式の前日には一緒にすきやきをしよう君は何も覚えて無くていいから

きなこ



あまねちゃんの家は、落葉松林のある神社の真裏の古い一軒家だ。


昼なお暗い鬱蒼とした神社の森が、そのまま裏庭に地続きのようになっていて、通りに面した庭が黒板塀にぐるりと囲まれた、すごく大きな家。


あまねちゃんのおじいちゃんが建てた当初は純和風、数寄屋造りの木造住宅だったけれど、おじいちゃんのひとり娘である点子ママがピアノ教室を始めた時に、お庭の一角に離れを増築したらしい。


赤毛のアンが愛読書の点子ママの好みで、そこだけ緑の切妻屋根の外国風。母屋の規模に比べるとまるでドールハウスみたいに見える小さなお家が、庭の築山の隣でもういない離れの主を今もしずかに待っている。


兄のコウタに連れられてこのお家に来た時、わたしはこの庭の小さな切妻屋根をひと目で気に入って「なあにあの可愛いおうち、あたしあのおうに住む!」と言って、点子ママを笑わせたらしい。


わたしはよく覚えていないのだけれど。


「でも、今となっては、母さんのあの離れも、すっかり物置小屋だ」

「そう?点子ママのあれがあるだけで庭がすごく可愛くなるじゃない?ああ、わたし、点子ママに明日の結婚式、出て欲しかったな」

「母さん?いや、明日の結婚式に出て欲しかったなあって、しみじみ思わないといけない相手はコウタだろ、実の兄なんだから」

「お兄ちゃんは出て当然だからいちいち言わないの、ていうかお兄ちゃんだよ?来るなって言っても来るよ」

「そっか。そうだなあ、コウタって、こころの花嫁姿見たさにお墓から這い出してきそうだもんね」

「それって、お兄ちゃんがゾンビってこと?、嫌だよ、こわいよ」


わたしは明日、三年付き合ったたけちゃんと結婚式を挙げる。


世間様は二十四歳の花嫁を、早すぎるとは言わないらしいけれど、ほんの少し駆け足気味の印象も、持つものらしい。職場や友達に結婚すると伝えるたびに、おめでとうより先に皆、ちょっとだけ声をひそめて「もしかして、おめでた?」と聞くもので、わたしはすっかり辟易してしまっていた。


恋人のたけちゃんは、実家が石川の山奥で、両親と祖父母に兄弟は本人を含む男ばかり五人、親戚は両親の兄弟とイトコ全部を合わせたら五十人くらいいるらしい。


わたしはたけちゃんに家族や親戚が大勢いて、その人達の半分は同じ集落の中で暮らしていて、お盆やお正月以外の時もしょっちゅう集まって一緒に食事をして、畑で採れた野菜や果物を手土産に互いの家を行き来していると聞いて物凄く驚いたけれど、たけちゃんにとって親戚や家族とはそういうもので、ごく当たり前のことなのだそうだ。


だから、今わたしが親戚のことを何一つ知らないし、出会った頃に同居していた『家族』が、全く血のつながりのないあまねちゃんただ一人だったという事実を、たけちゃんに説明して理解してもらうのは、とても大変だった。


「いくら死んだお兄さんの親友だからって、その人と暮らしてるの?なんかヘンじゃない?」


たけちゃんは首を傾げたけれど、わたしの身内と言える人は今、本当にあまねちゃんただ一人なんだから、仕方ない。


「ねえあまねちゃん、これすっ…ごくいいお肉じゃない?どこで買ったの?」

「うーん…まあその、デパートで」

「ウッソ待って、この包装紙って三越の?三越ですき焼き用の牛肉買ってきちゃったの?こんなのすぐそこの肉のハナマサのでいいのに!」

「こころがこの家の子でいられる最後の夜だし、別にいいじゃない、僕のおごり」

「最後って、別にたけちゃんとわたしの家なんて、ここから電車で一本じゃん、来るなって言われてもどうせまたしょっちゅう来るよ、実家の敷居またぎまくり」

「まあそうなんだけどさ、なんて言うか、うーん…僕の気持ち」

「へへへ、超高級なお気持ちありがと。でもさ、このうちってなんかあると絶対すき焼きだよね、昔からそうなの?」

「死んだおじいちゃんが、牛肉好きだったからなぁ、あ、たまごとネギ買ってきてくれた?」

「うん、ひとパック買ってきた。あと、あまねちゃんの好きな下仁田ネギ」

「お、やった」


結婚式の前日に、一緒にすき焼きを食べようと言ったのはあまねちゃんだ。


たけちゃんのご両親が前乗りで石川から出て来るので、式の前日は都会に不慣れなそっちの様子を見に行かなくてはいけないんだとあまねちゃんに言ったら、「それなら、うちにおいで、花嫁が結婚の前夜に一人だなんてだめだよ、寂しいよ」と、あまねちゃんが言ったのだ。あまねちゃんは昔からそう、わたしにいつもとても優しい。


