第61話 鬼を追う鬼
曾祖父は脳丁をしていました、と全さんは言った。
脳丁とは何のことか、字面を見てもまるで理解出来ず聞き返すと、樟脳を取る仕事だと言う。
樟脳とは、防虫剤や医薬品として、さらにセルロイドの原料としても使える、非常に便利なものである。そして、樟脳の材料はクスノキという木であり、そのクスノキの名産地が台湾であったため、日本が台湾を統治していた時代、クスノキを伐採し、樟脳を製造する仕事に就く人は非常に多かった――そういう人を脳丁と呼んだのだ、と全さんは説明してくれた。
けれども、これは楽な仕事ではなかったそうだ。そもそもクスノキは深い山の中にしか生えないもだし、樹齢六十年を超えるようなものでないと良い原材料にはならない。必然的に脳丁は、危険な山奥深くに分け入らねばならない。
全さんの曽祖父も、玉山という高峰にて、その危険な脳丁の仕事に従事していた。そもそも全さんは原住民の一族であり、日本の統治が始まるまでは山奥で原始的な暮らしをしていた為、幼い頃から玉山に慣れてはいた。しかし、良いクスノキが次々伐採されて行くにつれて、さらに良い木を求めて、さらに山奥に進まねばならず――全さんの曽祖父の周囲でも、木の下敷きになったり崖から転落したりして、大怪我を負ったり、死亡したりする脳丁仲間は少なくなかった。それでも、原住民には他の仕事の選択など殆どなく――彼らは来る日も来る日も、山へ分け入り、危険な脳丁の仕事をこなしていたのだ。
「でもね、そんなある日のことです――曾祖父と仲間二人が、山の中で大雨に降られてしまって――その時にね、追いかけられたと言うんですよ」
雨と霧の中、背後に見えたと言う――赤い服を着た女性の姿が、どこまでもついてくるのを。
「大正時代ですよ? 女性が一人で山に登る筈がない――ましてや、ただでさえ危険な山に、雨の中、ですよ? しかも赤い服――曾祖父達は、それが、漢民族が恐れているモシナという鬼に違いない、と確信して」
モシナとは、魔神仔や毛生仔等と表記される、台湾固有の鬼だ――全身赤毛におおわれ、カエルや猿に似た姿で、山に迷い込んだ人をさらうと言う。さらわれた人の多くはそのまま行方不明になる。数少ない幸運な生き残りは、口に虫やミミズ、木の枝などが突っ込まれ、記憶を完全に失った状態で発見される。
「鬼が追いかけてくる、捕まれば終わりだ――そう思った三人は、雨の中を懸命に進んだんですが、その鬼を振り払うことが出来ない、逆にどんどん近づいてくる。もう鬼の顔も見えそうな距離になり、もうダメだ、そう思った時に、仲間の一人が言ったんですね――あの谷を跳び越えよう、と」
それは幅が四メートルほどある谷で、下は断崖絶壁になっている。当然普通の人は迂回をするのだが、幼い頃から山で育った剽悍な彼らは、普段からそれを平気で飛び越えて来た。
けれども――今は大雨で、足元も定かではない。跳ぶ際に足を滑らせれば確実に死ぬ。その思いが、曾祖父の足を竦ませた。
「そもそも、鬼なんだから、谷ぐらい跳び越えてくるだろう――そう曾祖父は言ったのですが、言い出した男は耳も貸さず、見事に跳んで、無事に谷の向こう側に着地しまして」
曾祖父ともう一人はそれでも躊躇ったが――背後に迫る鬼の姿は、余りに恐ろしいものだった。
「で、意を決して彼らは谷を跳び――全員が見事に跳び越えたんですね」
ホッとして背後を振り向くと、そこにはもう、鬼の姿はなかった。
「まあ、鬼は谷を飛び越えられない――それは決して身体能力的な問題ではなく、その谷を境に、山と里が分かれており――モシナという鬼は、山の住民であるから、里には入ることが出来なかったのだろう、と曾祖父は言っていました」
成程、と私は頷いた。そして、少し微妙な話だな、と思った。
