息子の宝物

@1232123

息子の宝物

 私は息子が嫌いだった。


 今はそんな息子の部屋を、深いため息と共に片付けていた。こうして部屋に足を踏み入れるのは、一体いつ以来のことだろうか。

 

 息子は20歳までこの部屋で暮らしていた。しかし、ここには息子の人生の名残と呼べるものはほとんど何も残されていない。


 息子は、世間で言う「不良」や「ヤンキー」と呼ばれるような存在でもなかった。かといって、何かに熱中する「オタク」としての一面も見られなかった。ただ、何もかもが中途半端なまま、大人になってしまったように思う。それを如実に物語っているのが、この部屋だった。


 不良であれば、ライターや危険な物、あるいはシンナーやガスパン遊びの痕跡が残っていたかもしれない。オタクであれば、アニメのポスターやゲーム機、フィギュアなどが部屋を埋め尽くしていたことだろう。だが、この部屋にはそうしたものは一切なかった。


 出て行く時に片付けたのか、それとも元からこの程度の部屋だったのか――。ただ、私としてはこの静けさに少しばかり安堵していた。


 息子が死んだ後も、これ以上私に迷惑をかけることがないだろうという確信が、ここにはあったからだ。


 小さかった頃の息子は、まるで宝石のように愛おしく、目に入れても痛くないとはあのことだと思った。幼い彼の笑顔に触れるたび、疲れ切った日常もいつしか柔らかくほどけていったものだ。

 

 いつからだろう。何がきっかけだったのだろうか。高校に上がる頃から、あの穏やかな時間が少しずつ失われていった。分からない――これから先も、永遠に答えは見つからないのかもしれない。

 

 息子は次第に家族との会話を避け、夜な夜な外へ出かけるようになった。私と妻は心配し、何度も話をしようとしたが、息子はどこか他人のように冷たい目をしていた。


 そのうち、突然家に引きこもるようになったかと思えば、ある日には何事もなかったかのようにバイトを始める。気まぐれなようにも見えたその振る舞いを、私たちは理解することができなかった。


 そして――あの日、息子は学校を自主退学した。


 私の中で何かが弾けた。

 

 何度も怒鳴った。叱る理由はもはや覚えていない。それでも、私の中には抑えきれない怒りが渦巻いていた。手を上げたこともあった。最初のうち、息子は怯えたような瞳で私を見つめていた。私がいる時だけは静かにしていたが、やがてその従順さは消え失せ、反抗心だけが鮮烈に顔を覗かせるようになった。


 ある日、私と息子がぶつかり合った時のことだった。私は勢いに任せて息子の胸ぐらを掴んだ。いつもならそれでおとなしくなるはずだった。だが、その日、息子の目に恐れはなかった。代わりにそこに宿っていたのは、鋭く、確固たる何かだった。

 

 次の瞬間、息子は私の腕を振りほどき、同じように私の胸ぐらを掴み返した。そして、私は床に倒された。


 その瞬間、私たちの立場は逆転したのだ。


 胸の奥が焼けつくように熱かった。痛みというよりは、自分が今まで築き上げてきたものが崩れ去っていく感覚――自尊心、父としての威厳、それらが一瞬で霧散するのを感じた。

 

 息子を見上げると、一言も発しないまま、私を見下ろしていた。そこにあるのは軽蔑か、それとも哀しみか、私には分からなかった。


 それ以来、私たちは言葉を交わすことがほとんどなくなった。しかし、それは完全な沈黙ではない。家の中に漂う無言の気配、その静けさこそが、私たちの対話そのものだったのだろう。


 部屋の隅に転がっていた印刷された物件紹介のコピー。


 おそらく不動産屋からもらったのだろう。それを無造作にゴミ袋へ放り込んだ。


 散らばる紙や不要になった物たちを片付けながら、息子のことを惜しむ感情よりも、どこか苛立ちが胸を満たしていくのがわかった。


 結局、賃貸の金も全部私が出した。ふと、そんなことを思い出していた。

 