「こころがこの家に来た次の日の晩もすき焼きだったね、覚えてる?」

「覚えてる。わたし、あの日が人生最初のすき焼きだったんだよ、この世にはなーんて美味しい食べ物があるんだろって、ちょうびっくりしたもん」

「大げさだなー」

「ホントだよー?」


わたしは、十歳の時に兄のコウタと一緒にあまねちゃんの家に転がり込み、兄妹で二階にそれぞれ個室を貰って、中学を出て高校を出て大学に入り幼稚園の先生になって、ほんとうについ最近までこの家に住んでいた。


あまねちゃんと、亡くなったあまねちゃんのお母さん、点子ママは、わたしにとって全くの他人だ。あまねちゃんとコウタが中学校の同級生で親友だった。ただそれだけの縁で、点子ママは保護者のいないわたしとコウタを、この家にタダで住まわせてくれていたのだ。


点子ママはあまねちゃんによく似た、細面の優しい面差しの人だったけれど、性格は正反対、それは豪胆で大胆で威勢の良いすてきな人だった。


昔、実の親と暮らしていた頃のことは、よく思い出せない。


小学校の卒業式の直前、『これまでを振り返って、お家の人に育てて貰った感謝の気持ちを書きましょう』なんて授業があって、その時にあらためて自分の生まれてから十歳の頃までのことを思い出そうとしたのだけれど、わたしはあまねちゃんの家に来た日以前のことを、おかあさんは最初からいなくて、おとうさんがあまり家にいなかったこと、代わりにおばあちゃんがいて、それからコウタがいてくれたけれど、いつもお腹をすかせていたってことくらいしか、昔のことを覚えていなかった。


「どうしよう点子ママ、あたしって、ほらあの…若年性ナントカって、頭の病気かもしれない!」

「いやねえ、そんなことないわよ、大人だって案外二、三年前のことなんてちゃんと覚えてないもんよ、そのお手紙は、お兄ちゃんのコウタに宛てて書けばいいじゃない?」


自分はもしかしたら、頭の病気かもしれない。


昔のことをちっとも思い出せないって、ちょっとヘンでしょと、相談したわたしを点子ママは笑った。そういうことはままあるものだし、こころちゃんには、コウタもあまねもあたしもいるじゃないのと。


それでわたしは、ママの言う通り卒業式の日に渡す『家族への手紙』を、コウタと、あまねちゃんと、点子ママの三人に書いた。


高校を出たあと、点子ママの紹介でイタリア料理店に就職していたコウタには、お仕事で貰ったお給料を半分、わたしのために貯金してくれてありがとう。当時大学生だったあまねちゃんには、いつもお勉強を教えてくれてありがとう。二人にはそれぞれ、百均で買った無地の便箋にひとこと書いただけの手紙を渡し、点子ママには、鳩居堂で買った桜の花びらを散らした便箋二枚いっぱいに感謝の言葉を綴った。


あちこちシミだらけで、生地の伸びきったコウタのお下がりばかり着ていたわたしに、桃色のチュールレースのスカート、水色のカシミアのカーディガン、赤いウールのダッフルコート、レース襟のついた黒いベルベットのワンピース、白いエナメルのストラップシューズ、夢みたいにきれいなお洋服をいっぱいクローゼットに詰め込んで「これ、全部こころちゃんのよ」と言ってくれたこと、点子ママの部屋にあるスタンウェイのセミ・コンサートピアノを「いつでも弾いていいのよ」と言ってくれたこと、毎朝、色とりどりのサテンのリボンで綺麗に髪を結ってくれること、週末によくわたしが好きなお砂糖ごろものレモンケーキを焼いてくれること、点子ママのお家にきてからは、毎日が魔法にかかったみたいにすてきに輝いていること、ぜんぶぜんぶ、いつも本当にありがとう。


