『記録教室』 七歳の目撃者

ソコニ

第1話「影の胎動」



教室の天井が、また少し低くなった気がする。


ユキは机の下から、そっと上を見上げた。蛍光灯の光が妙に明るすぎて、目が痛い。でも、まぶたを閉じるのは怖い。閉じた瞬間に、また何かが変わってしまうかもしれないから。


「ユキさん、授業中だよ」


先生の声が遠くから聞こえてくる。でも、ユキには先生の顔が見えない。いつもより背が高くなったみたいで、首から上が天井の向こう側に消えてしまっている。


「は、はい...」


自分の声が、教室の空気の中で震えているのが分かった。周りの子たちがクスクスと笑う。その音が、まるで砂時計の中の砂のように、少しずつユキの周りに積もっていく。


お兄ちゃんなら、こんな時どうするんだろう。


でも、お兄ちゃんは最近、学校から帰ってくるとすぐに部屋に閉じこもってしまう。昨日、こっそり覗いたら、制服の襟元に赤い染みがついているのが見えた。お兄ちゃんは気付くと、急いでドアを閉めた。


「次の問題、ユキさん」


先生の声が、また響く。今度は近くから。数字が、黒板の上で踊っているように見える。ユキは思わず机の下に身を縮める。教科書の文字が、虫のように這い回りはじめる。


「分かり...ません」


教室が静かになる。あまりに静かで、自分の心臓の鼓動が耳の中で轟いている。先生の影が、ユキの机の上にゆっくりと伸びてくる。その影は、まるで黒い手のような形をしている。


「もう少し集中しましょうね」


先生の言葉に、教室中の視線が突き刺さる。視線が針のように肌を刺す。でも、それより怖いのは、机の上で蠢く先生の影だ。影が少しずつ、ユキの手の方へと這ってくる。


その時、廊下から物音が聞こえた。


誰かが走る音。そして、かすかな叫び声。


ユキの背筋が凍る。あの声は...お兄ちゃん?


「先生!トイレ、行きたいです」


突然立ち上がったユキを見て、クラスメイトたちが息を呑む。先生の影が、一瞬歪んだように見えた。


「今は授業中...」


でも、ユキはもう走り出していた。教室のドアを開ける時、後ろから聞こえる先生の声が、まるで水の中のように遠くなっていく。


廊下は妙に長く感じる。窓から差し込む光が、斜めに廊下を横切っている。その光と影の境目を越えるたびに、何か大切なものを失っていくような気がした。


お兄ちゃんの教室は、三年生の階。階段を上りながら、ユキは考える。どうして大人たちは気付かないんだろう。お兄ちゃんの制服の染み。教室の隅で交わされる言葉。放課後の体育館裏での出来事。


上の階に着くと、廊下は既に静かだった。でも、男子トイレのドアが少し開いている。そこから漏れる声。笑い声。そして...


ユキは立ち止まる。足が震えている。でも、お兄ちゃんは、きっとユキと同じように怖かったはず。毎日、毎日。


深く息を吸って、ユキは一歩前に出た。


トイレのドアの向こうで、影が動いている。






教室に戻る時、廊下の窓の外は既に茜色に染まっていた。


ユキの影が、一人で大きく伸びている。その影は、まるで誰かの叫び声の形のように見えた。でも今は、誰も叫んでいない。廊下も、階段も、とても静かだった。


「ユキさん、随分長かったわね」


担任の声に振り向くと、そこには優しい笑顔があった。でも、その笑顔の下に何かが潜んでいる気がした。先生は、本当は知っているんじゃないだろうか。知っているのに、知らないふりをしているんじゃないだろうか。


「すみません...」


自分の声が、遠くで震えているような気がした。でも先生は、もう帰りの会の準備を始めている。まるで何も起きていなかったみたいに。


「はい、日直さん」


号令の声が響く。いつもと変わらない教室。でも、すべてが少しずつ違って見えた。黒板の文字が、まるで血の色のように見える。窓ガラスに映る自分の顔が、少しずつ溶けていくような気がした。


帰りの支度をしていると、机の中から何かが光った。お兄ちゃんの名前が書かれた付箋。どこからか風が吹いてきて、付箋が机の上で震える。それは、まるでお兄ちゃんの震える肩のようだった。


玄関に向かう途中、ユキは立ち止まった。三年生の教室の前。お兄ちゃんの机は空っぽだった。窓から差し込む夕日が、その空の机だけを照らしている。


「あ、ユキちゃん」


振り向くと、お兄ちゃんのクラスの担任の先生だった。その目が、どこか泳いでいるように見えた。


「お兄さん、今日は早退したのよ。体調が悪いって」


先生の言葉が、廊下に落ちていく。その音が、さっきの叫び声とどこか似ていた。


家に着くと、玄関は暗かった。靴が一足、乱れて置かれている。お兄ちゃんの靴。でも、家の中は静かすぎた。


「ただいま...」


誰も返事をしない。台所から、母さんの物音が聞こえる。包丁を刻む音。その音が、さっきトイレで聞こえた音と重なって、ユキの耳の中で鳴り響く。


二階に上がると、お兄ちゃんの部屋のドアが少し開いていた。その隙間から、青白い光が漏れている。スマートフォンの画面の光。お兄ちゃんは、また誰かにメッセージを送っているのかもしれない。でも、返事は来ないんだ。ユキには分かっていた。


「お兄ちゃん...」


声をかけようとして、ユキは立ち止まった。さっきの光景が、まぶたの裏に浮かぶ。笑い声。影。そして赤い染み。


ドアの前で、ユキは震えている手を見つめた。小さな手のひらの上に、何かが落ちた。涙?それとも、記憶?


「晩ご飯できたわよ」


母さんの声が下から聞こえる。いつもと変わらない声。でも、その声にも影が潜んでいるような気がした。


ユキは、もう一度お兄ちゃんの部屋を見上げた。ドアの隙間から漏れる光が、廊下の床に細い線を描いている。その線が、まるで傷跡のように見えた。






トイレのドアが、ゆっくりと開いていく。


その瞬間、廊下の光が変わった。窓から差し込む夕日が、まるで血のような色に変わり、床に這う影が歪んで見える。ユキの影と、ドアの向こうの影が重なった時、耳の中で誰かの声が響いた。


