カクテルってちゃんと度数あるもんね。肇ならしょうがないよ」

「.......先輩は酔ってなんですか?」

「肇の言う通り、私も酔っているのかも」

口調こそ酔った人特有のゆったりとした話し振りであるが、楓の表情はいつもの大人びた彼女そのものであり、その瞳もくっきりと肇を収めていた。

「きっと酔ってますよ」

「明日は朝イチで研究室があるんだけどねぇ」

翌日に授業があろうが、研究室があろうが、バイトがあろうがお構いなしに飲み会を挙行する。それが大学生という不思議な生き物だ。

「現実見せないでくださいよ。今を楽しみましょ、今を」

「肇はいいじゃない。だって、ここから歩いて十数分くらいで家なんでしょ?」

先輩の言う通り、Barのある商店街を真っ直ぐに進み、高架の最寄り駅を潜った向かい街に僕の住む学生マンションがある。

「多分歩いたら20分ちょいで着きますよ」

「羨ましいなぁ、私なんてここから電車で1時間半ぐらいかかるんだから。今の時点で寝れる時間考えたら、明日のことが億劫で仕方がないし。」

嘆息した後、楓はわずかに残っていたカクテルを静かに全て口へと運んでいった。

「もう一杯いただきます?」

「肇が最後まで私の面倒を見てくれるなら、最後まで楽しめるんだけどね?」

横に並ぶ二人の肩も、気づけば互いに触れ合っていると錯覚するほどに自然と近づいていた。美しい睫毛まつげはヒガンバナのように咲くのだと、初めて肇は知った。

「そしたら、今日はここでお開きにしません?多分、先輩の言う通り僕酔ってるんで。それにあまり夜遅くなると先輩の親御さんも心配しますし、下手したら先輩が帰れなくなっちゃうので」

肇は迷うことなくお開きを宣言した。

島本肇という人間は正しい倫理観と優しさを持つ良き成人であるが、それが時として諸刃の剣になることをまだ知らなかった。

「×××」

心地よい静けさに満ちた店内を、針のような冷たい一声が閃光となって静寂を駆け走った。

「.......先輩、いま何か言いました?」

「別に何も言ってない」

あからさまに気分を害した楓の声が飛び、二人の間には今までにない張り詰めた空気が立ち込めていた。

当然、肇は当惑した。

一方、あからさまに慌てふためく人が隣でいる中で、楓はお構いなしに一人会計の準備を始めている。蜜月な雰囲気に曇りが生じれば、傍目でしか楓を見れない肇の心も陰りを見せいていた。肇が必死に声を掛ける合間を探している内に、楓はお会計を終わらせた。

「行きましょ」

楓の鉄の声が二人の密会最後の言葉となった。



「先輩、なんで怒ってるんですか」

「別に怒ってないわよ」

「やっぱ、怒ってるじゃないですか」

暗がりの街に吹き抜ける晩秋の風は緩んだ肇の心を強く引き締めた。カツカツと速く拍打つヒールの音が、肇の焦燥感を殊更に駆り立てていく。

「先輩、僕何かまずいことしました?」

楓の後を辿々しく追う肇は、母親を必死に追いかける泣きじゃくった子供のようだった。

楓は嘆息をしてから、

「あなたが何もしないのが行けないんじゃない」

と踵を返して呆れながら言い放つ。

自然と二人は道路脇で立ち止まっていた。

街灯に照らされて見えた楓の不満顔を、肇は初めてちゃんと目にした。

「............」

「............」

偶然から始まった僕たちだけの二次会に、先輩は何を望んでいたのか。

真剣に考え抜こうとしたところで状況は何も好転しないし、正解が出ないことぐらいわかっていた。けれど、必死に考えてもがくことに贖罪を見出して、僕はそれにすがるしかなかった。