手紙を渡した卒業式の日、点子ママは「年取ると涙もろくなってだめね」なんて言って、ハンカチで何度も涙を拭いていた。この時わたしが着ていたのは点子ママが卒業式のために特別に誂えてくれた、花嫁のようなアンティークレースのワンピース。点子ママが目の前で手紙を読み返しては涙をぬぐう、それがなんだか恥ずかしくて、わたしはひとりでずっとにやにやしていた。


**


わたしとコウタがあまねちゃんの家に身を寄せた時、わたしは十歳で、コウタは十七歳、高校二年生だった。


コウタによると、それまでわたしたちの面倒を見てくれていたおばあちゃんが死んで、そのあとすぐ、おとうさんがどこかに行ってしまったのだそうだ。週に六日、ピザ屋でアルバイトをしながら定時制高校に通っていたコウタに、十歳のわたしの親の代わりを、特に母親の代わりをやるなんて芸当は、とてもできなかった。


あの日、しんと冷たい空気が体に纏わりついて離れてくれなかった十二月の晩、広大なあまねちゃんの家のお勝手口から、一階の廊下の突き当りあるあまねちゃんの部屋に忍び込んで、「どうしよう、どうしたらいい?」と、かすかに震える声で自分よりあたまひとつ背の低いあまねちゃんに縋りつくコウタを、あまねちゃんは「大丈夫だから」と何度もなだめて、点子ママに、わたしたち兄妹をすこしの間この家においてあげてほしいと頼んでくれた。


あまねちゃんのお家は、点子ママとあまねちゃんの二人暮らし、広大なお屋敷にはお部屋がたくさん余っていたし、お屋敷の他にも、亡くなったおじいちゃんが点子ママに遺した土地やビルや駐車場がいくつもあって、まだ世の中の理をぜんぜん知らない子どものわたしの目にも、至極裕福そうに映った。


点子ママは「全部あたしにまかしておきなさい」と胸を叩き、わたし達兄妹に軒先を貸してくれるどころか、それぞれに自室を与え、そこからコウタを学校に通わせ、更には「あたしね、ほんとのとこ、女の子が欲しかったのよ」なんて言って、実の息子のあまねちゃんがちょっとひがんでしまうくらい、わたしのことを可愛がってくれた。


「母さんのこころびいきはもう、僕もコウタもちょっと引いてたっていうか、凄かったもんなァ」


あまねちゃんはフフフと笑うと、牛脂を溶かした鉄鍋の上に芸術的なサシの入った牛ロース肉をそーっと乗せた。ジュウといういい音がして、脂の焼ける甘い匂いが部屋中に満ちる。


「そうかな」

「そうだよ、僕の公務員試験の前日に、こころにって伊勢丹で買ってきた、ラ…なんとかってブランドのきれいなワンピース着せてさ」

「それ、ラルフローレンの?わたしのお気に入りだったスミレ色のやつかな」

「それだ、それ着せてさ、あたしこころちゃんとコンサートに行って、帰りにホテルのダイニングでお食事してくるから、あんたは適当に冷蔵庫のもの食べときなさいよ、とかってさ」

「あれは、点子ママが、学生時代にお世話になったピアノの先生のコンサートに『ぜひ来てね』って誘われてたからでしょ、行かないと悪いからって。あ、お砂糖もういい?」

「そうだっけ?あれっ、砂糖はネギ入れてからじゃなかった?」

「えっ?そうだった?」

「コウタがいてくれたらな、母さんのすき焼き、完コピしてたから、コウタ」

「そうだよねー、点子ママのすき焼きもカキのグラタンもレモンケーキも、ぜーんぶコウタが点子ママのレシピを引き継いだんだよね。点子ママが入院してる時、毎日病院に通ってたのわたしなのにさぁ」

「そうだよね、こころにはすごく、感謝してる」

「やだ、そういう話じゃないよ」

「わかってるよ。でも、あの頃、こころとコウタがうちにいてくれてホントによかったなって、僕は思ってるからさ。あの時の僕ってほら、まだ働き始めたばっかりで、そうじゃなくても、うちは母一人子一人で、他にきょうだいもいないし、あれってホラ…あれ?僕あの時いくつだった?」

「二十四になったとこだった」

「そうだ。そんなまだまだ世間知らずな人間が一人で母親を看取ってその後、このただ広いだけの家に一人残されるなんてこと流石にね、だから二人がいてくれてホントに助かった」

