第二章 犯人②

 太陽にとっては見慣れている怪異対策課の執務室。そのフロアの壁が迫ってくるような眩暈が太陽を襲う。寝不足からくるそれに頭を抱えて、彼は天井を仰いだ。

 昨夜の琳子の告白は、ひとりの兄として耐えがたいものである。

 彼女も思春期だ。深夜に恋人と密会しているくらいなら、遅くならないようにとだけ言えばいい話である。しかしとうの彼氏が〝先生〟だというならまた別だ。

 これでは証言以前の問題だ、と喉まで出かかっていたのに、何も言えなかったのは太陽本来の気弱さ故だ。

 太陽が手持ち無沙汰にペンを回していると、課長の佐々木が「態度悪いぞ」と苦虫を噛み潰したかのような顔で苦言を呈する。

 それに反応することもできず、太陽は黙って席を立った。デスクが所狭しと並んでいるせいで、押し出した椅子が後ろにぶつかって大きな音を立てた。

 体中に刺さる視線を感じながら、日光すら入らないほど閉ざされたフロアを出る。

 怪異対策課は、その異質さから庁舎の奥に設置されていた。決して重要視されていない部署ではないが、遠巻きにされているのは確かだ。廊下は十メートルほども続いていて、真ん中の蛍光灯がいくつか消えている。

 太陽はブラインドが下ろされた窓の鍵に手を伸ばした。錆びついた鍵を無理やり開けて、窓から風を取りこむ。湿った潮の香りがする。

 神奈川県庁からは海が見える。窓に身を預けて太陽は少し目を閉じた。

 幸い周りには誰もいなかった。真四角の直線が飽きる程続く、コンクリートの廊下。

 絨毯を蹴る足の仕草も、掘るように乱暴なものになっていく。自分の余裕のなさに辟易しながらも太陽の不安は増すばかりだった。

 相手に迷惑をかけたくないと思っているのは琳子の本心なのだろう。しかし、先生と呼ばれる相手は十中八九、社会人だ。

 十七歳の少女に手を出す大人がまともなわけがない。今だけは琳子に自宅謹慎を命じた警察に感謝している太陽だったが、結局悩みが増えただけなのだ。

「クソッ」と毒づいていると、温和な声に「鈴木くん」と呼ばれた。ハッと目を開ける。

「回覧、目を通してもらっていいかな。すぐ広報課に最終稿送らないといけないから」

 太陽が手渡されたのは県の広報誌に掲載する怪異対策課のコラムだ。活動内容と怪異についての情報を発信しているものである。

「すみません」と受け取ると、人の好い先輩は「いいよいいよ」とさっさと去っていく。

 不機嫌さに気を使われたようで恥ずかしかった。太陽は弁明するように受け取った記事を読み始めた。

『神奈川の怪異伝説!』と銘打たれたスペースはオカルトマニアから人気があり、問い合わせも多い。今月は何だろうかと目を通す。

そして、あるコラムに太陽の目はくぎ付けになった。

「太鼓の音を響かせる、海の怪異……」

 〝でんでん〟。

 その怪異は、海から現れて横浜に来る。

 泥の塊みたいな姿をしていて、新月の夜、太鼓の音を引き連れて徘徊するという。

 江戸時代の神奈川宿場、そこに噂があった。

『男を取ると、でんでんがやってくるよ』

 現在まで被害は確認されていないし、画図百鬼夜行のように記録が残されているものでもない。ちょうど明治期あたり、人から人へと語り継がれた伝説のひとつである―記事はそう締めくくられていた。

 涼太郎との会話を思い出しながら、太陽は脈が速くなっていくのを感じた。

 ―被害者の死亡推定時刻は午前二時頃。この時間帯、太鼓の音が聞こえたという証言があります。

 ―死因は浸水性窒息死。歩いていて突然、肺が水で満たされたような……。

 いくつかの事象が、繋げられるような気がした。

 咄嗟にスマートフォンでネットにアクセスする。横浜市のウェブページがヒットして、神奈川宿歴史の道というデータが確認できた。

 東海道五十三次のひとつ、神奈川宿。それは神奈川新町から横浜まで広がる宿場街だったという。

 紹介マップの真ん中には、ぽつんと〝白剛寺〟の名前があった。

 被害者が発見された浦島寺だ。

「海からやってくる怪異なら、溺死にもできる……?」

 冷静な理性が、早とちりだ、と言い聞かせるように太陽の足をその場に縫いつける。推測でしかないのだ。

 しかし、行信とブブが犯人とは思えない。あまりにも計画性がない事件なのだ。

 そして琳子には、非道徳的だが―おそらくアリバイがある。

 人間がなしえない殺され方ならば、なにがしかの怪異が被害者を襲っているはずなのだ。

「でんでん……」

 コラムを睨みつけながら、視界が歪むほどに眉間を寄せる。窓から強い風が吹き込んだ。

 かろうじてついていた蛍光灯が何度か明滅する。太陽は天井に目をやって体をすくませた。

 その時、ドン、と太鼓のような音が響いた。

 心臓が捕まれたような衝撃に思わず振り向くと、開け放たれていた扉が閉まったらしい。扉は跳ね返ってゆらゆらと体を揺らしている。

飛び上がった心臓をゆっくり落ち着けながら、太陽は息を吐いた。

 風は一度しか吹かなかった。どこか嫌な空気を感じて、太陽はしばらくその場から動けずにいた。

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