第4話 己が足にて惑ふ

 土は柔らかく葉というクッションがあるのに、昨日歩き続けた疲労でやられた痛みがある。それも歩いていけば鈍くなり感じなくなってきていた。

 道幅は広く、でもさっきまでよりは下り坂の傾斜が急になっている。とにかく降りて街に出たいから黙々と歩いていた。

 どんよりとした気持ちを消すように九重は上を向いた。木々や葉が生い茂ってあまり空は見えない。それでも少しだけ見える青空に癒された。

 たびたび出てくる相手を傷つける言葉。それらがじょじょに薄れていく。もう家や学校にはいないのに、いつまでもまとわりつく言葉や態度を、空に託していた。

 九重は足し算と引き算がやっとだった。それも指で数えないといけない。数を数えるのもままならず自分が何歳かも分からない。だから周りの人に馬鹿にされ、家ではなぜ勉強できないのかと棒で叩かれていた。家を出てからもうずいぶんと日にちが経つのに、思い出しては自分で自分を傷つける。それは思いのほか体に負担がかかっているらしく、過呼吸に近いものになるときもある。頭の中が真っ白になっていき、夏でも空気を吸えば中で冷たくなる。極めつけは手の動きだ。指が力強くまっすぐ伸びるか、それぞれバラバラな方向に曲がったり握ったりする。そのせいで余計に一人になっていく。中では悲鳴を上げているのに。

 この四人は誰にも助けられたことがなかった。助けて、と訴えても見向きもされなかった。だからこうして集まって傷をなめあって、お互いだけを想い、互いだけを助け合っている。

 例え、私を傷つけて、とぼしめて、と懇願されても、優しく抱き、親が赤ちゃんに子守歌を歌うように、普段なら出ない言葉を言うだろう。本人も叶えたいとは思ってもない願いを、優しくキスしたり頭を撫でたりして叶えてあげる。そうじゃないと互いに正気を保てないから。

 九重が空に過去を乗せていた頃、日々はよくわからない違和感を感じていた。

 何が、と言えば分からないが歩幅があっていないような気がする。それはすぐに答えが出た。突然、麦菊が「ぎゃ!」と声を出したと思ったら消えたのだ。

 三人は立ち止まって周りを見る。が、どこにも麦菊はいない。本当はすぐに探しに行きたいが、何が起こったか分からない恐怖でその場で確認するしかできなかった。静かにして、呼吸も鎮め、耳もすませる。それでも聞こえるのは今までの通り、動物や葉の音だけだった。




 たった一歩も満たない歩幅のズレ。足のふんばりがきかなくてよろけてしまった。ほんの少しのズレ、これだけで麦菊は一人になった。周囲は変わらず山だ。緑や土のいい香りがしている。

 1秒過ぎるごとに心拍数も少しずつ上がっていった。

 ――今、あたしは危険な山の中でたった一人なのだ。

 彼女は山での生き抜き方を知らない。その事実を、今にでも全てを捨てて裸になって山の中をむやみやたらと走りまわりたくなった。

 けれどそれを、ぐっと抑え、戻るために同じ歩幅で坂道を上った。

 瞬間、真後ろから友達の声が聞こえた。

「どこいっとったん!?何ここ!?なんで消えたん!?」「大丈夫かい?体調悪くないかい?」「これが神隠しというやつなのか…?」

 次々と来る声に頭が反応できなかった。

 しばらく経ってやっと出た言葉は、「分からない」だった。

 消えるかもしれないという大きな恐怖で誰も動けなかった。ごくりと誰かが唾を飲む。その中で無邪気にも猿たちは会話をし始めた。

「た、多分」

 その緊張を破ったのは麦菊だった。三人は目だけを動かして麦菊を見る。

「あの時よろけたから…?おかしいけど、他には何も思い当たらなくて…」

「やったらそうかもしれへんな。トンネル出たら閉じたし、来た時の山ってこんな木がおいしげってへんかったやん。今いる場所はなんかちゃうんかもな、法則とか。そういう都市伝説もあるし」

「九重、そういうの好きだもんねぇ。でも、ここの場合本当にそうなのかもしれない。おかしすぎる」

「ふむふむ。それじゃあ僕たちは慎重に歩いていくしかないね。ここにずっといるわけもいかないし」

「そうだな。とりあえず誰かが消えたら待っておこう」

 うん、と言ってゆっくりと足を動かした。

 踏み固められていない道は、よろけずに歩き続けるのは難しい。誰かが、自分が消えるかもしれない。それでも友達といるために歩いて行く。





 何時間経っただろう。足元にあった雑草はもうなくなって、土だけになっていた。代わりに木に苔が生えたり、ツタや小さい花が巻き付いている。 

 途中で麦菊が「あ…」と小さく呟いた。水筒の中がなくなったようで、しょんぼりとしている。その姿を見て当たり前のようになんの感情もなく、九重は自分の鞄から水筒を出し麦菊に渡した。

 美味しそうに、でもほんの少しを大事に飲んだ。

 もくもくと歩いていくうちに崩れやすく柔らかい土も、動物か人間かに踏み固められている土になっていった。心なしか動物の声も少なくなってきている。道は真っすぐだけじゃなく、横になっていたり、カーブを描いていたりと大変だ。

 それでもおり続けるとなだらかになっていき、次第に平地になっていった。

 噂とは道のりがちがったが、集落が見えてきた。近くにはきれいな川も流れており、畑には農作物が実っている。そして、ログハウスのような家から人も出てきた。

 これで身もきれいにでき、ゆっくり休むことができる。それは物凄い安心感だった。昨日から歩き続けて、土や他の汚れで体がべたついている。おまけに爪も黒い。全てをすっきりさせたかった。そしてそのあとは安心して家で寝ることができる。動物に襲われる心配もない。そんな当たり前が恋しかった。

 比較的安全である街、いや、家恋しさというのは一瞬にして無警戒になる。この子たちは過去から学んだ人の厳しさを忘れ、人と話すため歩いて行った。

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