「ほんとに?」

「ほんとだよ」


***


点子ママの体に巣食うがんが見つかったのは、わたしが中学三年生になった春のことだ。


それは、その年の二月ごろから「ヘンな風にお腹が痛いのよー」と言っていたママを、わたしが無理やり病院に引っ張っていって発覚したのだけれど、もうずいぶん進行していた。点子ママは、家の近くに出没した変質者を木刀で撃退し、家の中に出たゴキブリはモロッコ革のスリッパを振り上げて即仕留める豪傑のくせに、注射が嫌いで採血が怖くて、病院が大嫌いだった。


―わたしのことを掛け値なしに愛してくれる点子ママが死んでしまう。


その事実が当時十四歳のわたしにはとても重くて、受け止めきれないくらいに哀しくて、点子ママの体調がいよいよ悪くなって入院すると、わたしは学校の帰り、点子ママがお月謝を支払ってくれていた学習塾を公然とサボり、毎日点子ママの病室に通い詰めた。土曜と日曜は、それこそ朝から晩まで。


病院の食事がひとつも喉を通らない日が続いて、立ち枯れの柳みたいに痩せてゆくママのために、ママの好物の千疋屋のゼリーを買ってきて口に運び、ベッド上安静が解かれないせいでお風呂に入れない点子ママの髪や顔を蒸しタオルで拭いて、病気が進行して点子ママがうとうと眠るだけの人になってしまうと、点子ママのお布団に潜り込んで、「ママ、あたしを置いて死なないでね」と呟き、痩せたママの腕や肩を一生懸命さすって、めそめそ泣いた。


「でもわたし、結局点子ママのお布団に潜り込んで死なないでーって泣くだけで、今になって思えば迷惑な子だったと思うよ。もしかしたら点子ママは、人よりちょっと短い人生だったけど、ピアノの先生しながら女一人で息子を立派に育て上げたんだーって、自分の人生っていうか、運命みたいなものを見定めてさ、潔く死んでゆくつもりだったかもしれないのに」

「そんなことないよ、母さんはこころが毎日付き添ってくれて嬉しかっただろうし、こころのことが心残りだったはずだよ。『あんた達こころちゃんがお嫁に行くまでちゃんと見届けなさいよ』っていうのが、母さんの僕とコウタへの遺言だったんだから。俺はともかく実の息子のあまねにはもっとなんか他に言うことあるだろって、コウタなんかちょっと笑ってたよ」

「うそ、そんなこと言ってたの?お嫁にいくまでって?点子ママってそういうとこ、なんて言うのかなあ…ちょっとだけ古いよね」

「母さん昭和生まれだからなあ。生きてたら、たしかもう還暦だよ」

「もうそんななるんだ。じゃあ、コウタは点子ママの遺言、守れなかったってことになるね」

「それは…仕方がないよ、コウタは何にも悪くない、あれは不慮の、不幸な事故だったんだから。それに母さんの遺言はちゃんと僕が守ったよ、今日」

「えっ、それで今日すき焼きしようって誘ってくれたの?」

「まあ、こころの結婚を見届けろっていう母さんの遺言のためでもあるけど、こころがいつか結婚するって言い出したら、相手がいいやつかどうか一緒に見極めてくれって、それで最後の晩は『幸せになれ』って言って一緒に送り出してくれって、僕、コウタに言われてたから」

「フフッ、なにそれ、みんなわたしのいないとこで勝手にさ」


コンロの上でぐつぐつ煮える鍋の中から、あまねちゃんはわたしが随分と太く切ってしまったネギをつまみ、わたしは焼き豆腐と一緒に春菊を拾った。広いダイニングでふたり、「そっち煮えてる?」「それまだ生だよ」なんて言っていると、世界にふたりきりしかいないような気分になって、それがなんだか寂しくて、わたしはつい、ここにもういない点子ママの思い出話をした。そうしていたら、本当は今日、あんまり口にするつもりじゃなかったコウタの話も出てきてしまった。


****


コウタは、点子ママが亡くなった三年後の台風の晩、勤め先のレストランからバイクで帰宅する途中に、事故に遭って死んでいる。


トラックが強風に煽られてバランスを崩し、車体がぐらりと大きく傾いた拍子に、慌ててハンドルを大きく切ったトラックに跳ね飛ばされたのだ。ヘルメットに守られた頭と顔はきれいだったけれど、道路に強かに体を打ち付け、腕、脚、胸骨に十数か所の骨折、内臓は修復不可能な程ぐちゃぐちゃになっていたらしい。