 バイトを始めた時も、息子は何か考えがあってのことだと思っていたが、実際にはそうでもなかったのかもしれない。家には一円たりとも入れてこなかったし、何に金を使ったのかすら分からない。


 そもそも、あの頃はほとんど会話らしい会話がなかった。息子は気まぐれのように働いたり辞めたりを繰り返していたようだ。続けることができなかったのだろう。



 そんなある日、妻を通じて「賃貸の金を借りたい」と伝えられた。直接、私には言ってこなかった。まるで、私と話すことを避けるように。

 

 あの時、私は呆れ半分、怒り半分だったが、それでも金を出したのは、息子が家を出て行くという話にどこか安堵を覚えたからだった。

 

 やっかいな存在が自ら家を出てくれる――そう思ったのだ。親として情けない考えだと分かっている。だが、当時の私にとってそれが精一杯だったのだろう。


 思い返せば、あの家賃も無駄に終わった。あの部屋で息子は一体何を考え、何を感じていたのだろうか。それを知る術はもうない。ただ、私が出してきた金や時間、そして家族のすれ違いが、部屋に残されたゴミのように空虚に漂っているだけだ。


 床に座り込むと、私の手がふと震えた。息子との間にあったのは、もはや無言の亀裂だけだったのかもしれない。

 それでも、あの日を悔やんでいるのかと自問すれば、やはり胸の奥で苛立ちが勝る。何もかも、どうしてこうなってしまったのか――


 私は一度、深く息を吐き出した。ゴミ袋を手に取り、再び部屋の中を見渡した。


 ゴミ袋に物を詰めながら、ふと息子のことを考えた。

 ――結局、息子は何をしたかったんだろう。夢なんて、あったのか?

 考えてみても答えは出ない。ただ、無為に過ごしていたようにしか思えなかった。


 妻は「部屋をそのままにしてあげたい」と言っていた。だが、もういない人間のために何を残しておく必要があるというのだろう。私には理解できなかった。


 可哀想じゃないの?

 妻はそう言いながら、他にも色々と言い募っていたが、聞き流していた。そもそも息子のせいで、私たち夫婦の関係は冷え切っていたのだ。今さら何を言われても構わない。


 それに――私は心の中で密かに思っていた。息子がこうなったのは、家にいる時間の長い妻にも責任があるのではないかと。

 

 私は仕事で出張が多く、家にいることは少なかった。だから、家での息子の育ち方に関しては、妻が大きな影響を与えたはずだ。息子を甘やかしていたのも妻だ。


 結果として、息子は私に何か頼む時ですら直接言わず、妻を介して金を無心してくる。息子にとって妻も私も、舐められていたのかもしれない。そう考えると、妻もまた可哀想な存在に思えてきた。


 ふと部屋を見渡した。時間はほとんど経っていない。そりゃそうだ、適当に転がっているものをいくつか袋に詰めただけなのだから。まだまだ片付けは終わらない。


「掃除は面倒なところからやれ」という話を聞いたことがあるが、どうしたものかと考えた末、私は押入れに手を伸ばした。固く閉じられていた扉が、軋む音を立てて開く。


 中に何があるのか――それすら、私は知らなかった。息子が家を出てから一度も開けたことのない、沈黙の奥へ手を伸ばした。


 押入れを開けると、綺麗に片付けられており、中には少量の空箱、埃をかぶった昔のゲーム機、着古して使わなくなった衣類くらいしかなかった。

 

 ゲーム機は面倒だな……

 そう呟きながら、空箱を雑に押し出していく。手に取るたびに記憶のどこかで見覚えがある気もしたが、特に感慨は湧かなかった。ただのガラクタだ。


 その時、ふと目に留まるものがあった。


 ――空き缶?


