4-7

 楓くんとの日々は楽しかった。


 毎朝私がお味噌汁を作って、一緒に朝ご飯を食べて、お昼はゆっくりして、夕方になれば神社を探しに出かける。


 あの夏の延長で、私だけの夏だった。


 楓くんとの新しい日常は、神社を描くだけではなかった。山村に行ったときは、たまたま出会ったおばあさんに麦わら帽子を貰って、その姿を描いてもらった。ある日は、赴いた神社で人が多すぎて、結局車中の私の寝顔を描かれた。恥ずかしかった。


 雨の日には家に籠った。本を読む私を楓くんは描いていた。


 あの夏にはない私を、たくさん描いてもらった。


 それはどれも、雨谷涼夏にはなかったもので、今を生きている私だからこそ、実現できたものだ。神社と私という被写体で描くことで、過去をなぞって塗りつぶしながら、今の私という被写体をなぞった線に肉付けしている。


 その日常に、楓くんは私のことを見てくれていると錯覚していた。そう、錯覚なんだ。


 結局のところ、楓くんはやっぱり、私を通して過去の雨谷涼夏を見つめていた。


 楓くんはどうにも、神社と私という題材に満足していないみたいだった。対して、今の私を描いたものには――、特に私と向日葵畑にはしっくり来ているみたいだった。


 私には絵の良し悪しは分からない。だから二種類の絵の感想を聞かれたとき、私は「どっちも好き」と答える。そして、楓くんはやっぱりどこか引っ掛かりを覚えている。


 それは、私を通して見た雨谷涼夏か、私を通して見た私かの違いなんじゃないかな。神社と私は、単なる過去の再現だ。私からすれば、雨谷涼夏を模倣しているに過ぎない。楓くんにとっても、過去の模倣なんだろうけれど、その先で私たちが見ていたのは結局、雨谷涼夏だったんだ。でも、向日葵畑の絵とか、本を読む私とか、それらの絵の奥に雨谷涼夏はいない。私という線に私が重なっている。


 そこで生まれる僅かなギャップが、楓くんの心に突っかかっていたんだと、私は思っている。


 私の目論見としては、私の線でそのギャップそのものを見えなくしてしまいたかった。本当に、雨谷涼夏に関わる一切合切を、私で塗りつぶしてやりたかった。


 でも、なかなか上手くはいかないね。楓くんはずっと、そのギャップが目についているみたいだった。



 楓くんと暮らすようになってから日記を書き始めたのは、少しでも雨谷涼夏とは違う私を作るためだった。彼女を正確に模倣したところで、多少のズレが生じる。ギャップが生まれる。楓くんはそこに過敏に反応して、過去の雨谷涼夏に目を向ける。


 それならば、なぞる線を太くしてしまえばいいと思った。簡単に言い換えると、私に多様な属性を付け足すべきだと思ったんだ。


 読書もその一環だ。雨谷涼夏には存在しない要素を付け足すことで、私の輪郭をより鮮明にしていく。そして、私が書いた文章が、楓くんの中で重なって増えていく。過去なんて埋もれさせてやろうと思った。


 私が日記を書くことを楓くんに提案したとき、楓くんは絵日記でも作ろうかと言ったよね。結局、私が自分の日記を楓くんにひけらかすようなことはしなかったから、絵日記を作るには至らなかったけど、私を描いた絵と、私が書いた文章をいつか並べて見てほしい。


 そのために、この手紙と一緒に私の日記を袋に入れておいたんだ。


 だから、私がこの日常に何を感じて何を見たのか、楓くんには読んでほしいな。この手紙を読み終わった後でもいい。私の足跡を、感じてほしい。


 今でも、手紙を書く傍らで日記を書いている。とは言っても、ずっと手紙を書いているだけなので、日記に記すべき事柄は一行にも満たない。そういう日は、思ったことや考えたことを綴っている。ポエムのような、そういうもの。ちょっと恥ずかしいからあまり見られたくはないけど、何かの創作の足しにでもしてくれたらいいと思う。



 少し話は逸れたけど、私は過去を全部塗りつぶしてやりたかった。結論から書いてしまえば、それはできなかった。楓くんは、どれだけ私の線を太くしたところで、私の後ろにいる雨谷涼夏とのごく僅かな差異を見逃さなかった。見逃せなかった。


