第三章 怪異⑤

 猛スピードで並走していた車が河口にかかるカーブに激突する。

 派手な音を立てながら車が宙を飛んだ。

 ほんの少し滑空した車が、横転しながら川へと転げ落ちる。一度息をついた行信が慌ててモーターボートのアクセルを踏み直した。

 死骸の絡まったモーターが悲鳴を上げる。

 車はすぐ後ろで着水して、ボートは衝撃で大きく揺れながら海へ出た。


 でん、ででん。

 太鼓の音が続いていた。

 伏せていた面々が顔を上げると、車が頭から川に突っ込んで黒煙が広がっている。ガソリンが流れ出て潮と混ざり、ツンと嫌な香りがした。

 恐怖の塊が車を覆うようにしていた。様子を伺おうと車内を覗き込んでいる。

「佐々木の車だ」と太陽が呟く。

「アイツが死んだのか?」と行信が運転席から顔を覗かせた。

 でんでんの腕が飽きたようにぐるりと海を向いた。涼太郎がそれを見て「いや」と苦々しく答えた。

「まだ終わってない」

 ででん、と太鼓が鳴る。海に反響するようにして音がボートを揺らした。

 水を吸い込んだ泥が膨らむようにして、怪異がその身体を引きずり直した。ボートへ向けて、ぶるりと体を震わせる。

 水面に死骸が浮かび出す。

「行信!」と太陽が声を上げるが、ボートは発進しようとしなかった。代わりに行信の悲痛な声が上がる。

「ダメだ、モーターがイカれとる!」

 河口付近の電灯が音を立てて消えていく。暗闇が彼らに降りて、海と空の境界がわからなくなっていく。

 ででん、ででんと太鼓が近付く。

 怪異が波をかきわけて滑り寄る。ボートが上下に激しく揺れて、圧し掛かるように水面の虫やら魚やらがボートに積み上がっていく。

 ででん。

 強く太鼓が鳴って、怪異がぬらりと船を覗き込もうとする。観世音像が転がって、揺れた船の端から海へと転げ落ちた。

「観音様が!」と太陽が手を伸ばす。海がひどく波打って、時化の日みたいに船を食らおうと大口を開けた。

 危ない、と誰かが叫ぶ間もなく、天地が逆転した。

 真っ暗な海水の中で観世音像を掴む。木彫りのそれは浮き輪代わりになって、太陽はボートの端に頭を打った。

 思わず海中で目を開く。

太陽の眼前には数十本もの腕があった。叫び声の代わりに口からぼかりと泡が出る。

 観世音像を片手で抱いて、もがくように腕を振る。一瞬触れた怪異の指先は鮮魚のようにぬらりとしていた。

 すると、太陽の首がグンと強く引かれた。

 どこかへ引きずろうとする手にもがいていると急に空気の冷たさが後頭部に触れる。

「暴れるな!」と耳元で怒鳴ったのは行信だった。

 飲み込んだ水を懸命に吐き出す。内臓のすべてに水が詰まったような苦しさで、何度も咳き込みながら辺りを見回した。

 転覆した船の縁に琳子と涼太郎、文勝がしがみついている。一応は全員無事らしい。

 ただ周囲にはじっとりと重たい影が彼らを取り込んでいた。

 太鼓の音が囲うように鳴っていた。生き物が水中にいる時のように、泡がいくつも立っては弾けている。

 船のそばには須弥壇とライトが浮かんでいた。涼太郎をライトを取って周囲を照らすと、腕がそこら中に浮かんでいた。飾り物みたいに千切れて、次々に水面に上がっている。

 彼らの目の間には重たい泥の塊がいた。舌なめずりをするようにゆっくりと彼らに近付く。夜闇に溶け出して、今にも全員を食ってしまいそうな、真っ暗な穴のような恐怖そのものだ。

「止まらんな」と行信が呆れたように言った。

「全員負けらしい」

「どうして」と呟く太陽の頭を行信が撫でた。

「自然は変容するものだ。子孫だけ殺して満足していたのが、女、男と殺すようになり、何をしても止まらなくなった。もはや目の前にどれだけの人間がいるかもわかっていまい」

 涼太郎が持つライトが震えていた。怪異の影が海に落ちてどこまでも広がっている。

 少しずつ、でんでんは輪を縮めていた。太陽が観世音像ごと琳子を抱きしめる。妹はスッカリ濡れているのに温かかった。

 太鼓の音に囲まれて、全員が誰からということもなく一塊になった。

 ただひとり琳子だけがしかと前を見据えていた。

「お兄ちゃん」と凛とした声が水面を滑る。

「今わかった。私は怪異なんだね」

 琳子が静かに太陽の腕を離れた。像を兄に押し付けて、怪異の方へとゆっくり向きを変える。

「私、あの影になれるよ」

 恐怖を覆い隠すように琳子が口を吊り上げた。太陽が咄嗟に「ダメだ!」と伸ばそうとする手を払いのけて、琳子は行信を睨みつける。

「私アンタのこと大嫌いだから。ちゃんと始末しないとでんでんになって呪ってやる、クソ坊主」

 行信は一瞬唖然としてから、小さく「わかった」と了承して太陽ごと観世音像を抱いた。

「まさか、でんでんの影を奪うつもりか?」

「そうだよ。しっかり照らしててね涼太郎。アンタのことも大嫌い。文勝さんはありがとう」

 一息にそう告げて、琳子が輪に向かって泳ぎ出した。一瞬遅れて行信の腕の中で太陽が暴れて水しぶきが上がる。

「琳子さん! 戻れ!」と涼太郎が声を荒げた。しかし彼女は躊躇いなく怪異の方へと泳いでいく。

 文勝はただ動けなかった。手の喉も震えて、何もできないのだ。行信の腕の中で「離せ!」と太陽がもがき続ける。

「待て琳子! 行くな!」

 太陽が手を伸ばした先で琳子が振り向く。口が小さく「ありがとう」と動いた。

「琳子!」

 叫ぶのも無視して琳子は怪異へ一直線へと向かっていく。そして、とぷりと小さな音を立てて海中へ沈んだ。

 ででん。でん。

 でん。

 段々と太鼓の音が止んでいく。

 全員を囲っていた輪が少しずつ霧散して、海の闇に溶けていく。浮かんでいた虫や魚や腕がどろりと泥になっていく。

 水を膨らんで大きくなっていた怪異が、空気が抜けるように萎んでいくのを涼太郎のライトが照らしていた。

 琳子の姿は浮かんでこない。ただ、くっきりと主張する影が怪異の後ろに伸びている。

 行信が太陽を離して、両手を合わせて怪異に一礼した。文勝が慌ててそれにならう。

 短い念仏が始まる。観世音像を通してでんでんを慰めるためのそれは、小さな明かり以外何もない、海と空さえ混ざる夜闇にしみ込んでいく。

 極楽浄土の何たるやがどれほどでんでんの心を動かすのかは誰にも理解し得なかった。

 けれどきっとそこは、浦島子が婚姻を結んだ、神の娘の故郷を示すのだろう。

 琳子のおかげか、経文のおかげか。

 最後に太鼓の音を一度鳴らして――そうして、でんでんは沈黙した。

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