コウタは、妹のわたしが言うのもなんだけれど、背が高くて、髪はさらさら、目鼻立ちの整った綺麗な顔をしていて、あまねちゃんみたいに頭は良くなかったけれど、誰にでも分け隔てなく優しくて、妹のわたしにはいちいち心配性な、すごくいい奴だった。


コウタのお葬式には、勤め先のレストランの同僚や、お店の常連さん、通っていた定時制高校や中学の頃の友達、ほんとうに沢山の人が来てくれた。皆、コウタには九歳年下の妹のわたし以外、身内がひとりもいないことを知っていて、わたしのことを心配してくれていた。コウタの勤め先の人達なんて、その日はお店を臨時休業にして全員で葬儀を手伝いにきてくれたくらいだ。


参列者の人達は、コウタを亡くし、とうとう天涯孤独になってしまったわたしを、「元気を出すんだよ」「いつでもお店においで」なんて口々に慰めてくれた。皆、わたしが涙ひとつ零さず、虚ろな表情でぼんやりとしているので、わたしがたった一人の兄を亡くした哀しみで茫然としているのだろうと思っていたようだけれど、わたしは葬儀会場をすべて仕切ってくれたコウタの勤め先のオーナーシェフに、「きみ、これ持っときなさい」と持たされたお位牌を抱えて、本当にただぽかーんとしていただけだった。


祭壇を飾る優しい白百合も、会場にふんわり漂うお線香の煙も、黒いリボンの額縁の中でばかみたいに笑うコックコートのコウタの遺影も、なんだかウソみたいな、まるで夢みたいな、誰かの作ったお芝居の書き割りのように映って、とても本当のことには思えなかったから。


でも、あまねちゃんは違った。


あまねちゃんは葬儀の間ずっと滂沱の涙、身体を震わせて、言いようもなく辛そうな顔をしていた。


実の親である点子ママのお葬式では、ばかみたいにワンワン声をあげて泣き続けるわたしの背中を優しくさすって、「だいじょうぶだ、僕とコウタがいるよ」と言い続けてくれたあまねちゃんは、コウタの遺骸を荼毘に付すための斎場で、コウタの棺に縋って「いやだ」と泣き叫んだ。男の人としてはどちらかというと小柄で細身のあまねちゃんをコウタの棺から引きはがすのに、大の男の人が三人がかり、それも渾身の力で引っ張らないといけなかった。あのなだらかななで肩のあまねちゃんの体の、一体どこにこんな力があるのかと、わたしはとても驚いたし、お陰でコウタはなかなかお骨になることができなかった。


「いやだ、コウタ、だめだよ、いかないでくれ」


わたしは、大人の男の人が慟哭する姿を、あのとき生まれて初めて見た。


*****


「あまねちゃんさ、ひとつだけ、聞いていい?」

「なに?」


すき焼きの後半、お正月からずっと冷凍室の中で眠っていたらしいお餅が投入された頃、わたしは思い切ってあまねちゃんにひとつ質問をした。ずっと「そうだろうな」と思っていたことを。


「あまねちゃんはさ、その…コウタの恋人だったんだよね?」


鍋の中のお餅の煮え具合を見ていたあまねちゃんの箸が、ぴたりと止まった。


でも、わたしの直球すぎる問いを、あまねちゃんは否定しなかった。


「…やっぱりちょっと、こころはショックっていうか、気持ち悪いっていうか、ヘンだと思う?僕と、コウタが…その…僕らがあの…」

「ぜんぜん。むしろよかったーって思ってる。羨ましいって言うか。だって、わたしが今死んでも、たけちゃんはあんな風に泣いて棺に縋ってくれないだろうって思うしさ。あまねちゃんは、コウタのこと最後までずーっと、物凄く好きでいてくれたんでしょ」

「明日結婚する人が何言ってんの、武志君はこころのことが大好きだしすごく大事に思ってくれてるよ。まあでもその…確かにコウタのことは、あの六年前の葬儀の時の醜態の通り、気が狂うほど好きだったよ、どちらかと言うと僕の方が一方的に」