そもそもモシナという鬼は、原住民がモデルだと聞いたことがある。大陸から台湾に移り住んできた漢民族が、山にいる危険な存在――原住民を大いに恐れ、彼らを醜悪な鬼に仮託して恐れたのだ、と。
しかし日本の統治が始まり、原住民が文明化したことで、里に定住するようになり――仕事で出かけた山でモシナに遭遇し、慌てて里へ逃げ帰る。
まるで、自分の影に怯えたような話じゃないか、と私は思った。
そんな私の思いを他所に、全さんはニヤリと笑った。
「まあ、曾祖父の話はそれだけなのですが――これにね、現代の有名な鬼の話を重ね合わせれば、少し面白いことになるのではないかな、と思いまして」
有名な鬼? 重ね合わせれば? 私は首を傾げた。
「黄色小飛侠――ってご存じですか?」
私は頷いた。それは一九七〇年代に台湾じゅうに広まった都市伝説だ。玉山に現れる黄色い鬼で、登山者を死に追いやる鬼だと言う。
「黄色小飛侠に関しては、色々な目撃証言がありますが――特に有名なのは、一九七〇年代の、ある女性登山家の話で」
彼女は、登山隊の一員として玉山を無事に登頂したが、帰り道で仲間とはぐれてしまった。追いつこうと慌てる余り道を間違え――しかもそこに、大雨が降り始め、視界が一気に悪くなった。
遭難した――このままでは命も危ない。途方に暮れていた彼女の目に、不意に思いがけないものが飛び込んできた――三つの人影である。それぞれつばの広い帽子をかぶり、黄色いレインコートをまとっている。
彼女は急いで彼らに大声で呼び掛けた。しかし反応はない、彼らはどんどん進んで行く。彼女は慌ててその後を追った。しかしどれだけ急いでも、その黄色い影に追いつけない。
ますます彼女は焦り――そこで、ぬかるみに足を取られて転倒してしまった。ダメだ、置いて行かれる、そう思い慌てて顔を上げた彼女の目に飛び込んで来たのは――落差の大きな谷だった。目の前は断崖絶壁、あと一歩踏み出せば、奈落の底だったろう――転んだお陰で命拾いしたのだ。
呆然としながら顔をあげ、そして気づいた――三人の姿が、どこにも見当たらない。
鬼が、私を死に導こうとしたのだ――彼女は震え上がった。
「――黄色小飛侠は、そんな風に、玉山に入った人を誤った道に導き、死に追いやろうとする、恐ろしい鬼なんですよね」
曾祖父さんの話に似ていますね、と私は言った。共に、大雨の玉山に現れる、不思議な鬼の話だ。
けれども、私の話に全さんはまた首を左右に振った。
「似ているのではなく、真逆ですよ」
私は少し考え、確かに、と頷いた。鬼に追いつかれないように逃げた曾祖父、鬼とは知らず追いつこうと必死だった女性登山家。
「それだけではありません。曾祖父達は谷を飛び越え、女性登山家は谷に転落しかけた」
そして、と全さんは言う。
「曾祖父達脳丁の格好は、黄色いカッパ姿でした。そして、女性登山家は、真っ赤なレインコートを着ていたそうです」
その言葉の意味をまた考えて――ようやく私は、全さんの言いたいことを理解した。
「つまり――大正時代の脳丁達が見た鬼は、一九七〇年代の女性登山家で、一九七〇年代の女性登山家が見た鬼は、大正時代の脳丁だ、という事ですか?」
大雨の玉山にて、彼らは時空を超えて出会い――脳丁は女性登山家を鬼だと思って懸命に逃げ、それを追った女性登山家は脳丁を鬼だと思った。
「ね、組み合わせると、大変興味深い話になるでしょう? 鬼が鬼を追いかけた話にも、鬼が鬼に追いかけられた話にもなる」
全さんは笑い、私は頷き、結局のところ、未知の相手は全て恐ろしいもので――全て鬼に見えるということだろう、と思った。
そして思った、これぞまさしく鬼ごっこだな、と。
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