「見るな」


お兄ちゃんの声。でも、目の前で起きていることから、目を逸らすことはできない。


三年生の男子が三人。お兄ちゃんの制服を掴む手。そして、洗面台から滴る水の音。ポタン、ポタン。その音が、まるで時計の針のように、この瞬間を刻んでいく。


「誰か来たぞ」


声が、トイレの中で反響する。お兄ちゃんが振り向いた時、その目が真っ赤に腫れていた。制服の襟元が濡れている。それは水なのか、それとも...。


「ユキ...」


お兄ちゃんの声が、壊れたテープレコーダーのように途切れる。その時、誰かの足音が近づいてきた。


「あら、ユキさん」


三年生の担任の先生。その声には、どこか機械的な響きがあった。まるで、予め録音された音声のように。


「授業中なのに、どうしたの?」


先生の影が、ユキの前に落ちる。その影が、まるで黒い池のように広がっていく。


「あの...お兄ちゃんが...」


言葉が、喉の中で溶けていく。先生の目が、どこか遠くを見ているように感じた。


「心配ないわ。みんな仲良く遊んでいるだけよ」


その言葉が、廊下に張り付いていく。嘘の重さが、空気を押しつぶしそうになる。


トイレの中の男子たちが、まるで影のように壁に溶けていった。お兄ちゃんは、よろよろと歩き出す。その背中が、いつもより小さく見えた。


「さあ、教室に戻りましょう」


先生の声に従って、ユキは階段を下り始めた。一段下りるごとに、さっきの光景が少しずつ遠ざかっていく。でも、その代わりに何かが近づいてくる。これから始まる何かの予感。それは影のように、ユキの心の中に忍び寄ってきた。


教室のドアを開けた時、クラスメイトたちの視線が、まるで針のようにユキを刺した。誰も何も言わない。でも、その沈黙の中に、何かが潜んでいる。


机に座ると、教科書の文字が踊り始めた。黒板の数字が、まるで生き物のように蠢いている。そして窓の外では、夕暮れの影が、少しずつ校庭を飲み込んでいた。


「では、帰りの会を始めます」


担任の声が響く。でも、その声は本当に先生の声なのだろうか。それとも、この教室の空気が作り出した幻なのだろうか。


ユキは分かっていた。この日を境に、すべてが変わっていくということを。教室も、廊下も、校庭も、そして自分自身も。影が、確実に広がっていく。それは誰にも止めることができない。






家に帰る途中、空が紫色に染まっていった。


ランドセルが、いつもより重く感じる。中には何も入っていないはずなのに。でも確かに、何かが入っている。目に見えない重さ。それは今日、トイレで見たものの重さかもしれない。


「お帰りなさい」


玄関を開けると、母さんの声が響く。いつもの声。いつもの家。でも、なぜか全てが少しずつずれている気がした。


靴を脱ごうとして、ユキは固まった。お兄ちゃんの上履きが、まだ玄関に置かれている。その白い上履きの端が、薄く赤く染まっているような気がした。瞬きをすると、その色は消えた。でも、見えないだけなのかもしれない。


「お兄ちゃんは?」


台所から聞こえてくる包丁の音が、一瞬止まる。


「具合が悪いみたいで、早く帰ってきたの。もう寝てるわ」


母さんの声が、台所の壁に吸い込まれていく。包丁の音が再び始まる。トントントン。その音が、さっきのポタポタという水の音と重なって、ユキの耳の中で鳴り響く。


階段を上る時、一段一段が深い穴のように感じた。二階の廊下は暗い。お兄ちゃんの部屋の前を通り過ぎようとした時、かすかな震えが聞こえた。


ドアの隙間から、青白い光が漏れている。スマートフォンの画面だろうか。それとも、月の光だろうか。ユキには、その光が涙のように見えた。


「お兄ちゃん...」


声は、闇の中に溶けていった。返事はない。でも、ドアの向こうで何かが動いているのが分かる。シーツの擦れる音。震える息遣い。そして、かすかな打鍵音。


お兄ちゃんは誰かにメッセージを送っているのかもしれない。でも、誰に?あのトイレで見た男子たちに?それとも、他の誰かに?


突然、階下で電話が鳴った。その音が、まるでガラスが割れるように響く。


「はい、はい...そうなんです」


母さんの声が聞こえる。その声の調子が、少しずつ変わっていく。


「えっ、うちの子が?...いいえ、そんなはず...」


受話器を置く音。そして、重い沈黙。


ユキは自分の部屋に入った。でも、それは本当に自分の部屋なのだろうか。壁の色が、いつもと違って見える。机の影が、床の上で不自然に伸びている。


宿題を出そうとして、ユキは固まった。教科書を開くと、さっきの教室の匂いが蘇ってくる。文字が、また踊り始めそうで怖い。


窓の外で、カラスが鳴いた。その声が、教室で聞いた誰かの笑い声と重なる。


ベッドに座ると、シーツの感触が砂のように思えた。目を閉じても、まぶたの裏に映像が浮かぶ。お兄ちゃんの腫れた目。先生の遠い目。そして、トイレの床に落ちた水滴。あれは、本当に水だったのだろうか。


「晩ご飯できたわよ」


母さんの声に、ユキは飛び上がった。時計を見ると、もう六時を回っている。外は完全に暗くなっていた。でも、闇はもう外だけのものではない。それは確実に、家の中にも忍び込んでいる。






「お兄ちゃん、起きて。ご飯よ」


母さんの声が階段を上っていく。返事はない。代わりに、物を動かす音が聞こえた。


食卓に着くと、味噌汁の湯気が幽霊のように立ち昇っている。父さんの席は空いたまま。今日も残業なんだ。でも、もう一つの空席が、ユキの目を引く。


「お兄ちゃん、体調悪いの?」


ユキの声が、茶碗と箸の音にかき消されそうになる。母さんの手が、一瞬止まった。


「ちょっと熱があるみたいで...」


母さんは味噌汁に目を落としたまま答える。その声には、どこか硬いものが混ざっている。嘘なのに、嘘だと気づかないふりをしている声。


二階から、かすかな物音。お兄ちゃんの部屋だ。母さんの耳にも届いているはずなのに、彼女は気づかないふりを続ける。箸を動かす音だけが、やけに大きく響く。


「先生から電話があったのよ」


突然、母さんが言った。その声が、味噌汁の表面に波紋を広げる。


「お兄ちゃんのこと?」


「ううん」母さんが顔を上げる。「ユキのクラスの先生」


ユキの手が、箸を握る力を緩めた。箸が茶碗の縁に当たって、カチンという音を立てる。その音が、教室で聞いた誰かの笑い声と重なった。


「授業中に突然出て行ったって」


母さんの声が続く。でも、その声はどこか遠くで響いているような気がする。目の前の味噌汁が、どろりとした黒い液体に見えてくる。


「トイレ、行きたかったの」


自分の声が、誰かの声のように聞こえた。


「そう」


母さんは、また目を落とす。茶碗を持つ手が、わずかに震えている。知っているのに、知らないふりをする。見えているのに、見えないふりをする。その仕草が、まるで先生と同じだった。


