第三章 正義⑪
盆が過ぎて、昼の空が薄くなっていた。彼岸まで暑さは続くらしいが、少々和らいだ気温にようやく虫たちが活気を取り戻している。
部屋に入り込んだクモを外に逃がしてやって、太陽は布団を頭から被った。
基地環境対策課との会食以降、彼は部屋からほとんど出なくなっていた。少し前まで図書館やら寺やらと歩き回っていたのが嘘のように思えた。
仕事へ行く以外、どこへも行かないし誰と連絡するでもない。帰宅するなり隠れるように部屋に入り、それきり朝まで引きこもる。
ほとんど最低限しか食事を取らず、琳子と会話もしない。そんな状態がもう一週間も続いていた。彼の頭にはずっとでんでんや人間の琳子のことが渦巻いていて、これでいいのか、これでいいはずだと堂々巡り葛藤していた。
何より、怪異の琳子と顔を合わせるのが今さら怖くなっていたのだ。
琳子の遺体を処分して、母親を突き放して、でんでんを調べ回って、他人を犠牲にして。
自分が信じた正しさが曖昧になっていくほど、守ったものが正しいのかもわからなくなっていた。守ったものを目の当たりにすることが怖いのだ。
今日もすぐ布団に入って目をつぶっていた。寝てしまえば考えなくて済む。しかし、こんな時ほど脳が良く働いてくれる。
家の周りが静かなほど、遠くで太鼓が鳴っている気がした。でん、という音に起き上がり、心臓を落ち着けてまた布団に潜るのだ。
何も聞こえないようにベッドでじっと身を縮めていると、階段を上がる音が聞こえた。
控えめなノックのあと「お兄ちゃん」と心配する声が扉の向こうから聞こえる。
ガタンと扉の前に何かが置かれた。
「お夕飯、置いておくから。少しは食べないと倒れちゃうよ」
それじゃあ、と立ち去ろうとして、琳子は扉の前を所在なさげにうろついていた。しばらくするとスリッパの足音が止んで、フロアに座り込む音がする。
琳子はお盆のすぐ横に腰かけたらしい。彼女は少しの間そこでじっとしてから口を開いた。
「こんな感じなんだね」と小さな声で言うから、太陽は聞き逃さないように布団から顔を出すあ。
「私が部屋に引きこもった時、お兄ちゃんも不安だったのかなって。毎日こうして話しかけてきたじゃない。アレうっとうしいなと思ってたけど、お兄ちゃん心配だったんだね」
太陽がゆっくりベッドから体を起こす。その衣擦れは扉の向こうの琳子にも聞こえていた。
「お腹空いてないかな、喉乾いてないかな、ベッドの中で死んじゃわないかなって。そんなことばかり考えちゃう。大丈夫だとは思うんだけど」
琳子の声に段々と涙が混ざる。
太陽がベッドから出て扉の前に座ると、鼻水をすする音が向こうから聞こえた。
きっと廊下には夏の蒸し暑い空気が満ちている。蛍光灯が唸っている。怪異がそこらを歩くぺたぺたという足音だけがして、異様に寂しくなる。
扉の向こうに家族がいるのに孤独な気がするのだ。
この扉一枚が、人間と怪異を分けている。そんな気がしてむなしくなることを太陽はよく知っていた。
「お兄ちゃん、何があったの? 基地環境対策課だっけ。そこの人と会ってからおかしいよ」
なんでもない、ただの風邪だと言えばいいのに、その一言が太陽の喉に詰まるようだった。
扉の向こうにいるのは妹の姿をした怪異、人間ではない何か。
しかし太陽にとっては、人間でも怪異でも、かけがえのない妹に変わりなかった。
ただ〝妹〟を守りたかった。泣いてほしくなかった。腹を抱えて笑っていてほしかったのだ。
「お兄ちゃんどうしちゃったの? 何か話してよ。出てきてよ。せっかくいやな事件が終わるのに」
廊下で琳子が泣き続けている。
扉に寄りかかるようにして「聞いてもいいか」と言うと、琳子は噛みつくように「何?」と聞き返した。
「基地環境対策課はでんでんを捕まえない。これからも被害者が出る……でも琳子は無事だ。これでいいと思うか?」
「どういうこと?」
「向こうに情報を渡す代わりにお前は無罪放免。ただし、これからもでんでんの犠牲者が出る。そういう取引をしてきた」
琳子が驚いて息を飲み込む音がした。そして次の瞬間、声を上げる。
「バカ! そんなの絶対だめ!」
言葉に反射するように扉を開ける。そこには悲しさと怒りを混ぜ込んで複雑な表情の琳子と、夕食が乗ったお盆があった。
「この、バカ兄貴!」
拳を振り上げて泣く琳子につられて、太陽の頬を涙が流れていく。「信じられない!」と怒鳴りながら泣く琳子は不安から解放されたようにも、新たな不安を抱えたようにも見えた。
「また誰か死ぬなんて絶対だめ! 行信と涼太郎呼んで! 今すぐやめさせて!」
絶対にだめ、と琳子が繰り返す。きっと人間の琳子もそうしただろうと思える仕草だ。
人間の琳子は優しい子だった。そして、怪異の琳子もそうだ。どちらが正しくて、どちらが誤りというものではない。
廊下と部屋の空気が混ざってようやく夜らしい冷ややかさを取り戻していた。お盆に乗った食事に涙が落ちて、ラップの上を滑り落ちる。
夕食はミートソースのスパゲティだ。ずっと昔、幼い琳子が作ったのを美味しいと言ってやってから好物だと勘違いされたままだ。
「わかった、ごめん、ごめんな琳子」
謝っている相手がどちらの琳子か、もはや太陽自身もわかっていなかった。
眼前の彼女は、人間らしくて、けれど確かに怪異だ。人間の琳子は太陽が自らの手で処分した。
ただ、太陽は確かに〝琳子〟を愛しく想う。それだけが太陽に残された正義だった。
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