「............」

「............」

「............」

「............」

「............」

「............」

「............もしかして自分がお代を払わなかったことですか?」

結局、僕はこの重苦しい間に耐えられず当て推量で何かを口にしていた。

自分を慰めるための、浅はかで最低な言葉だった。

「.............本気でそういうこと思ってるの?」

首を傾げた先輩の顔は哀しみで歪んでいた。

その顔を一目見た瞬間、僕はアスファルトを見ていた。

胸を八つ裂きにして心臓を抉りとり、力の限りで握り潰したいと本気で思った。

「嘘です、ごめんなさい。僕の知ってる先輩はそんな事で怒ったりするような人じゃないです............」

まばらな通行人も、僕たちへ憐憫の視線を向けてくる。

「ううん、ごめんね。島本君は悪くないよ。全部、私が悪いのよ。何も言わないのに勝手に感情的になった私が悪いのよ」

楓の口からこぼれ出た哀しさは空気へ沁みていき、いつしか肇の足元にまでしんしんと降りてきた。

僕の頭にはさっきまでの楓の哀しみに満ちた顔が焼き付いたまま。

先輩の顔を見るだけの勇気は僕になかった。

ミニバックを持つ小さな楓の手が微かに震え、彼女の感情の関はいつ決壊してもおかしくない状況に陥っていた。

「帰ろ、島本君」

楓はこの話を切り上げる選択を採った。

いつもと違う、無理に作られた明るい大人の声。

最後まで先輩は、大人の先輩であることを選んだのだった。

このまま先輩の背中を追えば、重苦しい哀しさも難中之難な先輩の心情もきっと解決される。

けど、それが。

そのたったの一歩が、先輩と別れの道を行く初めの一歩になることを肇は確かに予感していた。

だからこそ、僕はこの罪悪感を乗り越えなければならないと強く思った。

理屈とか誰かの受け売りとかじゃなくて、ちっぽけな21年の僕の人生がそう叫んでいる。

手の届かない距離へと離れていく楓を、肇はそっと見つめた。

冷たい空気を肺いっぱいに染み渡らせ、奥歯を強く噛み締める。

「楓せんぱい!」

商店街の終着点まで駆け抜ける疾風を巻き起こすように、楓の名を強く呼んだ。

マロンブラウンの髪が僅かにはためき、哀しさを身に纏った先輩が僕を見てくる。

その表情は酷く先輩に似合っていなかった。

「僕は先輩の言うように光源氏にはなれません。光源氏のように綺麗でカッコよくもないし、口説き文句も知らなければそんな勇気もありません。」

公衆の面前で何を口走っているんだろう。僕は嘲笑した。

けれど、3年間も一緒に過ごした先輩相手に今更何を取り繕ったってしょうがない。

不器用でどこか歪んだ自分に必要だったのは、容姿でも麗句でも粉飾でも無く、あと一歩の勇気だったのだと朧げに悟った。

「でも、先輩が。もし、先輩がそんな僕でも許してくれるのであれば、もう一度だけ二人きりでデートしてくれませんか?」

息は絶え絶えだった。

それでも、肇の目は強く真っ直ぐな眼差しで一人の女性だけをただ見つめていた。

楓は肩を震わせたかと思えば、お腹を抱えてどっと笑いはじめた。

楓を包む哀しみのベールはその一笑で雲を突き抜け、彼方まで続く夜空のその先へと高く吹き飛ばしていった。

「ちょっと、何それ。全然意味わからないんだけど。」

楓は笑いながら、誰も知りえない涙をそっと拭った。

「要するにも今日のリベンジをさせて下さいってことです」

「それは分かってるって。でも、言い方が全然意味わからなくて」

「自分でも何言ってるか本当にわからないですよ?でも、これが僕らしくないですか?」

「そうね。本当に肇らしい」

呆れる楓の声にはどこか敗北の香りが静かに漂っていた。

「ってことで、先輩いつ空いてますか?」

「私、まだ返事してないんだけど?」

もう楓は大人でちょっと上からないつもの口調に戻っている。

「えっ、この流れで断れることあります?」

「あるんじゃない?事実は小説よりも奇なりって言うんだし」

「えぇ...... 」

「それじゃあ、僕はどうしたらいいんですか?」

「そうね......」

楓は音符を弾く軽やかな足取りで2、3歩前に飛び出して、その勢いのまま体をくいっと肇の方に振り向かせた。

「肇がもう少し大人になったら考えてあげる」

後ろで腕を組んだ先輩がとびきりの笑顔を見せながら、告げた。

その姿はいつもの大人びた先輩というより、どこか青い春の風が似合う女性のようだった。

「...努力します」

「うん」

相槌に続くように、先輩の微笑が”待っててあげる”と言ってくれているように思えた。

自然と僕たちは肩を並べて駅へと向かい始めている。

不意に見上げた夜空の中、流れる雲の合間からこちらを静かに見守る満月と目が合った。

“秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ”

千歳の夜の隔たりがあろうとも、今ならこの歌を詠んだ歌人の気持ちがちょっとわかるような気がした。

「先輩、月が綺麗ですよ」

「......ばぁ〜〜か」

先輩は満更でもない声で優しく返事をしてくれた。

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月と礫 横浜ひびき @Hibiki-Y

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