「えっ、じゃあ付き合ってなかったの?」

「付き合うっていうか、なんとなく一緒に居たって感じかな。男同士だとこころと武志君みたいに結婚なんてちゃんとした約束はできないし、そもそもコウタはこころを守るためにずっと必死だったしね。僕はコウタと一緒にいられるだけでよかったんだ、それだけで幸福だったし感謝もしてる。なにしろコウタは妹を頼むって、僕にこころを遺してくれたんだから」


あまねちゃんは、鍋の中からお餅をひとつつまみ上げて、わたしの器に入れると、「コウタには感謝している」と言った、ものすごく寂しそうな笑顔で。


「あまねちゃんはさ、このままこの家にひとりでいるの?」

「なに?今度は老後とかそういう話?」

「違うよ、もうだれも好きになったりしないの?それか今付き合ってる人とか…」

「いないよ、だって僕はほら、コウタのことを、あの通りちょっとおかしくなるくらい好きだったから、それが一時でも叶っただけでもういいやって思ってるんだ。多分このままこの家でひとり、静かに暮らしてく」

「さみしくないの?」

「べつに、だってこころは勝手にしょっちゅうこの家に帰ってくるんだろ、ここはこころの実家なんだから」

「そっか」

「そうだよ、こころのことだから、ちょっと武志君と喧嘩したら『実家に帰らせていただきます』って啖呵切って、ここに泊まりにくるつもりだろ」

「ばれてたか」

「こころの部屋は、そのままにしておくよ」

「やったー」


わたしは笑って、あまねちゃんも笑った。


******


『すき焼きのシメはうどん』という点子ママの決まりをこの日は取りやめにして、わたしはたけちゃんと暮らしているアパートに返されることになった。「食べ過ぎて明日ドレスが入らなかったらどうするの」とあまねちゃんが言うし、たけちゃんももうご両親をホテルに送り届けて戻っている様子で、「待ってるよー♡」なんて、LINEが来ていた。


わたしが電車で帰ると何度も言ったのに、帰り道になんかあったらどうするのと、あまねちゃんはタクシーを呼んで、それにわたしの身体を押し込んだ。もちろん支払いはあまねちゃんだ、あまねちゃんも点子ママも、わたしにお財布を開かせてくれたことがこれまで一度もない。


「じゃ、明日十一時だからね、わたしの親族はあまねちゃんしかいないから、絶対来てね」


「言われなくてもちゃんと行くから、こころこそ寝坊しちゃだめだぞ。あ、運転手さんこの子、明日花嫁なんで、なるだけ安全運転で」


そりゃ大変だ、大切にお運びしますよと笑う運転手さんにそっと半分に畳んだ一万円を渡したあまねちゃんが、扉が閉まる直前にひとこと


「幸せになれ」


そう言った声が、まるでコウタの声のように聞こえて、いや違う、二人の声が重なっているように聞こえて、わたしはタクシーの中で少しだけ泣いた。


*******


コウタが僕に「こころのことを頼みたい」と言ったのは、六年前、事故でコウタが死んでしまった頃のことじゃなくて、こころが十歳でコウタが十七歳だった、あの晩のことだ。


あの晩、コウタは実の父親を、自宅の台所にあった古い三徳包丁で刺殺していた。


コウタは最初、妹のこころをぼくに預けた後にひとりで警察署へ行き、自首するつもりでいたらしい。


もともと庭がやたらと広い僕の家は、夜になると表通りの車の音も、人の声も殆ど家の中には届かない。時折ノラネコが迷い込んで喧嘩をすることがあるけれど、普段は風で庭木が揺れる音がするだけで、いつも大体しんと静かだ。


それがあの日、真夜中に廊下をひたひたと歩く人の足音がして、それで僕はてっきり強盗でも入ったのかと、身がまえたのだけれど、一階の一番奥にある僕の部屋の扉を遠慮がちにこんこんと叩いた足音の主は、コウタとだった。


「コウタ、どうしたの、その…こんな時間に、その子なに?あ、妹?」

「あまね、どうしよう、俺、どうしたらいい?やっぱりもう、自首するしかないよな?」

「落ち着いてよ、どうしたんだよ」


ひどく取り乱した様子のコウタとは対照的に、コウタの大きなダウンジャケットを着せられたこころは無表情で、眠たいのか、それとも疲れているのか、なんだかぼんやりとしていた。


こころはこの時、靴下も履かずに裸足で、羽織っていたダウンジャケットの中は下着だけ、よく見ると体のあちこちにはアザや軽い出血があった。こころが小さな女の子ということもあって、僕はあわてて母を呼びに行った。


