第3話 夢うつつ
それはなんの前触れもなかった。突然空気を吸いながら、日々は飛び起きた。起きた時の息と衝撃でせき込む。それでも夢の中、いや、記憶は消えてくれなかった。
ああ、愛とはなんだ。
そう考えながら切りそろえた前髪と横髪を整えた。お風呂にはいれなかったからか、それとも外に出てからクシでとかしてないからか、短い髪の毛なのによく絡み合っている。まるで自分とあの人たちみたいだな、と面白くないのに小さく笑った。多分きっと、彼女の中でも分かっている。それが軽蔑した笑いだという事を。
自分の水筒を取り出し、まだ半分もきっていない水を少し飲む。数分経っているのに、あの嫌な感触や声、欲望たちが気持ち悪く身にまとったままだった。
愛とはなんだ。その考えはこの四人の中の誰も答えを出していない。出すことができない。それでも日々は、自分には好きな人がいる、それを確信している、それだけでもまだ幸せなのだ。そう言い聞かせて、わがままを言わないようにして、疑問を飲み込んだ。
それより自分の身の汚さが気持ち悪い。ビアンだと知られてから大人たちに色々な事をされた。教育だと言われて。知れば男が良くなると言われて。他の人に相談してもそれが当たり前かのように消されて。それをかき消したくて、九重の頭を撫でた。幸い誰も起きていない。おでこの髪の毛を手でのけて、軽くちゅっとキスをした。
ああ、かわいそうに。寝ている間に、他人の欲望に勝手に使われて。僕の嫌な記憶を消すために勝手に使われて。と、同情すると同時にそんな醜い事をする自分に対してさらに腹がたった。
ちぐはぐな16歳のこの子は、西樹にも麦菊にもとられない九重との時間を楽しんでいた。
隣で、んっと声が聞こえて日々は慌てて元の場所に戻った。麦菊が目をこすりながら起きる。
彼女は悲しみすぎて何も感じない心で、それでも出てきていた自身の涙をぬぐった。
「おはよう」
と日々が声をかけると、麦菊も反射で「おはよう」と返した。
「昨日途中で寝たみたいだから、ケガしてないか見ないといけないね。とりあえず痛いところがないか確認しておいてくれるかな?僕は準備をしてるから」
「分かった」
それを聞くと日々は自身の鞄の中を探っていった。山や森に行くときには必ず最低限の準備はしている。別にそれはサバイバルなどが好きなわけではない。ただ、そういう知識があれば仕事に使えるからだ。
麦菊は一枚ガラスを挟んだように見える景色の中で、言われた事だけを機械のようにやっていた。けれどあまり感じない。心が痛すぎてあちこちが筋肉痛だったり葉で切れたりしているのに何も感じなかった。
こんなの、家での暴力や言葉の銃よりましだ。ご飯が存在しなくて、唯一のご飯は給食だった。その時の空腹や愛の足りなさの悲しみよりましだ。それでも化膿したり悪化すると大変だからと、服をめくったり靴を脱いだりして目視で確認していった。
靴下が赤く染まっている。足の小指と薬指の爪がとれていたみたいだ。
「足の爪がめくれてたみたい」
「分かった、すぐ行くよ。応急処置しかできないけど」
うん、と麦菊は小さく言った。応急処置ができるだけでもこの子たちには病院に行くと同じくらい助かるものだった。この子たちは家を出て、外になるべく出ないように、家に戻されないように、隠れて生活をしていたからだ。もし事故などになっても大病になってもそのまま死を受け入れるだろう。もし病院に連れられて生き残ってしまったら、それだけでも地獄だ。あそこで身も心も殺されるくらいなら、友達と一緒に居たい。
生きるか死ぬか身を任せると言いつつ、傍から見れば生きようとしている姿は、友達…いや、家族と言えるような場所に居たいという気持ちからきているのかもしれない。
皆といる方が毎日ご飯にありつけるし、睡眠もできるし、トイレやお風呂にも困らない。戻ったら怒鳴り声と空腹が待っており、仕事したお金は全てとられるだろう。迷惑かけた分として一生。家のものもさらに使わせてもらえない。
「痛くないか?」
という問いに、ぼんやりとしたまま「うん」としか返せなかった。
「ねえ、まだ九重のこと好き?」
と力なく麦菊は言う。
「好きだよ」
「あたしじゃだめ?」
「だめ」
別に麦菊は日々に恋はしていないが、残念そうに「そっかー」と言った。家族としての愛がほしいのか、恋人としての愛がほしいのか分からない麦菊には、遊びでも代理でもいいから日々の愛がほしかった。けれど街にでれば腐るほど人はいる。その心は満たされないが満たされる。まあ、いっかっと思ってポケットから煙草を取り出した。
「山火事になる」
ぴしゃりと言い放った日々の言葉に、それもそうだなと思いポケットに直した。
