天狗と少年の夏

hekisei

第1話 天狗の山

 陽太ようたは車の窓から流れていく緑の山々を眺めていた。

 夏休みの始まりだというのに、心は重い。

 両親の離婚が避けられないことは、彼にもはっきりと分かっていた。

 それでもどこかで奇跡が起きて、二人が仲直りしてくれるのではないかと期待してしまう。

 だが、そんな思いは父親の横顔を見るたびに打ち消された。


 「陽太、着いたぞ」 


 父親の声に現実に引き戻される。

 車は小さな山間の村にたどり着いていた。

 村全体が薄い霧に包まれ、まるで時間が止まったかのような静けさだった。


 父親の実家に着くと、祖父母がにこやかに迎えてくれたが、陽太の返事は生返事ばかりだった。

 鞄を抱えて家に入ったものの、どこか落ち着かない。



 翌日、陽太は暇を持て余していた。

 村には遊ぶ場所もないし、友達もいない。

 スマホの電波も弱く、ネットで時間を潰すこともできない。

 仕方なく家の周りを散策することにした。


 村外れにある山道を登ると、蝉の声が耳を覆うように響いていた。

 ふと、風が吹いた。

 暑さでじっとりと汗ばんだ身体を冷やしてくれる心地よい風――と思った次の瞬間、風はまるで生き物のように方向を変え、陽太を包み込むように渦を巻き始めた。


「えっ?」


 思わず足を止める。

 風が強まり、砂埃が舞い上がる。

 目を細めながら、陽太は風の中心を見つめた。

 そこには、ぼんやりと人影のようなものが浮かび上がってきた。


「誰だ、お前は!」


 突然、声がした。

 陽太が驚いて目を見開くと、風の中から少年のような姿が現れた。

 少年は肩までの黒髪に、赤い頬と大きな目をしていた。

 その手には奇妙な形の団扇うちわを握っている。

 普通の人間とは違うと直感した。

 なぜなら、彼には背中に小さな翼のようなものが生えていたからだ。


「え、天狗?」


 陽太は声を上げた。

 子供の頃に聞いた昔話の天狗を思い出したからだ。


「天狗って言うな」


 少年はムッとした顔をして叫んだ。


「まあ、間違いじゃないけどな。俺は天狗のナツイ。お前、人間だろ。なんでこんなところにいるんだ」

「なんでって、別に……ただの散歩だよ」


 陽太は戸惑いながら答えた。

 目の前の少年――いや、ナツイと名乗った天狗の存在感に圧倒されていた。


「ふーん。退屈だったのか」


 ナツイは陽太をじっと見つめると、羽団扇はうちわをひらひらと動かした。

 その動きに合わせて風が舞い、周囲の木々がざわめいた。


「お前、面白いな。普通の人間なら、俺に会った瞬間ビビって逃げるのに」

「いや、普通にびっくりしたけど……。それより、お前こそなんでこんなところにいるんだよ」


 陽太の質問に、ナツイは少し不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「俺の山だからだよ。ここは俺が守るべき場所なんだ。でもさ、面倒くさい試練とかあってさ、それが終わらないと本当の力が使えないんだよ」

「試練?」

「そう。天狗として一人前になるための試練。だけど、そんな馬鹿馬鹿しい事やってられないから、サボって遊んでるんだ」


 ナツイは肩をすくめて笑った。

 その無邪気な笑顔に、陽太は少しだけ気が緩んだ。


「お前、すごい力持ってるんだろ? だったら簡単に終わらせればいいじゃん」

「簡単じゃないんだよ! 試練ってのは、ただ力を使えばいいってもんじゃないんだ。知恵とか心とか、そういうのも試されるんだよ。でも、そんなのめんどくさいだろ」


 ナツイの愚痴に、陽太は思わず笑いそうになった。

 目の前の天狗が、なんだか自分と似たような感覚を持っているように思えたからだ。

 どちらも、目の前の問題から目をそらしたいと思っている。


 ふと、陽太は足元に目をやった。そこには、ナツイが握っているものと同じ形で色違いの羽団扇はうちわが落ちていた。


「これ……お前の?」


 陽太は拾い上げてナツイに見せた。

 ナツイの目が見開かれる。


「あっ、それ俺のじゃない! でもそれ、なんでここに……?」


 ナツイは急に慌てだし、羽団扇を取り戻そうとしたが、陽太は咄嗟に引っ込めた。


「ちょっと待てよ。これ、なんか大事なものなんじゃないの?」

「当たり前だろ。それは風を操る力を持つ特別な扇なんだ。お前みたいな人間が持つもんじゃない!」

「いいじゃないか、ちょっとの間だけだよ」

「まあ、いいか。お前、人間のくせにちょっと変わってるな。どうせ暇なんだろ。俺と遊ぼうぜ」


 ナツイがそう言って手を差し出した。

 その手を見つめながら、陽太は少し迷った。

 だが、この山奥で出会った不思議な存在との時間が、なんだか悪くない気がした。


「……わかったよ」


 そう答えると、ナツイは満足げに笑い、陽太を引っ張るようにして山道を駆け出した。

 こうして、陽太とナツイの奇妙な夏の冒険が始まったのだった。

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