 缶の表面には、汚い字で「宝物箱」と漢字で書かれていた。いつの頃に作ったものだろうか。漢字が書かれているから、小学校高学年あたりか。中学生にもなってこんなものを作るとは思えない。

 

 これを見たら息子が化けて出るかもしれないな……思わず苦笑したが、不思議と興味が勝り、私はその缶の蓋をそっと開けた。


 中には、用途不明の小さな鍵、折りたたまれた紙、そして一枚の写真が入っていた。手紙を取るか迷ったが、先に写真を手に取った。


 写真を見た瞬間、私は固まった。


 そこに写っていたのは、まだ幼い息子と、それを抱きかかえている私と妻だった。場所は公園。陽の光を浴びながら、笑顔の私たち家族がそこにいた。


 ――こんな写真、あっただろうか?いつ撮ったのか、全く思い出せない。


 懐かしさよりも、それが息子にとって「宝物」だったという事実が私の胸を突いた。

 あの息子が――かつて何度も対立し、すれ違ってきた息子が、この写真を大切にしていたのか。


 私の中で何かが崩れ、同時に染み込むような感覚が広がった。


 そうだ。私は息子を亡くしたのだ。かけがえのない息子を――。


 私は震える手で写真をじっと見つめた。

 息子はいつこの写真を見つけ、宝物箱に入れたのだろうか――それは分からない。しかし、確かにこの写真を大切にしていた時期があったのだ。小さな手で箱の中にそっと収めた時、息子の心にはどんな想いがあったのだろう。


 だが、その「大切に思っていた時期」は、いずれ消えてしまったのかもしれない。


 思い返せば、息子が私を避けるようになった時期があった。だが、本当に息子が避けていたのだろうか。いや、実際は――私が息子を避けていたのではないのか?

 言い訳はできる。仕事が忙しかった、家にいる時間が少なかった、反抗的な態度にどう接していいか分からなかった。それでも、私が息子と向き合おうとしなかった事実は変わらない。


 私はただ、取り返しのつかない時間を嘆くしかなかった。


 流れ去った日々はもう二度と戻らない。その残酷さが、今になって全身を締め付けるように痛みを与えてくる。


 気がつくと、目から溢れた涙が頬を伝い落ちていた。


 濡らしてしまうわけにはいかない……

 そう心の中で呟きながら、私は写真を丁寧に拭き取り、宝物箱の中へとそっと戻した。


 そして、目に留まった小さな紙切れ。そこには数字が辿々しく書かれていた。


 私はすぐにそれが何を意味するものかを理解した――私と妻の誕生日だ。


 息子は忘れないようにと必死で書いたのだろう。

 あの拙い文字を見ていると、小さかった頃の姿が脳裏に浮かんだ。息子は「宝物箱」と漢字で書けるようになるまで、これをずっと大切にしていたのだ。きっと、その幼い心にとって、この箱の中身は何よりも価値のあるものだったのだろう。


 それでも息子は、成長するにつれ変わっていった。家を出る時、息子は自分の部屋を片付けていた。この押入れもきれいに整理されていた。しかし――この宝物箱だけは持ち出さなかった。


 捨てることもなく、ただここに残していったのだ。


 その理由は、もう知ることができない。

 息子は何を思い、この箱をここに残したのか。私には分からない。ただ一つ確かなことは、息子がそこに込めた想いが今も静かに残っているということだ。


 私は頬を伝う涙を拭うこともせず、後悔と喪失感の中に立ち尽くしていた。


 ――どうして、もっと早くこの心に気づけなかったのか。


 私はゴミ袋をじっと見つめていた。そこには息子の物たちが無造作に詰め込まれている。


 一つ一つに特別な思い入れがあったわけではない。どれもただの日用品、今となっては不要な物に過ぎないはずだった。だからこそ、最初は何の感情もなく袋へ押し込んだのだ。


 しかし、今になって見ると、それらの物がまるで息子の痕跡そのもののように感じられた。触れれば消えてしまう幻のように、そこに確かに息子の存在が漂っている気がした。


 私は黙ったままゴミ袋に手を伸ばした。そして一つ一つ、息子の物を取り出し始めた。――どれも息子が生きていた証だと思えて、手放すことができなかった。


 袋から物を取り出し終えたその瞬間、私はその場で膝を崩した。


 静かな部屋の中、ただ後悔だけが胸を支配する。


 涙が静かに頬を伝い落ちた。戻らない時間、戻らない息子。私はただその現実を受け入れるしかなかった。

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