カフェオレ
3カク
カフェオレ
言うべきだ。一言でいい。それなのに体は固まったまま動こうとしない。このコーヒーの香りに満たされたカフェのなか、私はカフェオレのカフェとオレが混ざる様子を見つめるだけだ。
言うべきだ。言ったほうがいい。さっきから震えている足が憎くて、太ももを拳でたたく。でもその拳だってブルブルでうまく力が入らない。自分が情けない。私の隣の中学生二人、学校帰りのこの子達のことより自身の恥を思ってしまう。恥というかトラウマ。そう、それこそ中学生だったとき、前の席の丑田君に言ったことが原因のトラウマ。あのときから私は成長し、今はセーラー服ではなくブレザーを着ている。しかし変わらないものもある。丑田君は怒った。うるせえ!そんなもん、わざわざ言ってくんな、あと声でけえんだよ!もう話しかけるな…
話しかけるな。そうかもしれない。どうせ私には関係ないのだ。この子らがどうなろうとも、知ったことではない。どんな不幸が起こっても、いかに心が傷つこうとも、私の生活に波は立たない。所詮は他人、社会を作り上げるピースのうちの数個。無視してしまえばただの他人。私にはどうでもいいこと。
でも。隣に横目で視線を向ける。中学生たちは仲良く季節限定ドリンクを飲んでいる。勉強道具を広げてはいるものの、雰囲気でおしゃべりすることが目的だとわかる。二人はこの瞬間を楽しんでいる。人生という長いだけで空っぽの時間を、思い出で埋め尽くそうと頑張っているんだ。そんな彼女たちの今が破壊される。そう思うとたまらない。君たちがうっかりしているせいで、私が弱いせいで、二人の時間はどす黒く変色してしまうのか。あのとき気づいていれば、という後悔が塗りたくられてしまうのか。
一方が話題を提供し、ゆっくりと話が始まる。言うべきだ。あるとき急にしゃべりが早くなり、声色もちょっとだけ高くなる。私には関係ない。会話はどんどん加速し、次の瞬間ワッと笑いが起きる。言えば助けられる。まだ幼さが残る顔にクシャッとしわをよせて笑う。出しゃばってヒーロー気取りたいだけじゃない?そして少し落ち着いたかと思ったら、また笑う。自分のトラウマに縛られて、あの子たちを見捨ててもいいの?今度はもっと豊かに、店内に響くくらい声が広がる。勘違いだったら恥ずかしいよ。自分たちでも思いがけない大声に、しまったという表情で口を押える。恥じなんてどうでもいい。互いを見合い、クスッと微笑む。どうでもいい。
私はグラスをあおった。口のなかでミルクの甘味とコーヒーの苦みが広がる。それらを飲み下した。後には風味だけがさわやかに残っている。行く。席を立って彼女たちのそばまで歩み寄った。
「ディナヴィアです」
「え?」声が震えていた。あるだけの勇気をよせ集める。
「スカンディナヴィア半島です!スカンジナビアじゃないんです!」
「あの、あ、これ?」
一人が地理の課題ドリルを見せてきた。そこにはっきりと書いてある。スカンジナビア半島。
「えっと、それ正解です」
もう一人がドリルの回答を開いた。そこには赤いインクではっきりとスカンジナビア半島と印刷され、となりにカッコをつけて(スカンディナヴィア)とあった。別、解。
一瞬痛みが走った。体の奥が氷を当てられたように鋭く痛い。それはすぐに収まったが、今度はノイズが聞こえる。何かが勢いよく上ってくる音。耳が熱い。頬が焼けるように熱い。顔をうなだれるように地面に向ける。二人のほうを向けない。「すいませんでした」と声を絞り出して、すぐに席に戻った。グラスを持ち、バッグを引ったくるように掴む。同じだ。丑田君の制服に鳥のふんが付いていたときのリプレーが再生される。勝手な正義感を抱いて、頼まれてもないのに言ってしまう。確かに私は成長していた。あのときは恥ずかしくて泣いてしまったが、今はダムのギリギリの所でせき止めている。それだけだ、変わったのは。
カフェオレを一気に飲み下し、返却コーナーに容器を戻して出口に急ぐ。ここには居られない。
「あの!」
さっき解答を見せてくれた女の子が呼んだ。反射的に歩みを止めてしまった。
「分っかりずらいですよね!これ、どちらかで呼び方統一すればいいのに」
私はまだ出口の方を向いたままだ。早くここから逃げなければダムが決壊してしまう。下らなすぎて、恥ずかしすぎる。
「どっちでもいいことって世の中たくさんある。でも、時にはどっちか一方を選ばなきゃいけない。頼りなくも勇気を持って」
え、と思って彼女の方を向いた。
「教えようとしてくれたんですよね、間違ってると思って。お姉さんの決心したような顔、正直面白かったです。でも、ちょっとかっこよかった。ううん、かっこよかった」
ダムの水位が下がっていく。どんな顔をすればいいのか困って、口をごにょごにょ動かす。
「邪魔しちゃってごめんね。楽しんで」
カフェを出た。寒空の下、人混みの中を歩く。いきなりこめかみが痛くなった。そういえば、カフェインは体質に合わないのだった。なんでカフェオレ頼んだんだろう。次はホットミルクにしようと思った。
カフェオレ 3カク @cherryracoon
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