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 それから、楓くんは明らかに私を意識するようになった。私も、もっと意識させようと思って必要以上に楓くんに触れた。距離を近づけた。


 我ながら、さすがにちょっと卑しいんじゃないかと思ったけど、雨谷涼夏に勝てる部分はこれしかないのだから、これを使わずして楓くんを振り向かせることなんてできないだろう。


 効果は私が思っていたよりも顕著に現れた。肩を寄せれば楓くんの熱が服を通り越して伝わった。楓くんの鼓動の音が聞こえて、それが徐々に激しくなっていくのも分かった。


 キスをしたぐらいで意識してしまうなんて楓くんも男の子だなぁ、なんて、自分のことを棚に上げながら思っていた。


 夏の暑さのせいにするには少し、私たちの間で交わされる熱はちょっとだけ暑すぎた気もする。楓くんだけではなくて、私も楓くんのことを強く意識していた。


 改めて、楓くんのことを振り向かせようと考えると、自分がいかに楓くんのことが好きなのかを、否応なく実感させられる。


 夏祭りに行ったときだってそうだった。


 私は気合を入れて、浴衣を着てみた。人生初の浴衣だ。楓くんはどんな私が好みなんだろうとか、そんなことを考えて、白地に向日葵の図柄が単色で描かれている浴衣を選んだ。


 楓くんは私と向日葵の組み合わせが好きみたいだったから、それを選んだ。似合っていると言ってくれた。とても嬉しかった。


 向日葵は私にとって特別だった。好きな花を聞かれることがあったら、私は向日葵と答えるだろう。


 向日葵は夏の象徴だ。焼くような日差しに向かって、花火みたいに大きな花を咲かせている。ふとしたときに目について、夏を感じさせる一要素。それなのに、あの夏に向日葵はいなかった。楓くんの中で、雨谷涼夏と向日葵は結び付かない。向日葵は、楓くんの中では私と結びついていたんだ。それがたまらなく嬉しかった。


 きっと楓くんは、向日葵を見るたびに雨谷涼夏ではなく私を思い出すんじゃないかな。そうだったらいいなと思う。


 ともかく、その日は夏祭りを満喫した。私も楓くんも夏祭りに来るのは初めてだから、人の流れも、浮ついた喧騒も、屋台の臭いも、全部が初めての経験だった。


 そうして私は、楓くんとの初めてを一つずつ塗りつぶしていく。楓くんといろんな新しいことを経験して、新しい思い出を作る。楓くんの思い出を上書きしていく。


 そうして夏祭りの最後に、花火が夜空を彩る。


 楓くんの隣にいることで早鐘を打つ心臓を、容赦なく破裂音が揺さぶる。「花火だ」と言った楓くんに釣られて、私は空を見上げようとする。視界には楓くんの横顔が映る。


 楓くんはずっと上を見上げていたから、気がつかなかったかもしれないけれど、私はこのとき花火じゃなくて、ずっと楓くんを見ていた。私には、楓くんしか見えていなかった。


 私の夏をキャンバスに例えるなら、私が生まれてからずっと、私の白いキャンバスは楓くんという単色の絵の具で厚塗りされ続けていた。楓くんの存在が、私の中で嵩んで、心を圧迫して、息を苦しくして、頬を染めて、心臓を速めていた。


 楓くんのことがどうしようもなく好きだった。



 花火が終わって、楓くんが「そろそろ行こうか」と私の手を引く。私は、この楽しくて幸せな時間が終わってしまうことが、とても惜しかった。帰りたくなかった。終わらないでほしかった。この時間が、この夏が。


 雨谷涼夏の劣化コピーである私は、いつの間にか雨谷涼夏と同じ考えに辿り着いていた。同じ考え、というのは、幸せなまま死にたいとかそういう希死念慮のことじゃない。私はずっと生きていたいし、ずっと楓くんの隣にいたい。


 雨谷涼夏と同じ考えというのは、この夏が終わることを恐れているということだ。


 もしかしたら、このときの私は、今こうして私が手紙を遺すに至ることを、詳細までではないけれど、なんとなく予想していたんじゃないかな。想像できていたんじゃないかな。


 なんとなく、心のどこかで、楓くんを振り向かせようとしても、それは結局失敗して、楓くんはずっとあの夏の雨谷涼夏を見つめていて、私は消えるしかない。そういう可能性を感じ取っていたんじゃないかな。