後ろの方であくびをする声がする。
真っ先に日々が
「おはよう」
と低く、少しきつく声をかけた。
「ああ、おはよう」
その返事に麦菊は、本当に九重が好きなんだなぁと感心した。多分九重は西樹が好きだし西樹は感情の整理がついていないだけで九重が好きだ。ちゃんとした家で、感情というものを、安心というものを学んでいたらとっくに恋人になっていただろう。
叶わない恋だというのに日々は健気にも、九重に振り向いてもらおうと西樹の口調を真似している。それに対し麦菊は羨ましいと思いながらも気持ち悪いと感じていた。愛された事がないが故の相反する気持ち、願い。いや、よくわからないものであれば実の姉の九重と恋人のような関係で互いの心を満たしあった事もある。けれどそれでは違うのだろう。
西樹は背伸びをして、くふうと息を吐いた。自然の音が夢の中の事を忘れさせてくれる。
両親の不和、そして父も母も違う感情で迫ってくる。片や奴隷のように扱われ、八つ当たりもされる。その時の傷はもうなくなっているのに時折痛む。片方では父親に愛されないからと、自分の事を父親と同じように、いや彼氏のように愛を押し付けてくる。ご飯も両極端だった。父親が家に帰ってくる時だけご飯を作る。家には食料があるが手を出したら、父親の物か、母親が父親に食べさせるものだからと怒られる。
それらをこの自然は全て持って行ってくれるように感じていた。それだけで頭の中がすっきりしてくるような。でも奥底には虎視眈々と過去たちが潜んでいる。
「西樹はケガはしてないか?」
「んー、特にないかな」
「あたし、いつの間にか爪がとれてたから、西樹君も見てみなよ」
そうだね、と言って西樹は靴を脱いだ。靴下は特になにもなく、足もケガをしていなかった。
「うん、何もなかったよ。よかった」
「本当だねぇ、さすがバイトで鍛えられてるだけあるよ。かっこいー」
「運が良かっただけだよ」
運がよかった、に対してたしかにと日々と麦菊は思った。こんな状況に陥った時点で運が良いかは分からないが、こんなところで寝ても獣や虫に襲われていない。もちろん蚊などには食われている。だが、熊などに出会っていない。不幸中の幸いというのを実感する。
「俺、ここからちょっと見てくるよ」
「そうか、あまり離れないように」
「覗くだけだから大丈夫だよ」
と言って背が高いのを利用しながら歩いて行った。
それなら僕もできるんだけど、と日々は心の中で思っていた。
「日々は本当に分かりやすいね。ここに来るまで後ろを見ないようにしてたし」
「え、そ、うかな…」
「もしかして、見てくるの僕でもできるとか思ってた?」
にやにやと楽し気に、いたずらっぽく麦菊は笑う。
「そうだ、だけど…んー…」
気づかれていたという恥ずかしさに日々は短い前髪をいじる。
「たしかに日々も背が高いもんね。ここでは二番目に」
「…うぅ…ん…恥ずかしいからあまり言わないでくれ…」
耐え切れず日々は逃げるように自分の鞄の元に行った。その姿に麦菊はくすくすと笑う。
静かに九重は起き上がる。体のあちこちが痛いが喉を潤すため、鞄から水筒を取り出し水を一口飲んだ。本当はもっと飲みたいが気管支がかゆくて飲むのを躊躇した。
「あ。おはよう、九重」
隣にいたままの麦菊が挨拶をすると頬に軽くキスをした。もちろんこれは、日々へのいじわるのためだ。娯楽をもってきていない今では、人の表情や感情が娯楽の代わりになっていた。
キスするのを見事に見てしまった日々は、これまた見事に、麦菊は好きでキスをしたんだ、と勘違いをした。邪魔をするために二人の間に割りこむ日々の姿に、麦菊はこらえきれないようで声を出して笑った。
「ほら、九重。ケガはない?」
という日々の言葉に、九重はぼうっとしながら「うん」と言った。
日々はそう答えるのは知っていたので、ここは痛い?と聞きながら体を触っていく。特にどこもなく、靴を脱がしてもどこにもケガがなかった。
友達の事もケガの有無でも差はあったが、やはり好きな人というのはどこか違うのだろう。心の奥の底から安心感が湧き出る。今まで軽くとはいえ山や森の事について知っていて、ずっと気を張っていた全身や心も一瞬で力が抜けた。
でもすぐに西樹が戻ってきて、このまま真っ直ぐ行くと急な下りだから少しだけ迂回したほうが良いと言われて、また気を張った。
「まぁ迂回といってもそこの道だからすぐなんだけどね」
といって西樹は指をさす。背の高い草から出て右側。右斜め前。たしかに近い場所だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます