第38話 朝比奈透花のサイン(遼君限定)

 そう言って俺は朝比奈に手を差し出した。


「帰ろう朝比奈、いつもの部屋に」

「うん……」


 朝比奈は小さくうなずいて、その手を握り返してくれた。指先は少し冷たかったけれど、心がじんわりと温かくなった。


 俺は、朝比奈の手を引いて、ゆっくりと駅の構内を後にした。


 外の空気は思ったよりもひんやりしていて、さっきまでいた構内の熱気が嘘みたいだ。近くにあるビルの影が長く伸びて、なんだか時間の感覚が曖昧になってしまう。


 無意識に少しだけ手に力を込めると、朝比奈もそっと握り返してくれる。その一瞬の応答だけで、言葉以上のものが通じ合っている気がした。


「……本当に良かったの?」

「なにが?」

「芸能界のこと」


 短い沈黙のあと、すぐに朝比奈からはっきりとした声が返ってきた。


「私、元から戻るつもりなかったから」

「そうなの?」

「うん。前もってお母さんにそのことを話そうと思ってたら、こんな騒ぎになっちゃって……」

「そうだったんだ……」

「私、そもそも、人前に出るのが得意じゃないから……」

「どの口が言うんだか」


 ふっと笑ってしまった。きっと、これが素の朝比奈なんだろうな。

 みんなの期待に応えたくて、ずっと無理をしながら、無我夢中で走り続けて……。その結果、気がつけばとんでもない場所に辿り着いていた――もし、それが朝比奈のお母さんの言う“才能”だとしたら、彼女は紛れもなく天才だったのだろう。


「遼君、おんぶして……足に力が入んない……」

「いや、俺、膝が……」

「……あっ、ごめん」


 しまった! 余計なことを言って、朝比奈に気を遣わせてしまった。


「はい」


 俺はかがんで朝比奈に背中を見せた。


「でも遼君、怪我が……」

「好きな女の子を背負えないほどじゃないって」


 不安だったけど、カッコつけたかった。朝比奈が恐る恐る、俺に体を預けてくる。


「無理しないでね」

「楽勝、楽勝」


 朝比奈の体は思ったよりも軽かった。

 よし。これなら多少、膝が痛んでもこのまま立ち上がって――。


(あれ?)


 痛みが……ない。あんなに走った後なのに不思議なくらいなにも感じない。


「……俺も、昔の傷なんて気にしてられないな」

「遼君?」

「ううん、なんでもない」


 俺は、朝比奈を背負ったままゆっくり歩き出した。


「ごめんね。俺、朝比奈のお母さんにかなり失礼なこと言ったかも」

「大丈夫……うちのお母さん、いつもあんな感じだから」


 背中越しの声は、どこか安心したような響きだった。


「遼君が本気で怒ってくれたの嬉しかった。ちょっとだけ怖かったけど」

「それはごめんって」

「遼君もあんな風に怒ることあるんだね」

「自分でもびっくりしてる」


 俺の背中に、ほんの少しだけ重みが増した。


「私、今日は遼君がヒーローに見えたよ……」

「大袈裟だなぁ」

「役では囚われのお姫様って演じたことあったんだよ? でも、本物ってこんな気持ちになるんだぁって思ってた……」

「お、俺が死ぬほど必死になっているときになんてのんきなことを!」

「だって、死ぬほど嬉しかっただもん」

「勝手に死ぬな」

「遼君も死ぬって言った!」


 いつも通りの会話が、ささくれ立っていた心を少しずつ癒していく。もうさ、タイミングとか考えないで言えるときに言ってしまおう。今回、それを間違えてしまったところもあるから。


「……俺さ、朝比奈に伝えたいことがあるんだ」

「あっ、ちょっとそこのコンビニに寄ってもいい?」

「このタイミングでぇえええええ!?」

「欲しがり屋さんがいるから」


 そう言って朝比奈が俺の背中から下りて、コンビニに行ってしまった。

 

 朝比奈らしいというか、なんというか……。


 頼むからもう普通に言わせてほしいんだけど……。まぁ、そんな朝比奈を好きになったんだから仕方ないんだけどさ。


 不完全燃焼な気持ちのままで外で待っていると、すぐに朝比奈がコンビニから戻ってきて、ビニール袋の中から一枚の色紙とマジックペンを取り出した。


「あー、今じゃなくてもいいのに」

「今、私が書きたいの」

「左様ですか」


 朝比奈が慣れた手つきで色紙の上にマジックを走らせる。すぐに完成させると、その色紙を俺に両手で渡してきた。


「これ、芸能人“朝比奈透花”の最後のサインです。受け取ってくれますか?」

「……ありがとう。そう言われるとなんか寂しくなっちゃうな」

「遼君限定サインだからね」


 芸能界の引退――朝比奈が決めたことだから、俺はそれを尊重したいし、正直なところかなり安心もしている。でも、もうあのキラキラした世界の彼女を見られないことに、寂しさも感じてしまっている自分もいる。これはもう、俺のワガママでしかないよね。それくらいどっちの朝比奈のことも好きだったんだと思う。


 しんみりしながら、そのサインに目を落とす。色紙には、普段の生活からはとても考えられないくらい達筆な朝比奈のサインが書いてあった。


 そして――。


「朝比奈、これ……」

「わ、私の気持ちだからね……」


 朝比奈は視線を逸らしながら、照れ隠しのように髪を耳にかけている。朝比奈のサインの上には、可愛らしい字で更にこんなことが書いてあった。



“好きです。私、ずっとあなたのそばにいたいです”



 その文字を見た瞬間、俺は気持ちがあふれて、気がついたら彼女のことを抱きしめてしまっていた。


「俺も透花のことが好きです……! 今も昔も全部、ひっくるめて朝比奈透花のことが好きなんです」

「本当に私なんかでいいんですか……?」

「なんかじゃない。俺、透花じゃないとダメなんだよ」

「うん……うん……」


 朝比奈の手が俺の肩に回ってくる。


「私も遼君が好き……もう絶対に離れてあげないからね」


 俺たちは声を詰まらせながら、痛いくらいお互いのことを抱きしめ合っていた。

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