 だからあのときの私は、終わりが来てもおかしくないこの夏に、どうしてもしがみついていたかった。


 結局、あの後そのまま帰るようなことはなくて、楓くんは二人で線香花火をすることを提案した。私はほっとした。


 近くのコンビニで、着火ライターと水と花火を買う。神社までは少しだけ距離があって、慣れない下駄を履いていた私は少し疲れてしまっていた。


 私の足取りが覚束ないのを見てか、楓くんは黙って私を負ぶった。


 私もちゃんと女の子なので、重くないかなとかそういうことを考えていた。


 楓くんが石階段を登る足取りに合わせて、私の体が揺れる。


 何組かのカップルとすれ違う。ときどき視線を感じて、なんだか恥ずかしかった。石階段を登りきると、そこには誰もいなくて、まるであの夏の神社のようだった。


 楓くんは私を境内に座るように降ろして、一人花火の準備をする。楓くんに手招きされて、私は駆け寄る。花火を手渡され、楓くんは先端に火を点した。


 細い枝から迸る、鮮やかな火花が辺りを照らしていた。そうして一つの火種を二人で分け合って、私はずっとこんな風にいられたらいいなと思った。


 二人で一つのことを分け合って、それを繋いでいって、未来に向かって生きていく。私と楓くんなら、それができるんじゃないかと思っていた。それが多分、私が本来のフェイカーとして生きていた時に享受できた幸せなんだと思う。


 そう、私はこのとき幸せだったんだ。


 花火が最後の二本になったとき、私は楓くんに勝負を持ちかけた。線香花火の勝負だ。かつて、雨谷涼夏が楓くんとやったことだ。つまりは過去の模倣の一つ。そして、楓くんに呪いが掛かってしまった要因の一つ。


 あのときは、雨谷涼夏が勝ったことで、楓くんはその呪いに囚われることとなった。


「私のことをこれからも描いてほしいの」


 その言葉が、楓くんをあの夏に縛っている。


 私は勝負に勝つつもりでいた。私が勝って、楓くんに私のお願いを聞いてもらう。楓くんにかかった呪いを、私の新しい呪いで上書きする。お願いの文言は決めていた。


「雨谷涼夏のことを忘れてほしいの」


 それはもしかしたら、ただの告白だったかもしれない。このときに私の全部をぶちまけるつもりだったのかもしれない。


 雨谷涼夏を忘れて、私を見て。私だけを見て。私だけを描いて、私だけをその指先に宿らせて。私の輪郭だけをなぞって、私の声だけに色を感じて――、雨谷涼夏の皮を被った偽物から、私だけを見つけ出して。


 今になって、そういう訴えが指先から零れ出る。もしもあのとき、私が勝負に勝っていたら、楓くんは私のお願いを聞いてくれただろうか。


 私の嫉妬心にも似た感情をばら撒くことで、楓くんは私のことを嫌いになったりしないだろうか。


 あのときの私は、私の内側を曝け出したかった。けれど、楓くんがどう思うのか、怖くてできなかった。手元が震えた。線香花火の先から、火花の蜜が落ちた。


 負けて少し安心した。このときの私は臆病だった。


「俺は雨谷涼夏がいないと生きていけないんだ」


 楓くんのお願いを聞いた私に、楓くんはそう答えた。私の心臓が、息を詰まらせるように大きく脈打ったのが分かった。それが、どっちのことなのか、私のことなのか、あの夏の雨谷涼夏のことなのか、あのときは分からなかった。でも多分、楓くんはあの夏の雨谷涼夏のことを言っていたんだろうと思う。もしかしたら私も、分からないなりに頭のどこかでそう感じ取っていたのかもしれない。楓くんはこう続ける。「雨谷涼夏の呪いがないと、俺は空っぽの人間だ」と。


「だから、俺の中から消えないでほしいんだ」


 それが楓くんの答えなんだと思った。私の全ての行動に対する、答えなんだと思った。雨谷涼夏を塗りつぶそうとする私の行いに、楓くんはこのときには気がついていたんだね。意識的か無意識的か分からないけど、楓くんは雨谷涼夏が上書きされることを恐れていた。私の存在を怖がっていた。


 多分私のこの考えは、あながち間違いではないと思う。


 やっぱり私は、楓くんの隣にいるべきじゃないんじゃないかと思った。


 私個人は、楓くんの前から姿を消すつもりはなかった。ずっと一緒にいたいと思った。ずっと一緒にいて、この日の花火のように、互いに時間を共有したいと思っていた。


 けれど、楓くんがそれを望んでいないのだとすれば、私は楓くんの願いに対して、「どこにも行かないよ」とは言えなかった。代わりに口から出てきたのは「私も、楓くんと一緒にいたいよ」というなんてことのない大きすぎる望みだった。


 最初から分かりきっていたことだ。私は生まれたときから失恋している。


 それでも私は、それに気づかないふりをして、失った恋に手を伸ばしていた。楓くんのことが好きな気持ちに嘘は吐けなかった。


 このときの感情を、私は雨谷涼夏の置き土産だとは思わない。最初はそうだったかもしれないけれど、やっぱり楓くんは私にとっての神様に他ならなかった。

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