二階からまた物音。今度は、何かが床に落ちる音。でも、誰も気にしない。気にしてはいけないことなのかもしれない。


ユキは箸を動かす。でも、口に運ぶ食べ物の味がしない。代わりに、さっきの水の匂いが鼻をつく。トイレの床に落ちた水滴の匂い。それは本当に水だったのか。お兄ちゃんの制服の染みは、本当に水だったのか。


「あの、お母さん...」


言葉が喉まで上がってきた。でも、その時、玄関のドアが開く音がした。


「ただいま」


父さんの声。母さんが立ち上がる。その動きが、まるで影絵のように見えた。


「お帰りなさい。お兄ちゃん、熱があって...」


母さんの説明が続く。その声が、台所の明かりの中で踊っている。父さんの「そうか」という返事。靴を脱ぐ音。すべてが普通なのに、すべてが違う。


ユキは味噌汁を見つめた。その中に、自分の顔が映っている。でも、それは本当に自分の顔なのだろうか。瞬きをするたびに、少しずつ違う顔に見えてくる。



翌朝、教室のドアを開けた瞬間、空気が変わった。


いつもの「おはよう」という声が聞こえない。代わりに、ささやき声が教室中を這い回っている。その声は、まるで黒い蜘蛛の糸のように、机と机の間を渡っていく。


ユキが席に着くと、周りの話し声が一瞬止まった。でも、すぐにまた始まる。今度は、もっと小さく、もっと意味ありげに。


「ねぇ、知ってる?」


前の席の女の子が、隣の子に囁いている。その声が、意図的にユキの耳に届くように響く。


「あの子のお兄さん、毎日お金を...」


後ろの方で、誰かが笑う。その笑い声が、昨日のトイレで聞いた音と重なる。


「朝の会を始めます」


担任の声で、教室が静かになる。でも、その静けさの中にも、何かが潜んでいる。誰かの視線。誰かのささやき。誰かの笑い。


黒板の文字が、また踊り始める。でも今日は、その文字たちが意味を持っているような気がした。「きょうのよてい」という文字が、まるで暗号のように見える。


「係りの報告をお願いします」


給食係の発表の時、ユキは思わず震えた。なぜなら、給食係は...。


「今日の献立は、カレーと...」


お兄ちゃんのクラスの、あの男子の妹だった。彼女の声には、どこか勝ち誇ったような響きがある。発表が終わると、その子がユキの方をちらりと見た。その目が、昨日のお兄さんと同じ色をしていた。


休み時間、誰も声をかけてこない。机の影が、まるで檻のように、ユキを囲い込んでいく。教室の空気が、少しずつ重くなっていく。


「ユキちゃん」


突然、後ろから声がした。振り向くと、転校生の美咲だった。彼女の目だけが、教室の中で普通に見える。


「一緒にトイレ行かない?」


その言葉に、クラスメートたちの視線が刺さる。その視線が、まるでピンで止められた蝶のように、ユキと美咲を教室の壁に留めようとする。


「あ、うん...」


立ち上がる時、誰かがクスクスと笑った。その笑い声は、どこから聞こえてくるのか分からない。まるで、教室の壁自体が笑っているかのように。


廊下に出ると、美咲が小さな声で言った。


「私も見たの。昨日の放課後」


その言葉で、ユキの世界が一瞬止まった。美咲の目が、真剣な光を帯びている。


「あのね、私のお兄ちゃんも...」


その時、教室から誰かが出てきた。給食係の女の子だ。彼女は二人を見ると、意味ありげな笑みを浮かべた。その笑顔が、まるでナイフのように光っている。


美咲の言葉は、廊下の空気の中で凍りついた。






算数の時間。黒板に書かれた数字が、奇妙な影を落としている。


「では、この問題を解いてみましょう」


先生の声が響く。でも、その声は教室の中で歪んでいく。まるで、誰かが別の声を重ねているみたいに。


教科書を開くと、紙の匂いが鼻をつく。でも、それは普通の教科書の匂いじゃない。どこか、昨日のトイレの床の匂いに似ている。


「5+3は...」


先生の白墨が黒板をなぞる。その音が、ユキの耳の中で反響する。スッ、スッという音が、まるで誰かの足音のように聞こえてくる。


その時、後ろの席から何かが落ちる音がした。振り向くと、給食係の女の子が消しゴムを拾おうとしている。でも、その目は消しゴムじゃなく、ユキを見ていた。その目が、何かを知っているという色を浮かべている。


「次の問題は...」


突然、教室の電気が明滅した。一瞬の暗闇の中で、誰かが息を呑む音がする。光が戻ると、黒板の数字が違って見えた。5が血の色に見える。3が影のように伸びている。


「先生!」


誰かが叫んだ。窓の外で、カラスの群れが舞っている。その影が教室の床を這う。影は机と机の間を縫うように動き、ユキの足元で止まった。


その瞬間、机の中から紙切れが滑り出た。それは昨日までなかったもの。誰かが入れたのだ。手が震える。でも、その紙を開かずにはいられない。


『知ってる』


たった一言。でも、その文字が蛇のように這い出してくる。


「ユキさん、答えは?」


先生の声に飛び上がる。紙を慌てて握りしめると、それが手の中で脈を打っているような気がした。


「わ、わかりません...」


教室が静まり返る。その静けさの中で、誰かがクスクスと笑う。その笑い声は、どこから聞こえてくるのか分からない。壁からなのか、天井からなのか、それとも自分の中からなのか。


「では、美咲さん」


となりの美咲が立ち上がる。その影が、黒板に大きく映る。影の輪郭が、まるで叫んでいるように見えた。


「8です」


答えは正しい。でも、その声には何か別の意味が込められているような気がした。


教室の空気が、また変わる。机の影が長く伸び、天井が低く垂れ下がってくる。窓の外のカラスたちは、まるでユキたちを見下ろすように、校舎の屋根に止まっている。


そして、握りしめた紙の文字が、手のひらを通して体の中に染み込んでくる。


『知ってる』


誰が?何を?


答えは分かっている。でも、それを知ることが、最も怖いことなのかもしれない。





チャイムが鳴ると、教室の空気が一瞬、波打った。


「図書室に行かない?」


美咲の声は、まるで風のように小さい。でも、その言葉には確かな重みがあった。


二人が立ち上がると、給食係の女の子が意味ありげな視線を送ってきた。その目が、まるで写真を撮るみたいにユキたちを捉える。


廊下は妙に長く感じた。窓の外では、さっきのカラスたちがまだ屋根に止まったままだ。その黒い影が、二人の足元をなぞるように動いていく。


図書室のドアを開けると、本の匂いが二人を包んだ。でも今日は、その匂いにも何か別のものが混ざっているような気がした。


「奥の席がいいと思う」


美咲は本棚の間を縫うように歩いていく。その背中が、本の影に溶けそうになる。


誰もいない図書室の隅。二人は向かい合って座った。テーブルの木目が、まるで暗号のように渦を巻いている。


「私のお兄ちゃんね」


美咲の声が、本の間から漏れる光のように細く揺れる。


「去年の冬から、学校に来なくなった」


その言葉が、図書室の空気を震わせる。


「どうして...」


ユキの問いかけに、美咲は机の上の自分の手をじっと見つめた。爪が、わずかに震えている。


「同じ。あの子たち...」


その時、図書室のドアが開く音がした。二人は反射的に身を縮める。本棚の間から、誰かの足音が近づいてくる。その足音は、どこか聞き覚えがある。


カツ、カツ、カツ。


給食係の女の子の兄。三年生。


足音は、二人の席の前で止まった。本棚の影が、まるでカーテンのように二人を隠している。


「お前ら、見なかった方がいいこともあるんだよ」


声が、本の森を揺らす。


しばらくして、足音は遠ざかっていった。でも、その声は図書室に残った。まるで、本の背表紙に刻み込まれたように。


「美咲...」


「うん、分かってる」


彼女の声には、決意のような響きがあった。


「でも私たち、見ちゃったんだ」


その言葉が、図書室の空気を切り裂く。


「だから...」


美咲が、ポケットから何かを取り出した。小さなスマートフォン。画面には、昨日の日付が表示されている。そして、録音ボタン。


「証拠が必要なの」


その瞬間、図書室の蛍光灯が明滅した。本棚の影が、まるで生き物のように揺れる。


「次は、明日の放課後」


美咲の言葉が、闇の中で光る。


「あの子たち、いつも決まった場所で...」




図書室を出た時、廊下の空気が変わっていた。


昼休みの日差しが、斜めに廊下を切り裂いている。その光と影の境目が、まるでナイフの刃のように鋭く見える。


「保健室の前を通っていこう」


美咲の囁きに、ユキは無言で頷いた。普段の道より遠回りになる。でも、三年生の教室の前を通るよりはいい。


二人が歩き始めると、影が二つに分かれた。それは、まるで別の誰かが後をつけているみたいに見える。振り返ると、廊下の突き当たりに人影が見えた気がした。でも、目を凝らすと、そこには誰もいない。


保健室の前を通りかかった時、中から声が聞こえた。


「痛くない?もう大丈夫?」


養護の先生の声。そして、かすかな返事。その声に聞き覚えがある。


美咲が立ち止まった。ユキも足を止める。保健室のドアが少し開いている。その隙間から、白いカーテンの影が見えた。そして...。


「お兄ちゃん...?」


ユキの声が、喉の奥で凍りつく。カーテンの向こうに、お兄ちゃんの横顔が見えた。制服の袖をまくり上げている。その腕には...。


「あら?」


養護の先生の声に、二人は反射的に身を隠した。でも遅かった。先生は既にドアの所に立っていた。


「どうしたの?具合が悪い?」


その声には、どこか緊張したものが混ざっている。まるで、二人に見られてはいけないものを見られたような。


「い、いえ...」


「大丈夫です」


二人の声が重なる。その瞬間、カーテンの向こうで物音がした。誰かが急いで袖を下ろす音。


「そう。なら、早く教室に戻りなさい」


先生の声が、いつもより少し高い。その声が、廊下に張り付いていく。


二人が歩き出すと、背中に視線を感じた。振り返ると、保健室のドアが静かに閉まっていく。その音が、まるで誰かの溜め息のように聞こえた。


「ユキちゃん」


美咲が立ち止まる。窓の外では、カラスたちがまた舞い始めていた。


「私、見たの」


その言葉に、廊下の空気が凍る。


「お兄さんの腕に、アザが...」


その時、上の階から物音が聞こえた。誰かが走る音。笑い声。そして、何かが床に落ちる音。


二人は顔を見合わせた。美咲のスマートフォンが、ポケットの中で重みを増したように感じる。


「明日」


美咲の目が、決意の色を帯びている。


「明日、絶対に」





夕暮れが、家の中に忍び込んでくる。


玄関を開けると、靴が三足。父さんはまだ帰っていない。お兄ちゃんの靴が、少し濡れているように見える。雨は降っていないのに。


「ただいま...」


声が、廊下の闇に溶けていく。返事はない。台所から、包丁の音だけが響いてくる。


階段を上る時、足音を殺した。二階の廊下は、まるで別の世界のよう。薄暗い空間に、お兄ちゃんの部屋から青白い光が漏れている。


その前を通り過ぎようとした時、かすかな音が聞こえた。誰かが小さく呻くような声。ユキは思わず立ち止まる。


「痛っ...」


お兄ちゃんの声だ。ドアの隙間から、何かが光った。保健室で見た腕のアザが、頭の中で蘇る。


ノックする勇気が出ない。でも。


「お兄ちゃん...」


声が、自然と漏れた。部屋の中が、一瞬静まり返る。


「...出てけよ」


暗い声。でも、その声は震えている。


「でも...」


「出てけって言ってるだろ!」


突然の怒鳴り声に、ユキは飛び上がる。その声には、何かが混ざっている。怒りじゃない。もっと重いもの。


「何やってるの?」


階段から、母さんの声。


「なんでもない」


お兄ちゃんの声が、また変わる。平坦で、生気のない声。まるで録音された音声のよう。


「ユキ、お風呂入りなさい」


母さんの声には、やけに明るいものが混ざっている。見なかったことにする声。聞かなかったことにする声。


自分の部屋に戻ると、制服のポケットから美咲のメモが出てきた。明日の放課後。時間と場所が、鉛筆で薄く書かれている。でも、その文字が蛇のように蠢いて見えた。


窓の外で、カラスが鳴いた。空が、少しずつ赤く染まっていく。その色が、保健室で見たアザの色と重なる。


スマートフォン。証拠。そして明日。

頭の中で言葉が渦を巻く。


その時、廊下でまた物音。今度は、母さんとお兄ちゃんの声。


「もう大丈夫なの?保健の先生から電話があって...」


「何でもないって」


「でも、腕の...」


「転んだだけ」


会話が途切れる。その間に、何かが詰まっている。誰もが知っているのに、誰も口にしない何か。


夜の帳が下りてくる。家の中の影が、少しずつ濃くなっていく。お兄ちゃんの部屋の明かりが、青白く揺れている。


ユキは机に向かった。でも、教科書を開く手が震える。文字が、また踊り始めそうで。昼間の教室の記憶が、まぶたの裏で蘇る。


「明日...」


自分の声が、闇の中でこだまする。


明日、何かが変わる。

それとも、何かが壊れる。




夜の十時。家の中が、やっと静かになった。


でも、その静けさは何かを隠している。壁の向こうから、かすかな物音が聞こえる。お兄ちゃんの部屋だ。昼間は聞こえなかった音。誰かがキーボードを打つ音。消しゴムで何かを擦る音。そして、時々漏れる溜め息。


ベッドに横たわると、天井が妙に遠く感じる。部屋の隅々から、影が這い寄ってくる。その影は、教室で見た影と同じ色をしている。


枕に頭をつけた瞬間、今日見たものが次々と蘇ってくる。


保健室のカーテン越しの光。

お兄ちゃんの腕のアザ。

養護の先生の浮かない表情。

図書室で聞いた警告の声。

そして、机の中に入っていた紙切れ。


『知ってる』


その文字が、闇の中で光を放つ。


枕を抱きしめると、布団の下で何かが動いた気がした。反射的に足を縮める。でも、それは自分の心臓の鼓動だった。


窓の外で風が吹く。街灯の光が、カーテンの隙間から漏れている。その光が作る影が、壁の上で踊っている。影は次第に形を変え、教室の机のような形になり、そして人の形に...。


「違う、違う...」


目を閉じる。でも、まぶたの裏で別の映像が始まる。


明日。

放課後。

美咲のスマートフォン。

そして、きっと見ることになる何か。


壁の向こうで、また物音。今度は何かが床に落ちる音。その直後、お兄ちゃんの悲鳴のような声。でも、すぐに消える。


母さんの部屋は静かだ。聞こえないふりをしているのか、本当に聞こえていないのか。


布団の中で、手が震えている。スマートフォンの画面を確認する。あと七時間。七時間経てば、また学校が始まる。また教室に入る。また机に向かう。そして放課後には...。


時計の針が、やけに遅く進む。カチ、カチという音が、心臓の鼓動と重なる。


その音の中に、誰かの声が混ざってくる。

お兄ちゃんの声。

美咲の声。

給食係の女の子の声。

三年生の男子たちの声。


声が重なり、絡み合い、そして歪んでいく。


「やめて...」


自分の声が、闇の中でこだまする。でも、誰も答えない。代わりに、天井の影が少しずつ形を変えていく。それは次第に、教室の天井のような形になり、そして...。


ユキは布団を頭まで引き上げた。でも、それは何の役にも立たない。なぜなら、影は既に心の中にも忍び込んでいるから。


明日は、きっと何かが変わる。

それとも、自分が変わる。

あるいは、すべてが。




真夜中の二時。


バン、という音で目が覚めた。


最初は夢の中の音だと思った。でも、すぐに二階の廊下で物音がする。誰かが走る足音。そして、お兄ちゃんの部屋のドアが開く音。


ユキは息を止めて耳を澄ました。


「もう、限界なんだ...」


お兄ちゃんの声。でも、いつもの声じゃない。割れそうな、硝子のような声。


「待って、どこに行くの?」


母さんの声。普段の明るい声を装おうとしているのに、その下から不安が滲んでくる。


「学校なんて...もう...」


お兄ちゃんの言葉が、闇の中で砕ける。


その時、携帯の着信音が鳴った。深夜の静寂を引き裂くような音。お兄ちゃんの携帯だ。


着信音が鳴り続ける。誰かが息を呑む音。そして...。


「やめろ...」


お兄ちゃんの震える声。携帯を投げつける音。その音が、まるで骨の折れる音のように響く。


「お兄ちゃん!」


母さんの悲鳴にも似た声。何かが倒れる音。引き出しが開く音。


ユキは布団から這い出した。足が震える。でも、動かなければ。


ドアを開けると、廊下は青白い月明かりに照らされていた。その光の中で、影が踊っている。お兄ちゃんの部屋のドアが大きく開いている。


「見せて!それ、何なの?」


母さんの声が、まるでスローモーションのように響く。


ユキは、そっと廊下に足を踏み出した。一歩。また一歩。


お兄ちゃんの部屋の前まで来た時、心臓が止まりそうになった。


部屋の中で、お兄ちゃんが何かを握りしめている。月明かりに照らされたそれは...。


「だめ!」


母さんの叫び声と同時に、何かが閃いた。


その瞬間、階下で玄関のドアが開く音。


「ただいま」


父さんの声が、まるで別世界から響いてくる。


お兄ちゃんの手から、何かが落ちる。カタン、という音。それは、保健室で見たハサミに似ていた。


「何してるんだ、こんな時間に」


階段を上がってくる足音。それは、まるで時限爆弾の秒読みのように響く。


お兄ちゃんが、月明かりの中で笑った。でも、その笑顔は泣き顔にそっくりだった。


「明日...」


お兄ちゃんの言葉が、闇の中で凍りつく。


「明日、行かなくていいんだよ」


母さんの声が、優しく囁く。でも、その声には何か決定的なものが混ざっている。諦めか、それとも決意か。


ユキは、自分の部屋に逃げ帰った。布団に潜り込んでも、体の震えは止まらない。


明日。

また一つ、教室の机が空になる。


深夜二時半。


階下から、大人たちの声が漏れてくる。


「明日にでも病院に...」

「いや、まず学校に連絡を...」

「でも、あの傷は...」


声が重なり、溶け合い、そして壁に吸い込まれていく。


ユキは布団の中で身を丸めた。でも、耳をふさぐことはできない。お兄ちゃんの部屋からも、物音が聞こえてくる。引き出しを開ける音。何かを破り捨てる音。そして、時々漏れる嗚咽。


突然、携帯の着信音が再び鳴り響いた。


「出るな!」


父さんの声が、階段を駆け上がってくる。でも、遅かった。


「もしもし...」


お兄ちゃんの声が、闇を震わせる。


その瞬間、廊下の空気が凍りついた。受話器の向こうから、かすかに笑い声が漏れてくる。その声は、どこかで聞いたことがある。給食係の女の子の兄。あの三年生の。


「やめろ...」


受話器を投げ出す音。壁に当たる音。そして、誰かが走る音。


ユキは、思わずドアに手をかけた。その時、廊下で母さんの悲鳴が聞こえた。


「キッチン!キッチンに行ったわ!」


足音が階段を駆け下りていく。父さんの怒声。母さんの泣き声。そして...。


ガチャン。


何かが床に落ちる音。金属の響き。包丁だろうか。はさみだろうか。それとも...。


「離せ!もう、どうせ...」


お兄ちゃんの声が、台所の闇に吸い込まれていく。


ユキは、そっとドアを開けた。月明かりが、階段を青白く照らしている。その光の中で、影が踊っている。まるで、教室の中で見た影と同じように。


一階の台所からは、もう声が聞こえない。代わりに、誰かが小さく啜り泣く音。包丁を仕舞う音。コップに水を注ぐ音。


「明日から」


父さんの声が、重く響く。


「しばらく、家で...」


その言葉が、家中を包み込む。まるで、誰かの判決のように。


階段を上がってくる足音。お兄ちゃんが、父さんに支えられて戻ってくる。月明かりの中で、お兄ちゃんの顔が妙に青白い。目は腫れている。でも、その目には、もう涙がない。代わりに、何か別のものが浮かんでいる。


諦め?

