第60話 願いを必ず叶える怨霊が、願いを叶えなかった理由
私は、台湾の警察や検察で証言をしたことが何度かある。
勿論犯罪をした訳ではない。ただ、台湾で商売をしている以上、様々な嫌がらせを受けてしまうのはどうしようもなく、かつ、こちらから訴えを行わざるを得ないことも多く、私は刑事や検事の前で、色んな立場で何度も証言させられた。
そのこと自体は特に問題ないのだが――ただ、その際、毎回驚くことがある。
証言をする前に、必ず人定質問が行われる――その証人が、人違いでないかを確認するために、名前、職業、住所などを述べさせられるのだが、その際、必ずID番号も尋ねられる――これに困ったのだ。
なにせ、合計アルファベットと数字交じりの十文字――とても覚えられるものではないのに、何かを見ながら答えることも許されていない。そして何より、公式記録に残されるものであるから、間違う訳にも行かない――結局いつも、よく覚えていないと言って許してもらう。
しかし、驚くのは、他の証人として台湾人が人定質問をされた際――彼らはほぼ例外なく、自分のID番号をすらすらと答えることだ。
あり得ない、と私は思った。日本にもマイナンバーはあるが、殆ど使う機会のない十二桁の数字を覚えている人がどれだけいるか。確かに、台湾のID番号は二〇〇三年に導入されていた分、それと接してきた時間は日本人より長い。しかし公式の書類記入の時ぐらいしかその番号は使わないし、その時はIDカードを見ながら書き込むのだから、覚えようというモチベーションは持てないものだろう――それなのに、彼らは皆、その呪文のような文字列を正確に唱える。
何故そんなことが出来るのだろう――知人の呉さんに尋ねたところ、ニヤリと笑って、こんな小話をしてくれた。
*
劉は根っからのギャンブル好きの男性だった。小さいころから親に連れられて賭場に出入りをし、様々な賭け事を嗜んだ。
彼は普段は余り記憶力が良い方ではなく、勉強はからきしダメだったのだが――ことギャンブルとなると、ドーパミンが分泌されるお陰か、途端に頭の回転が鋭くなり――多くで素晴らしい結果を出した。まさしく生まれついてのギャンブラーだった。
しかし劉が大人になったころには、台北は大いに変わってしまった。そもそも台湾にはカジノや競馬などの公営ギャンブルが存在しなかった上に、賭場で開かれるようなギャンブルが次々と禁止され、ついには台北市のみではあるが、パチンコすら追放されたのだ。台北民に残されたギャンブルの類のものと言えば、宝くじぐらいしかなく――頭の回転で勝負する劉にとって、ゲーム性のないそれは、色んな意味で満足できるものではなかった。
とはいえ、勿論表向きがそうであるだけで、実際には多くの賭博があった。特に有名なのが野球賭博で、台湾におけるプロ野球人気と共に大いに賑わっており、劉も散々熱中したのだが――黒道(ヤクザ)主導の八百長が二度にわたり発覚、スター選手や監督などにも多くの逮捕者が出て、プロ野球リーグそのものが潰れてしまった。その後、新たにプロ野球リーグは出来たものの、流石に今度はクリーンであることを掲げており、大きな賭博の対象にはならないようになってしまった。
それでもまだ、闇カジノなどがあり、劉はそれに足しげく通ったものだったのだが――やがてコロナ禍が到来、人が集まる娯楽施設が全て閉鎖されることになり――黙認状態だった闇カジノも、全て潰されることとなった。
かくして劉のギャンブル熱は、行き場を失ってしまった。彼は毎日を鬱々と過ごすしかなかった。
けれども、また時代が変わった――オンラインカジノというものが出てきたのだ。劉は狂気乱舞した。それまで劉がやってきたギャンブルは全て非合法のものであり、後ろめたさを感じざるを得なかったのだが――二〇一八年十二月、台湾最高裁は、オンラインカジノは非合法とは言えない、という判決を下していたのだ。つまり、劉はついに堂々と楽しめるギャンブルを手に入れた。彼はそれにはまり込み、多くのお金をつぎ込んだ。
けれども――オンラインカジノは余りに危険だった。手持ちのお金がなくなったから引き上げる、ということの出来たそれまでのギャンブルと異なり、銀行口座やクレジットカードと直結しているそれは、まさしく底なし沼だった。さらに言えば、オンラインとなれば、ランダム性が強く、劉の折角の頭の回転も、さして影響がない。その結果、劉はあっという間に殆どの財産を失ってしまった。
何とかして勝たねばならない――そう思い詰めた劉は、ある日思い立って、手持ちのお金をかき集めると、近くの河原に建つ陰廟へと出かけた。