たまらなく嫌な予感がした。一体この小さな女の子の身の上になにがあったのか、僕はコウタに直接聞く事ができなかった。


僕に寝入りばなを起こされた母さんは、僕のベッドにちょこんと座っているこころの姿を見て一瞬顔をこわばらせた。でも、その後すぐに優しい笑顔を作り「ね、おばちゃんのお部屋に行こうか、ピアノがあるのよ」と言って、こころを自室に連れて行くと、その晩はひとまずそこで寝かせ、翌朝、知り合いのやっている婦人科のあるクリニックに連れて行った。


こころの下半身の内側には、ひどい裂傷があったらしい。


でも当のこころは、自分の体に一体何があったのかよく理解していないというか、何も覚えていない様子だった。何を聞いても「わかんない」「怖い夢をみたの」「転んでけがしちゃった」と言うだけ。医者は、人間はあまりにも辛いめに遭うと、自分を守るためにその時起きた事をすっかり忘れてしまうことがあるのだと言ったそうだ。


母さんはコウタの自首を断固として、反対した。


「コウタ、あんた自首するって言ったって、そうなったらこころちゃんは独りぼっちになるのよ。それに警察に行けば、どうして父親を刺すに至ったのか、それまで何があったか、こと細かく言わなくちゃなんないの、裁判になれば記録だって残る。でも、こころちゃんは自分に一体何があったのか何も覚えてない、忘れてしまっているのよ、だったら」


母は、コウタのアパートの台所に転がっているコウタの父親を、旅行用の大きなトランクに詰めて車でこの家に運び、あの切妻屋根の離れの床下に深い穴を掘って埋めてしまおうと言った。


「どうせ碌に働きもしていない、こんな小さな子を置いてどこかにフラフラ行っちゃうようなロクデナシが行方不明になったところで、誰も不思議には思わないわ。そんな親のためにコウタが捕まる事ないのよ、この人がやったことはね、人間のしていいことじゃない、鬼畜の所業よ」


実際に、コウタの父親は無職で、生活費は老母の年金と、まだ高校生の息子のバイト代頼み。この時は三か月程どこかに姿をくらましていたのが、手持ちの金銭が尽きて、ひょっこりと帰って来ていたのだそうだ。


穴は僕らとコウタが掘って、死体はトランクごと母さんがその穴に放り込んだ。


そうして僕とコウタと母さんは、渋滞な秘密を共有し、一緒に暮らすことになった。


こころとコウタの父親の死体を埋めた離れは、沈黙と共にこの秘密を守り、こころの成長を見守り、それから母とコウタを見送った。母さんが鬼畜と呼んだその人の躯は、僕とコウタに一生消えない証を残してくれた。


こころを守るために死んでもあの夜のことを口外しないこと、そうして、この秘密を死ぬまで僕と一緒に守ること。


母さんがあの晩、あまりにも勇猛に、そしてひどく冷静に「そんなろくでもない父親なんてうちの離れの下に埋めたらいい」と言い放って、それを実行するに至ったその理由を、ぼくははじめてコウタと寝た日に思い出している。


僕の体に覆いかぶさるコウタの体温と体の重みが、僕が十二歳の時に居なくなった父親のそれと同じだったのだ。


あの時の僕は興奮と羞恥とで、僕の髪や頬に優しくキスをするコウタの首にぎゅっとしがみ付いていたけれど、父親が僕にのしかかって僕の下半身をまさぐって来た十二歳の時、僕はとても怖くなって「やめておとうさん」と、思わず大声をあげた。そうしたらその声を聞いて僕の部屋に飛んで来た母さんが、廊下に飾ってある古伊万里の大きな壺で、その人の頭を思い切り殴った。


あの離れの床下にはこころを犯した父親と、あともうひとり、僕が十二歳の時に行方不明になった僕の父親が埋まっているはずだ。


ちゃんと確かめたことは、ないけれど。


明日、花嫁のこころはきっととても綺麗だろう。こころはいつも「そんなことないよ」と言うけれど、こころは兄のコウタに似た、とてもきれいな顔をしているから。


僕とコウタと母さん、三人がずっと大切に守ってきたきれいなこころ。


「幸せになれ」


ぼくはもう一度コウタに託されたこころへの言葉を呟いて、静かに庭の築山の隣に建つ、緑の切妻屋根を見た。

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