第三章 怪異⑥

 転覆した船の上に腰を落ち着ける。面々が疲弊した体を休める中、太陽だけはじっと海面を見つめていた。

 その腕には観世音像が抱かれている。穏やかな微笑みは変わらず海を見つめていた。

 文勝が「助けは来るんですかね。流されちゃったし、さすがに泳ぐのは辛い距離ですよ」と呟く。涼太郎は時計を確認して「三時間ちょっともすれば押し戻されるんじゃないかな。陸はちゃんと見えているし大丈夫だ」と答えた。

「三時間もここにいるのか」と文勝はがっくり肩を落としながらライトを頭上に振り回した。

 彼らの会話も聞かずに太陽はただ海を見つめていた。度々観世音像を撫でるから「やらんぞ」と行信が言うと、無言で像を押し付けた。

 行信は困り果てながら僧衣の裾を絞った。

「帰ったら立派な葬式を上げてやればいい。あれだけ人間らしくしてたなら参列したがる知人も多いんじゃないか」

「住職!」

「いつかは誰しもが向き合うことだ。いちいち他人の悲壮に付き合ってられるか」

「でも私たちは琳子さんのおかげで助かったんですよ。私たちだけじゃなくて、この先でんでんの犠牲になるはずだった人も」

「聖人も悪人も死んだら同じだ。みな浄土へ行く。そこでまた再会するんだと何度言えばわかる」

 太陽がじとりと顔を上げる。瞳には、悲しみとも諦めとも似つかない不思議な表情が浮かんでいた。

「再会したって全員が喜ぶと思うか?」

「琳子は喜ぶだろう」

「喜ばない。きっとブン殴られて終わりだ。何より浄土にいるのは〝琳子〟じゃない」

 怪異の琳子、という言葉を含ませて言ったことに気付いたのは、この場で涼太郎だけだった。

 人間の琳子には浄土で出会えるのだろう。しかし怪異の琳子はそこにいるのだろうか。

 どちらも太陽にとって大切な妹だった。守ってきたものをすべて亡くしたような絶望感が太陽の心を占めていた。

 涼太郎が狭い竜骨を器用に渡って太陽の横に腰かけた。復旧した河口からの光で、暗い夜に輪郭だけが浮かび上がっている。

「ちゃんと弔ってやれ。人間の琳子さん、葬式はやっていないんだろう?」

 太陽が頷いたのが見えたのか、見えていないのか。声を落としながら涼太郎は太陽だけに話した。

「どちらが琳子さんでも、どちらも琳子さんでもいいだろうよ。しかし区切りをつけないと君はずっと呪われる」

「呪われる?」

「そうだ。遺体をどうしたのかわからないが、隠して世間に嘘を吐いた自分に呪われている。だから異常なほど琳子さんに献身的だし、自分の身も投げ出そうとする。不健康極まりない」

「どうしろって言うんだ」

「自首かな。せいぜい生きて罪を贖え」

「そうか」と太陽が初めて自覚したように息をついた。

「俺は自首しなきゃいけないことをしたんだな」

「そうだ。それも琳子さんのためじゃなく、自分のために」

 涼太郎がきっぱりと言い捨てる。それは彼の微かな思いやりだった。

 琳子のためだと思ってやっていたことをしっかり否定されたのに、不思議と太陽は腹が立たなかった。

 きっと誰かにそう言ってほしかったのだ。どこかでこの歪みを手放したかった。

 自分の手が汚れていないか確かめるように、太陽は手のひらを見つめた。

 海水でべたついた肌は血を浴びたようだった。五年前の風呂場みたいな水の香りが彼の周囲に浮かんでいる。

 乾いた血の感触は海水の汚れによく似ていた。ねばついて少し動くだけで嫌な音がして、ただただ不快だ。

 ただいま、と怪異の琳子が帰ってきて、玄関を開けた時からきっと歯車が狂ったのだろう。しかし妹に救われていたのも太陽にとってはまた事実だった。

「影法師がどんな怪異なのかって、最初会った頃言ってたな」

 涼太郎は黙って太陽の言葉を待った。

 行信と文勝も耳を傾けていたが、素知らぬふりで海を眺める。穏やかで優しい、生命の湖がゆったりと彼らの足元を包んでいた。

「影法師は水辺に縁があるらしいんだ。井戸を覗いていて引き込まれるとか、水面の影を奪われるとか。琳子がどういう風に影法師に出会ったかはわからないけど、影法師は何も知らないまま、ただ映った者の真似をするって言い伝えが多かった」

「琳子さんもそうなのかな」

「たぶん。琳子が覗き込んだ水辺か何かにそれがいて、琳子が弱ったからそのまま〝琳子〟に成った。推測だけど」

 だから、と太陽は毒が抜けた顔を涼太郎に向けた。夜で表情はわからなかったが、何かが落ちたような清々しさが太陽にはあった。

「元が何だって、俺にとってはどっちも大切な妹だ。それだけは絶対だ」

 話し声に涙がにじみ出す。顔まで覆った汚れを洗い流すように涙が太陽の頬を伝っていく。

 それを拭えるものなど誰も持っていなかったし、拭ってやる気もなかった。太陽はただ静かに泣いた。

 涙が海へと落ちていく。琳子が消えた海だ。水から生まれて水へ消えていくのは、彼女の運命だったのだろうか。

 涼太郎が迷いがちに話し始めた。

「人は呪われないように人を弔うし、罪を償う。自然にそういう仕組みを作ってきたんだ。流れに逆らえばほころびができる」

「俺は逆らったって言いたいのか?」

「そうだ。だからほころびを綺麗に戻せ。ちゃんと償って浄土で人間の琳子さんに会うと良い。阿弥陀様の機嫌が良ければ怪異の琳子さんもいるだろうよ」

「そうだな、考えておく」とこぼして太陽はまた黙り込んだ。

 どぷりと暗い夜に波が揺れる。境界線はどこにもない。彼らはただそこで朝を待つしかなく、その無力さが自然に放り出された人間特有の哀情となって、ゆったりと肌の間を通り抜けていった。

 それは夏の香りだった。

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