第三章 正義⑩
夜更けの空は晴れ渡っていた。涼太郎のマンションからは海と横浜の街が一望できて、もう十二時を回るのに夜景が煌々としている。
その光景に似合わず、涼太郎はげんなりと通話先の話を聞いていた。佐々木は電話の向こうでもう五分も話続けている。
自分がどれだけ優秀か、どれだけ調べ上げたか。面倒で無視していたせいか、話したいことが山ほどあるらしい。
リビングのソファに腰かけて、返事もおざなりにノートパソコンを立ち上げる。
佐々木の声をのぞけばひとりきりの静かな部屋で、メールを確認していく。
観世音像の行方を探させていた部下や知り合いからの連絡だ。いくつかの添付写真には賭場に出入りする行信の姿が映っている。
涼太郎は佐々木が満足するのを待って「太陽と行信は?」と聞いた。
佐々木は自慢げに『こちらに乗るそうです』と手もみする姿が見えそうな声色で言った。
基地環境対策課に任せた場合、民間人の被害に対する配慮は行わないという。その責任を見越した上層が提案を断ったから、うまく転がってくれそうな佐々木まで話が下ったのだろう。基地側が、何の考えもなしに末端に話を寄こすわけがない。
転がされた佐々木は良い心地に酔っているらしい。責任問題の詰め腹を切らされるのが自分だとは想定できていないのだろう。あるいはそれほどまでに昇進か称賛を熱望しているのか。
スッカリ静かになったリビングで、涼太郎は伸びをするように天井を仰いだ。もう父親の音は聞こえない。すっかり憑き物が落ちたらしい。
太陽と行信は佐々木の裏まで考えられる状況にないか、目先に何かをぶら下げられたか。いずれにせよこの話に乗ったらしい。
「つくづく、バカめ」と呟く。佐々木は呑気に『藤倉さん? 聞こえますか?』と話し続けていた。
焦った人間が奇行に走ることは涼太郎も身をもって知っていた。しかし、わざわざ手を差し伸べてやる道理もない。
「好きにしろ。決まったら連絡してくれ」と言うと、佐々木は喜んで通話を終えた。そうしてようやく、静かな部屋から外を眺める。
夜の鏡など恐ろしくてずっと見れていなかった。必ず父親の死にざまが見えていたのだ。
金が貯まると同時に逃げ出すように購入したマンションだったが、そう言えばこの景色が気に入ったんだったとふと思い出す。
琳子の容疑が晴れるなら、太陽が涼太郎の奇行を自ら漏らすこともないだろうと缶ビールを開ける。行信から大量に持たされたうちのひとつだ。
「しかし、太陽くんはそれでいいのかな」
ビールを舐めながら思い至る。
影法師が人間の真似をするのなら、真似をされた人間がいないと筋が通らない。聞けば琳子は中学生頃まで病気がちだったという。今の快活そのものな彼女からは想像ができなかった。
きっと人間の琳子は何らかの形で処分された。そして今、怪異の琳子が人間と一緒に生活している。しかも彼女はこの事件まで自分を怪異だとは露ほども考えていなかったらしい。
太陽の態度を見るに〝琳子の処分〟は不慮のものだったに違いないと涼太郎は推察していた。
嘘は別の嘘を呼ぶ。辻褄を合わせるために、人間の心も変形していく。異常さを無理やり正常らしく捻じ曲げた心はまともでいられるのだろうか。
「狂ってるな、彼は」
考え込んでいると涼太郎のスマートフォンが鳴った。液晶には母親の名前が表示されている。
涼太郎は反射的に少し背を伸ばした。深呼吸をしてから通話アイコンをタップすると、すぐさま金切り声が部屋を支配する。
『涼太郎さん! もう一か月よ!』
耳が痛いほどの声に顔をしかめて、涼太郎は「少し状況が変わったんです」と答えた。
『前もそんなことを言ってたじゃない! いつになったら怪異を処分する話題になるの!? 報道すらされないじゃない!』
「そのことですが……」と佐々木の電話内容を反芻する。
基地環境対策課が対応するにしても、そうならないとしても、警察の琳子やブブに対する心証は当初の想定から大きく変化していた。
そもそもスタートが無理やりだったのだ。怪異による殺人を恐れるあまり、現場の誰もが判断力を失っていたのだろう。
恐らく、彼女たちがまた容疑者に躍り出るのは難しいだろう。
「今回は難しいかもしれません」
涼太郎の答えに絶叫が響く。電話越しでも耳が痛くなるほどだった。
「あなたお父さんがどうして亡くなったのか忘れたの!? あの人の威信のためにがんばろうと思わないの!?」
義母が頭を掻きむしる姿が見えるようだった。涼太郎の実母も同じだった。愛人という立場に心を狂わせて、衰弱して死んでいった。
藤倉家に引き取られてからもその光景はかわることがなかった。義母は涼太郎に怒りをぶつけ、実子の弟ばかりを愛でる人だった。
彼女にとってずっと涼太郎は目障りな存在だった。それはいつからか、涼太郎もそれを自覚していた。だから委縮して良い子でいるようにしたのだ。
義母が声を荒げるたびに涼太郎の中でスイッチが入ったように呼吸が浅くなる。怒鳴り声に従順でないと、折檻をされるのだ。脳がそういう風に調教されていた。
義母の声を聞いていると、彼はいつも広い部屋の壁が迫ってくるような感覚に襲われる。いつの間にか手から力が抜けて、缶ビールが滑り落ちた。
液体が涼太郎の足に跳ねる。その冷たさにハッとして、思わず聞き入っていた電話から体を離した。
『聞いてるの!? 涼太郎! あなたはいつもすぐ話を聞かなくなるのね、叱ってあげても黙るばかり! まったくかわいげのない! あなたがそんなに頼りないからお父さんは首を吊ったんじゃないの!』
義母の金切り声と一緒に、行信の言葉が頭に響く。
―他人は他人。救えるのは自分の心だけ。
―怪異は自然だ。
そのまま行信を宿すようにして、涼太郎は震える声を吐き出した
「怪異は自然のようなものです。人間が処分したり、コントロールできるものじゃない」
義母が怒りに震える吐息が聞こえた。
「それに父さんの恨みも死に方も父さん自身のものだ、義母さんが、ましてや僕がどうにかしてやれるものじゃない! 僕のせいなわけがないだろう!」
『涼太郎、このっ……!』
親不孝者、という言葉を遮るように通話終了のアイコンをタップした。
何かが聞こえる前にと意を決し、後ろを振り向く。そこには当然何もない。この家は涼太郎ひとりの城なのだ。
全身の力が抜けたように椅子に倒れ込む。足元は汚れていたが清々しい気持ちだった。涼太郎は足を濡らして小さく笑った。スマートフォンがまた母親の着信を告げる。今度は一目見て、通話拒否をタップした。
ビールでねばつくつま先を掲げながら涼太郎は破顔していた。
「悪徳坊主もたまには悪くないな」
力を抜いて背伸びをすると、肩から音が鳴る。もうずっと凝り固まっていたらしい。
続けて佐々木からの着信が入った。涼太郎はそれを一瞥して「もう知るか」とスマートフォンを遠くに放った。薄くて軽い責任が手を離れて、クッションを跳ねていく。
海が見えるマンションは近くに潮騒が鳴っている。涼太郎は深呼吸して、胸いっぱいに、部屋に流れる海の香りを嗅いだ。
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