それとも、解放?


母さんが後に続く。手には何かを握りしめている。お兄ちゃんの携帯。画面が、闇の中でまだ光っている。


「もう大丈夫」


母さんの声が、廊下に漂う。でも、その声は震えている。嘘を言う時の声だ。


父さんがお兄ちゃんを部屋に連れて行く。ドアが閉まる音。鍵をかける音。


そして、再び静けさ。


でも今度は、昨日までとは違う静けさ。何かが、決定的に変わってしまった静けさ。


ユキは、また布団に潜り込んだ。でも、目は閉じられない。なぜなら、まぶたの裏に、明日の教室が見えるから。


誰もいない机。

黒板の文字。

そして、クラスメートたちの目。


全てが、影の色をしている。





朝の食卓には、四つの椅子があった。


でも今朝は、一つが空いている。その空席が、まるで穴のように見える。深い、底の見えない穴。


「ユキ、お味噌汁、少し冷めちゃったかも」


母さんの声が、台所から漂ってくる。その声は、いつもより高い。無理に明るく装っている声。でも、手の震えが味噌汁の表面に波紋を作る。


父さんは、新聞を広げている。でも、ページをめくる音がしない。目は活字を追っているように見えるけれど、どこを読んでいるのだろう。


「いってらっしゃい」の声が、二階から聞こえてこない。


二階。お兄ちゃんの部屋。今朝は、鍵がかかったまま。


「食べなさい」


箸を持つ手が震える。目の前の白いご飯が、昨夜の月明かりのように青白く見える。


母さんが、また台所と食卓を行ったり来たり。何か忘れ物を探すような素振り。でも本当は、二階を見上げているのが分かる。


「学校は...」


父さんの声が、新聞の向こうから漏れる。


「心配ないわ」


母さんの返事が、味噌汁の湯気に溶けていく。


二人の会話が、ユキの頭の上で交わされる。まるで、目の前にいない人の話をしているみたい。昨夜のことは、誰も口にしない。


お椀に映る自分の顔が、少しずつ歪んでいく。


その時、二階で物音がした。誰かがドアを叩く音。


「お兄ちゃん...」


箸が、テーブルに落ちる。


「そのままにしておきなさい」


父さんの声が、急に低くなる。新聞が、かすかに震えている。


母さんが、また立ち上がる。今度は冷蔵庫を開け閉めする音。でも、何も取り出さない。


二階からの物音は、すぐに止んだ。代わりに、誰かが布団に潜り込む音。そして、かすかな啜り泣きの声。


テーブルの上の携帯電話が、不吉な存在感を放っている。画面は消えているのに、まだ光を放っているような気がする。昨夜の着信の記憶が、そこに刻まれているみたいに。


「もう時間だわ」


母さんの声に、時計を見上げる。七時十五分。


いつもなら、お兄ちゃんが階段を駆け下りてくる時間。

「遅刻遅刻」と言いながら、パンをくわえて飛び出していく時間。

廊下を走る足音が響く時間。


でも今朝は、そんな音は聞こえない。


代わりに、重い静けさだけが、家中を満たしている。その静けさは、まるで誰かの告白のよう。

もう、何も元には戻らないという告白。




玄関で靴を履く時、背中に視線を感じた。


振り返ると、母さんが立っている。言いたそうに口を開いては閉じる。その仕草が、まるで金魚みたいだった。


「行ってきます」


自分の声が、玄関の暗がりに吸い込まれる。


「気をつけて」


母さんの声が、どこか遠くで響く。その声の中に、何か別の言葉が隠れているような気がした。でも、それは口にされることはない。


外に出ると、朝の空気が冷たく頬を撫でた。


いつもの通学路。いつもの景色。でも、全てが違って見える。電柱の影が長く伸びている。その影は、昨夜の記憶のように濃い。


カバンの中で、美咲のメモが重みを持つ。放課後。時間と場所。そして、スマートフォン。


坂を上りながら、ふと後ろを見た。いつもならそこに、お兄ちゃんの背中があった。少し前かがみになって、急ぎ足で歩く背中。でも今は、そこには誰もいない。


代わりに、影だけが伸びている。


「ユキちゃん!」


声に振り返ると、美咲が走ってきた。その顔には、いつもと違う緊張が浮かんでいる。


「おはよう...」


声が震える。美咲の目が、何かを察したように細まる。


「聞いたの?」


二人の足が止まる。朝日が、まぶしく照りつける。


「うん」


その時、後ろから自転車の音。振り返ると、給食係の女の子が通り過ぎていく。その目が、まるでカメラのシャッターのように二人を捉えた。


美咲が、小さく息を呑む。自転車は曲がり角で消えた。でも、その視線は残ったまま。


「あの子のお兄さんが...」


美咲の言葉が、途切れる。言葉にする必要のないことだった。二人とも知っている。知りすぎているのかもしれない。


校門が見えてきた。その鉄の門が、今朝は特別に高く見える。まるで、誰かを閉じ込めるための檻のように。


「でも、私たちは...」


美咲の声に、決意が混じる。


その時、携帯が震えた。美咲のポケットの中で。画面を見た彼女の顔が、わずかに蒼白くなる。


「見て」


差し出された画面に、見覚えのある番号。お兄ちゃんを追い詰めた、あの番号。


「もう、逃げられない」


美咲の言葉が、朝の空気を切り裂く。


校門をくぐる時、二人の影が重なった。それは、まるで誓いを立てるような重なり方だった。


教室のドアを開けた時、担任の高木先生が黒板の前に立っていた。