陰廟とは、文字通り、陰にある廟だ。
台湾には無数の廟があるが、その殆どは陽廟――無数の神像が並び、派手な装飾があり、大通りに建てられ、人々が沢山集まる、そんな明るい場所だ。
けれども陰廟は、日の差さない裏通りや、何もない河原にポツンと建てられた小さな廟だ。多くは、身寄りがなくて祀られることがなく、怨霊になってしまった死者――台湾ではそういう怨霊を孤魂と呼ぶ――が祀られている。
それだけなら、日本における無縁仏の墓地と似たようなものだが――台湾の陰廟は、ある点において、それとは大きく違う。
何せ孤魂は、神様同様に超常的な力がある上に、元々ただの人間だったのだから、神様と違ってどんな願い事も――公序良俗に反するような、それこそギャンブルでの成功などという願い事をも、受け付けてくれる。
陰廟の多くは、その入り口に、こんな四文字を掲げている――『有求必応』――求めあらば、必ず応じる、と。
陰廟とは、そんな便利な存在なのだ。
――とはいえ、勿論美味しいだけの話など存在しない。陰廟に何かをお願いをする際、陽廟に対してするそれよりも、遥かに多くの供え物をしなければならない。そして何より、願いが叶った後には、再度多くの供え物を持っての還願――お礼参りを絶対に欠かしてはならない。もしそんなことをすれば、恐ろしい祟りが降りかかると言う。
劉は今まで、その供え物すら勿体なく感じて、陰廟には一切出入りしなかったのだが――もはや投資を惜しんでいる時ではないと、心を決めたのだった。
ギャンブラーの味方として有名な陰廟に出かけ、劉は懸命に祈りを捧げた。
そして彼は、勢い込んでオンラインカジノに臨んだ。それは、残りの貯金を全て注ぎ込んだ、人生を掛けた大勝負だったが――。
劉は、完膚なきまでに叩きのめされ――全てを失った。
*
えっと、と私は戸惑いながら尋ねた。結局、陰廟は役に立たなかった、ということですか、と。
そうですね、と呉さんは頷いた。
どういうことでしょう、と私は続けて尋ねる。陰廟が願いを叶えてくれる――という話の流れではなかったのか。
「陰廟に限らず、台湾における拜拜(お祈り)の作法は知っていますよね?」
一応は、と私は頷いた。
お供え物を置き、線香に火をつけて顔の前に掲げ、三礼してお願い事を唱え、香炉の中に線香を差す。そして最後に、紙銭を炉に放り込む。
「お願い事を唱える時、どうしますか?」
どうする? 私は首を傾げる。どうするもこうもない、願い事を頭に浮かべるだけだが。
すると、ダメですよ、と呉さんは首を左右に振った。
「その前に、ちゃんと自己紹介しないとダメですよ」
ああ、と私は頷いた。確かに聞いたことがある――二十四時間、ひっきりなしに参拝客が現れるのだから、台湾の神様はとても忙しい。だから、願いを叶えてあげるべき相手を間違えることがある――そうさせない為に、台湾人は必ず、願いをする前に自己紹介をするのだ。必ず口にするのは、住所、氏名、生年月日、職業、そして――ID番号。
そうです、と呉さんは頷いた。
「台湾人はしょっちゅう参拝に行って、願い事をします――だから、自分のID番号を完璧に覚えるんですね。でも、たまには記憶力の悪い人もいる――まさしく、劉がそうだったんですね」
勝負を終えた後――ひとしきり呆然とした後、そして役に立たなかった孤魂への怒りを浮かべた後――ようやく、劉は気付いたのだ。陰廟で願い事をした際、ID番号を伝え間違えていたことを。だから、孤魂が彼を助けてくれることなど、あり得なかったことを。
「まあそれで、劉は自分自身にホトホトあきれ果てて――結局、ギャンブルからすっぱり足を洗って、真面目に暮らし始めたそうです。――ちなみに、二〇二二年の法改正で、オンラインカジノも犯罪だと認定されましたから、彼は犯罪行為から足を洗ったことにもなりますね」
それは良かったですね、と私は頷いた。陰廟へ祈りを捧げたことで、人が更生したことになる――結果的に、孤魂も良いことをしたことになる。
そうですね、と呉さんは頷いた後、ただしね、と言った。
「劉が間違えて口にしたID番号の人が、存在しなければいいのですけどね」
もしそんな人がいれば――その人は、ギャンブルで勝利をしまくったのかも知れない。けれども彼もしくは彼女は、その勝利の背後に孤魂がいることなど知らない、だから勿論還願なんてしない――となれば、その人物は、孤魂から恐ろしい祟りを受けることになる……。
それが私自身の番号でないことを、私はとりあえず神様に祈った――孤魂ではなく。
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