 何かが違う。何かがずれている。


 楓くんはそれを機敏に感じ取って、私ではなく私の線から少しはみ出した、雨谷涼夏の輪郭を正確に捉えていた。



 雨の降った日に、楓くんの作った音楽を聴かせてもらった。合成音声という機械の声に歌わせる歌で、あまり聴いたことのないタイプの音楽だった。そもそも、私はそれほど音楽を聴いてきていないから、音楽について語れるほどの知識はないんだけれどね。


 楓くんは自分の作ったものを、「他人の模倣品」、「くだらないもの」、「どこかで読んだような、どこかで聴いたようなもの」、「パクリ」と称していた。


 私には創作のことはあまりよく分からないし、楓くんがどんな小説や音楽に影響を受けているのかは分からない。けれど、そこで歌われていたのは紛れもなく雨谷涼夏のことだった。


 あの夏の、楓くんから見た雨谷涼夏だったんだ。この音楽を聴いた他の人には分からないかもしれない。けれど、私には分かる。これは、ただ一人のために唄われた歌だ。


 だから私は、その音楽たちに感動した。


 楓くんの想いが――、雨谷涼夏の「私のことをこれからも描いてほしいの」という言葉の重みが、どれだけ強いのかを思い知った。


 いや、私は知っていたはずなんだ。楓くんと雨谷涼夏の結びつきがとてつもなく強固で、誰も邪魔できないことを。彼女のフェイカーである私でさえも、その間に入り込む余地はないということを。


 思い出させられた。思い出さざるを得なかった。


 私の想いなんてものは、最初から負けていたんだ。結局私は、雨谷涼夏の劣化コピーでしかなかった。偽物が本物に敵うはずがないんだ。



 本当にそうだろうか?



 偽物は本当に本物に敵わないのだろうか?


 楓くんは自分の創作物を他人の模倣品だと言った。パクリだと言った。それは、雨谷涼夏の劣化コピーである私と同じだ。


 でも、私はそんな劣化コピーの楓くんの歌を聴いて、感動した。心が何かに打ち付けられるような、心地の良い殴打感があった。


 楓くんにとっては、楓くんが影響を受けたどんな作品よりも劣ったものなんだろう。でも、私にとっては、世界で一番感動した音楽になった。


 偽物だって、誰かの一番になろうと思えばなれるんだ。


 だから私は諦めなかった。楓くんのことを諦められなかった。


 ただ、少しだけ戦い方を変える必要があるような気がした。


「楓くんはさ、昔の私と今の私、どっちが好き?」


 私が楓くんにそう尋ねたとき、楓くんは回答に困っていた。あのときの楓くんは多分、目の前にいる雨谷涼夏の見た目の私と、記憶の中の雨谷涼夏が別物であると理解しながらも、同じ地続きの存在として解釈していたんじゃないかな。だから、どちらかに優劣をつけられなかった。


 あのとき、昔の私の方が好きだったと言われなくて良かったなと思う。もしそう言われていたら、私は彼女に勝てる余地がなかった。何をしたって無駄だろうと、この恋を手放していた。


 楓くんが迷ったから、私は過去の雨谷涼夏にはできないやり方で、私の唯一優れた手段で、楓くんを意識させることにした。


「私で上書きさせてくれないかな」


 私が放ったその言葉は、私の覚悟の言葉でもあった。そして、決意の言葉でもあった。


 雨谷涼夏のフェイカーとしてではなく、一個人の人間として愛してもらう。


 私を私として意識してもらう。今、楓くんの隣にいて、一緒に笑い合って、触れられるのは、過去の雨谷涼夏ではなくて、今の私だから。今の私が唯一彼女に勝るものは、それだけしかなかったから。


 私は楓くんに口づけをする。これは雨谷涼夏にはできないこと。「さすがにちょっと恥ずかしいね」と照れくさそうに笑いかける。これも雨谷涼夏にはできないこと。


 私にしかできないこと。


 私の突然の行動に、楓くんは驚いて口をぽかりと開けていた。


 その目は私を真っ直ぐに見ていた。私の奥にいる雨谷涼夏ではなくて、私個人を、じっと見つめていた。

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