その背中が、いつもより小さく見える。チョークで何かを書こうとして、また消す。その動作を何度も繰り返している。まるで、正しい言葉を見つけられないみたいに。


「おはようございます」


ユキの声が、教室の空気を震わせる。


先生が振り返った。その目が、泳いでいる。誰かの顔を直視することができないみたいに。


「あ、ユキさん...」


その声には、どこか後ろめたいものが混ざっている。知っているのに、知らないふりをしようとする声。


黒板には消しかけの文字。『本日、体調不良により...』


教室の後ろの方で、誰かがクスクスと笑う。給食係の女の子とその周りの子たち。その笑い声が、教室の空気をさらに濁らせる。


「えーと、朝の会を始めます」


先生の声が、どこか遠くで響く。出席をとる声が、しだいに小さくなっていく。そして、ある名前の所で...。


「山田くんは、少し具合が悪くて...」


言葉が、宙に浮かんだまま消えていく。


その時、給食係の女の子が手を挙げた。


「先生、山田くんって、あの傷のことですか?」


教室の空気が、凍りつく。


「そ、それは...」


先生の声が、震える。チョークを持つ手が、小刻みに動いている。


「私のお兄ちゃんが言ってたんですけど」


その声には、どこか勝ち誇ったような響きがある。


「やめなさい」


先生の声が、急に強くなる。でも、その声は虚勢を張っているだけのように聞こえた。


「でも、本当のことじゃ...」


「今は授業の時間です」


その言葉で、教室が静まり返る。でも、その静けさの中にも、何かが潜んでいる。誰もが知っている真実。でも、誰も口にしない真実。


美咲が、そっとユキの方を見た。その目には、決意の色が浮かんでいる。


先生は、また黒板の方を向いた。その背中が、影のように揺れている。消しかけの文字の上から、別の文字を書き始める。でも、その文字も震えている。


「では、今日の目標は...」


先生の声が続く。いつもの声を装おうとしている。でも、その声の下に、何か別のものが聞こえる。無力さ。あるいは、恐れ。


窓の外で、カラスが鳴いた。その声が、教室に影を落とす。




チャイムが鳴り、教室が騒がしくなる。


でも、その騒がしさは普段とは違う。まるで、誰かが指示を出しているかのような、計算された騒がしさ。


「ねえ、トイレ行かない?」


給食係の女の子が、周りの子たちに声をかける。その声が、まるで合図のように響く。五人、六人と女の子たちが立ち上がる。


その時、美咲がユキの机に近づいてきた。


「図書室、行こう」


でも、その言葉が口から出る前に。


「あ、美咲ちゃんも一緒に行く?」


給食係の女の子が、不意に声をかけてきた。その笑顔が、蛇のように冷たい。


「私は...」


「行こうよ。みんなで」


その「みんな」という言葉に、何かが潜んでいる。脅しか、それとも警告か。


美咲の手が、制服のスカートを握りしめる。その指が、小刻みに震えている。


「行きましょう」


美咲の声が、諦めたように響く。でも、ユキの机の上に何かが落ちた。小さな紙切れ。


女の子たちの群れが、教室を出ていく。その足音が、まるで行進のように規則正しい。


一人になった教室で、ユキはそっと紙切れを開く。


『放課後、予定変更。中庭の裏。気をつけて』


文字が、震えている。美咲の手の震えが、文字にも移ったみたいに。


その時、廊下から声が聞こえてきた。


「ねえ、知ってる?」

「山田くんの腕に...」

「お兄ちゃんが言ってたんだけど」


声が重なり、絡み合い、そして歪んでいく。その声は、まるでお経のように響いてくる。


ユキは机の下に手を入れた。スマートフォンが、ポケットの中で冷たい。録音ボタンの感触が、指先に残っている。


廊下の声が、また変わる。


「あの子も、きっと...」

「見てたんでしょ?」

「だったら、もう」


その時、誰かが教室に戻ってきた。三年生の男子。お兄ちゃんの机の前で立ち止まる。


その目が、ユキを捉えた。にやりと笑う。机の上に何かを置く。それは...お兄ちゃんの消しゴム。表面に、赤いしみがついている。


「妹は、あんまり余計なこと、見ない方がいいよ」


声が、教室の空気を凍らせる。


男子が出ていくと、また廊下から声が聞こえてくる。女の子たちの声。美咲の声は、その中には混ざっていない。


窓の外では、風が吹き始めていた。その風が、教室のカーテンを揺らす。影が、床の上で踊っている。




午後の理科の時間。窓の外で雲が低く垂れ込めてきた。


「では、この実験を見てください」


担任の高木先生が、教卓の上でビーカーを持ち上げる。透明な液体が、光を受けて揺れている。


「これに、こちらの液体を注ぐと...」


その時、教室の後ろのドアが開いた。三年生の担任だ。


「高木先生、ちょっとよろしいですか」


先生の手が、わずかに震える。ビーカーの中の液体が、波打つ。


「え、はい...」


二人の先生が廊下で話し始める。声は聞こえないのに、その言葉が分かるような気がした。きっと、お兄ちゃんのこと。あの腕のこと。そして...。


「見てよ」


後ろの席で誰かが囁く。振り返ると、給食係の女の子が携帯を見せている。画面に映るのは...お兄ちゃんの制服姿。どこかで隠し撮りしたような写真。そして、その腕の...。


