硝子の少女

松本凪

第1話

 彼女は、宙に浮かぶ硝子細工のような少女だった。

 秋の午後、僕は図書館の窓辺でぼんやりとページをめくっていた。風に乗って、銀色の髪が揺れる。彼女が窓際に立っているのに気づいたのは、ほんの偶然だ。

「何を読んでいるの?」彼女は微笑んだ。唇の端がほんの少しだけ上がる。花がそっと咲くような、儚い笑み。「カミュだよ」僕はページを示した。

 彼女は軽やかな足取りで隣の椅子に座った。秋の日差しが彼女の横顔をなぞる。睫毛の影が頬に淡く落ち、肌は陶器のように滑らかだった。まるで現実に存在しないもののように、彼女は美しい。

「不条理について、どう思う?」彼女は囁くように言った。まるで風に溶けてしまいそうな声。

「どうしたの? 突然」

「……ふふ」彼女は頷いて、小さく笑った。

「私はね、生きることがいつも不思議なの」

 そう言って彼女は本の上に指を置いた。細くて白い指。僕はふと、その指先が震えていることに気がついた。

「生きることが不思議?」

「うん。朝が来て、夜が来る。心臓は止まらずに鼓動し続ける。たくさんの言葉を覚えて、それでも言葉にならない感情がある……。それって変じゃない?」

「変、なのかな。でも、それは至極普通のことだよね」

「普通……ね」彼女は遠くを見るような目をした。

 静かな時間が流れた。風がカーテンを膨らませ、僕たちの間をかすめていく。彼女の髪が揺れ、その匂いがふっと漂う。どこかで嗅いだことのある香り。懐かしく、けれど、思い出せない。

「ねえ、君はさ」ふいに彼女が言った。「死ぬこと、怖い?」

 唐突な問いに、僕はページをめくる手を止めた。

「……怖い、と思う」

「私はね、怖くないの」

「どうして?」

「だって、私、もう死んでいるもの」

 彼女は静かに微笑んだ。

 その瞬間、世界が変わった。

 図書館の窓の外で、木々の葉が一斉に舞い上がる。黄金色の光の粒が宙に漂い、彼女の姿を淡く縁取る。時間が止まったようだった。いや、もしかしたら、この世界自体がずっと止まっていたのかもしれない。

「なにこれ……?」

 僕の声は震えていた。

 彼女はふっと目を細めた。その表情は、どこか遠い記憶の中にある誰かの面影に重なるようだった。

「ねえ」彼女はそっと僕の手に触れた。

「私はここにいたいの」

「……ここ?」

「あなたの記憶の中に」

 彼女の指先が、僕の手の甲を滑る。冷たい。それは硝子のような、壊れやすい感触。

 僕は彼女の目を見つめていた。透き通った瞳の奥で、何かが揺れている。泣いているようで、笑っているようで、それでいて何も映していないような、そんな目だった。

「だから、忘れないで」

 彼女の声が、風に溶ける。

 その瞬間、光が弾けるように広がった。

 気がつくと、僕はひとりだった。

 図書館の窓辺には、もう誰もいなかった。

 彼女の気配も、声も、すべてが消えていた。

 ただ、僕の手のひらには、微かな冷たさが残っている。

 それが彼女の存在の証なのか、それともただの幻だったのか——

 それを確かめる術は、もうどこにもなかった。

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硝子の少女 松本凪 @eternity160921

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