「先生が戻ってくるわよ」


美咲の声が、教室に響く。携帯が慌てて隠される。


先生が教室に戻ってきた時、その顔は蒼白かった。手の震えが、さらに大きくなっている。


「では、実験の続きを...」


ビーカーを傾ける。透明な液体が、別の液体の中に落ちていく。それは、まるで誰かの涙のように見えた。


その瞬間、液体が変色を始める。透明から赤へ。その色が、お兄ちゃんの制服の染みの色と重なる。


「化学変化というのは...」


先生の説明が続く。でも、その声が遠くなっていく。代わりに、携帯の振動が机の中で鳴る。


こっそり画面を見ると、知らない番号からのメッセージ。


『放課後、見に来る?中庭の裏で。お兄ちゃんみたいに、なりたくないよね?』


文字が、画面の上で踊っているように見える。


その時、美咲が手を挙げた。


「先生、保健室に行っていいですか。気分が...」


その声には、暗号めいたものが混ざっている。


「あ、私も」


給食係の女の子も立ち上がる。その目が、獲物を追う猫のよう。


「一人ずつ...」


先生の声が、宙に浮く。


教室の空気が、また変わる。誰もが、何かを待っているような空気。時計の針が、やけに遅く動いている。


窓の外で、雷が鳴った。その音が、教室を揺らす。机の上のビーカーの中で、赤い液体が波打つ。


放課後まで、あと一時間。





最後の時間は国語。雨が窓を叩き始めていた。


教科書を開く音が、教室中で重なる。その音が、まるで時限爆弾の秒読みのように響く。


「では、この物語の続きを読んでいきましょう」


担任の声が、震えている。先生は知っているのかもしれない。放課後に何かが起ころうとしていることを。


「主人公は、この時どう感じたのでしょう」


誰も答えない。教室の空気が、重い鉛のように沈んでいく。


その時、美咲が手を挙げた。


「主人公は...怖かったんだと思います」


その声が、教室を切り裂く。


「だって、誰も味方になってくれないから」


美咲の言葉に、給食係の女の子たちが振り向く。その目が、まるでカメラのレンズのように光る。


「でも、それは違うと思います」


今度は給食係の女の子が手を挙げる。その声には、刃物のような冷たさが混ざっている。


「主人公が悪いんです。見てはいけないものを、見たから」


その言葉が、教室の空気を凍らせる。


雨の音が強くなる。空が、どんどん暗くなっていく。


ユキは、机の下でスマートフォンを握りしめた。画面には、さっきのメッセージがまだ光っている。


『中庭の裏で』


その時、誰かがノックもせずに教室に入ってきた。三年生の男子たち。


「失礼します。生徒会からの連絡です」


その声に、教室中が固まる。男子たちの目が、ユキを捉えた。その目が、何かを約束している。


「放課後の清掃当番について...」


言葉が続く。でも、その言葉の裏に、別の意味が隠されているのが分かる。


美咲が、そっとユキの方を見た。その目には決意が浮かんでいる。スマートフォンのカメラが、制服のポケットの中で準備を待っている。


外では雷が光った。その閃光が、教室の影を深くする。


「では、今日の授業は...」


チャイムが鳴る前に、先生の声が途切れた。教科書を閉じる音が、雨音に紛れる。


「帰りの会を始めます」


その言葉が、最後の砂時計を裏返すような重みを持っている。


窓の外では、カラスの群れが校舎の屋根に止まっている。その黒い影が、中庭に落ちていく。


もうすぐ、何かが始まる。




「帰りの会を始めます」


日直の声が、雨音に溶けていく。


窓の外は既に夕暮れのように暗い。黒板の文字が、その暗がりの中で不気味に浮かび上がる。『今日の予定』という文字の下に、影が滲んでいる。


「連絡事項です」


担任の声が、教室に響く。その声には、どこか諦めのようなものが混ざっている。


「山田くんが、しばらく休むことになりました」


教室の空気が、一瞬で凍りつく。


「体調が...その...」


言葉が、宙に浮かんだまま消えていく。


その時、後ろの席で誰かがくすくすと笑う。給食係の女の子たちだ。その笑い声が、まるで毒のように教室に広がっていく。


「それから」


先生の声が続く。


「放課後の清掃当番について」


その言葉に、誰かが身じろぐ音。三年生の男子たちの顔が、廊下から覗いている。その目が、何かを約束している。


美咲が、そっとユキの机に紙切れを落とした。


『トイレに見せかけて、職員室の前を通って』


文字が、震えている。


その時、携帯が振動した。画面には新しいメッセージ。


『逃げても無駄だよ。お兄ちゃんみたいに』


雷が光る。その閃光が、教室の影を歪ませる。


「では、終わりの挨拶」


日直の声が、また響く。でも、その声は誰のものなのか分からない。すべての音が、遠ざかっていく。


立ち上がる音。椅子が軋む音。かばんを持つ音。

それらの音の下に、何か別の音が混ざっている。誰かの囁き声。誰かの忍び笑い。そして...。


「これで終わります」


最後の言葉が、教室に響く。その瞬間、影が動いた。


給食係の女の子たちが、まるで暗号でも交わすように視線を交える。廊下の三年生たちが、ゆっくりと後ずさる。


机の中のスマートフォンが、冷たい。録音ボタンの感触が、指先に残っている。


美咲が立ち上がる。その背中が、夕暮れの光に照らされて、妙に大きく見える。


「行きましょう」


その言葉には、二つの意味が込められている。

逃げること。

そして、立ち向かうこと。




廊下に出た瞬間、空気が変わった。


雨は上がっていたが、どこからともなく水の滴る音が聞こえる。ポタン、ポタン。その音が、昨日のトイレでの音と重なる。


「こっち」


美咲の声が、かすかに震えている。二人は職員室の前を通り過ぎようとした。


その時、後ろから足音。


「あら、職員室には用事ないの?」


給食係の女の子の声。振り返ると、三人の女の子が立っている。その影が、廊下いっぱいに広がっている。


「私たち、中庭に行くの」


美咲の声が、いつになく強く響く。


「そう」


返事の声が、まるでナイフのように冷たい。


二人は階段を下り始めた。一段、また一段。その音が、心臓の鼓動と重なる。


「早く」


美咲が囁く。でも遅かった。


階段の踊り場で、三年生の男子たちとすれ違う。その目が、獲物を見つけた狼のよう。


「お、妹じゃん」


声が、階段の闇に響く。


全ては予定通り。スマートフォンの録音ボタンが、ポケットの中で光っている。


中庭に出ると、夕暮れの空が見えた。雨上がりの空気が、妙に重い。


そこには既に、十人近くの生徒たちが待っていた。三年生の男子たち。給食係の女の子のお兄さんを中心に、半円を作るように並んでいる。


「よく来たね」


その声には、何かが混ざっている。勝利か。それとも、別の何か。


「お兄さん、元気?」


誰かが声を上げる。その言葉に、みんなが笑う。その笑い声が、中庭の空気を震わせる。


美咲がユキの手を握る。その手が冷たい。でも、その冷たさが、逆に心を落ち着かせる。


「実はさ」


給食係の女の子のお兄さんが、ポケットから何かを取り出した。


「これ、見覚えない?」


それは携帯電話だった。画面には...お兄ちゃんの写真。


その時、誰かが後ろから近づいてくる足音。


振り返る間もなく、美咲が叫んだ。






「今よ!」


その叫び声と同時に、美咲が手を上げた。スマートフォンのカメラが、夕暮れの光を捉える。


「何してんだ!」


三年生の男子が手を伸ばす。でも、遅かった。


シャッター音が、中庭に響く。そして、録音ボタンが確かな手応えを返す。


「消せ!」


誰かが叫ぶ。でも、美咲の指が既に動いていた。送信ボタン。宛先は、教育委員会。そして、警察。


「いいや、もう遅いの」


美咲の声が、不思議な強さを持っている。


「証拠は、もう外に出てる」


その言葉に、中庭の空気が凍る。


給食係の女の子のお兄さんの顔から、血の気が引いていく。手の中の携帯が、震えている。


その時、誰かが走ってくる足音。


「何やってるんですか!」


振り向くと、高木先生。そして、その後ろには...。


「お兄ちゃん...?」


ユキの声が、震える。


お兄ちゃんが立っていた。制服は皺だらけ。でも、目が違う。昨日までの曇りが消えている。その手には、自分のスマートフォン。画面には、録音アプリの表示。


「もう、逃げないよ」


お兄ちゃんの声が、中庭に響く。


「私たちも」


美咲の声。


「だって、見ちゃったから」


ユキの言葉が、夕暮れの空に溶けていく。


誰かが走って逃げ出す。誰かが膝をつく。誰かが携帯を投げ捨てる。


空では、カラスの群れが円を描いている。その影が、地面に落ちる。でも、その影はもう、誰も脅かすことはできない。


録音は続いていた。すべての音を、すべての真実を記録し続けている。


影は、光の前では消えるしかないのだから。


(第1話・完)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『記録教室』 七歳の目撃者 ソコニ @mi33x

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